第34話 石井先生ー2

 石井先生が黙ったので、俺も黙った。

 風がおさまると、やがてまた石井先生が話し始める。いつもはすらすらとよどみなく話す石井先生がずいぶんためらいがちで、よほど気まずい話なのだろうかと、俺は身構えた。


「『在外研究に行くからという理由だけで結婚するのは、ちょっと違う気がしてきた』――いや、もう少しまともな言い方はしたかな――まあ、とにかく『今はまだ結婚する時期じゃない気がする』みたいに言ったんだ。彼女は英語が苦手だったから、連れて行けば俺が何かと面倒を見る場面が増えて研究のための時間が取られるんじゃないかなとも思った。彼女は三歳年下で、仕事では――大手企業の総合職だ――責任あるポジションに着いたばかりだったから、それを俺のために放り投げてまで結婚したいのか? という気持ちもあって。もし帰国して再就職できなければ、主婦になった彼女をずっと俺が養うのか。それって、一生働きたいと言っていた彼女の希望と違うな、たった二年の在外研究のためにキャリアを棒に振らせていいのか、とかなんとか。まあ、自分に都合のいい言い訳だよね。帰国してもまだ三十代前半の優秀な彼女が、再就職できないはずなんてないんだから」


「最初に在外研究と結婚の話を出したのって、先生なんですよね?」


 俺は思わず確認してしまい、先生は頷いた。


「ああ。好きだったし、私の場合は二年だったけど、それでも日本と米国で遠距離をするのは長すぎると思った。だったら結婚だなと。俺はちょうどそういう年齢だったし、彼女にしたって、三十一、二歳は適齢期だといえるだろう。でも勝手なもので、本当に行くとなったら、せっかく講義や雑務から解放される貴重な二年間、思い切り研究に打ち込みたくなったんだ」


 先生はため息をついた。


「研究者全員がそうというわけじゃないが、気になるテーマや課題があると、そのことばかりが頭を占めて他に関心が向かなくなるタイプは多いし、マイペースで自己中心的な性格の研究者も多い。私はそうだし、笹井君もそうだろう? 商社の激務が嫌になったとはいえ、研究への興味が勝って会社を辞めたのもその一端といえると思う。これは研究者として必要な資質だと私は思うし、研究面ではいい方に働くことが多い。だけどプライベートとなると、自分以外のことをなおざりにしがちになるという欠点がある。そのことはよく覚えていた方がいい」


「はい――それでその彼女さんは――」


「もちろん、怒ったよ。『付き合って間もない頃から在外研究に行くときは結婚って言っていたよね。だから私はそのつもりでいたのに。普通のカップルみたいにデートしたり一緒に過ごす時間が少なくても、研究に打ち込んでいるあなたが好きだから、邪魔しないように、私は私の時間を一人で楽しく過ごすようにしていたのに。そういう気遣い、わかっていた?』――そう、聞かれた」


「なんて答えたんですか」


「『はい、わかっていました』と。おかしなものだな、彼女の静かな迫力に敬語になったことを今でも覚えてる」


 先生は自嘲気味に笑った。


「で、俺たちは食事していた店を出て、それぞれの部屋に帰った。翌朝、メールが来ていた」


『石井さん 五年も付き合ったのに、今になって結婚を迷うようなら、私たち、だめです。今までどうもありがとうございました』


「それで、終わりですか?」

「いや、終わりじゃない。私は彼女のメールを見てはじめて、自分のしでかしたことの大きさに気付いた」

「すぐに謝ったんですか?」

「いや、それもできなくて」

「じゃあ、どうしたんですか?」

「一週間、考えた」


 ここまできてまだ一週間考えるなんて、悠長というかなんというか、石井先生はよほど結婚したくなかったんだろうか。


「それでやっと、彼女に電話した。電話する直前までずっと迷っていて、電話できたのは、深夜、日付が変わってからだった」

「すごい迷惑な時間ですね」


 思わず言ってしまい、先生は俺を見て笑った。


「ほんとだよな」

「で、彼女は出てくれたんですか」

「ああ。彼女の声は、寝ぼけていた。ああ、この人は俺と別れても普通に夜眠れるんだなって、妙に冷静に思ったのを覚えてる」


 先生は言葉を切った。続きが気になる俺は、先を促す。


「それで?」

「ここから先、本当に誰にも言うなよ?」

「約束します」

「素直な気持ちを伝えた。『よく考えたら、やっぱり直子さんがいいです』みたいな」


 彼女は直子さんというのか。


「彼女は『ふうん』って言った」


 先生は遠くを見た。


「なんだか少し、勝ち誇ったような声に聞こえた。気のせいかな――まあ、それでとにかく何とか許してくれて、結婚して今に至る。ちなみに俺はもう一つしでかしていて、その電話できちんとプロポーズできなかったんだ。情けない謝罪の電話がプロポーズ代わりになってしまい、妻はいまだにそのことを根に持っている。『あなたはお詫びの電話をかけてきただけで、ちゃんと「結婚してください」とは言ってくれなかった』と。『しかも、よく一週間も待たせたよね。あの時私は完全に終わったと思っていて、ショックで毎日食パン一枚しか食べられなくなって、毎日泣きはらしていて仕事に行くのもやっとの状態だった』とか、『嘘だと思うかもしれないけど、石井さんが電話してきた翌日に職場の人から結婚前提の交際を申し込まれて、石井さんの電話が一日遅かったら私たぶん、他の人と結婚してた』と、年に一度くらいかな、いまだに言うよ」

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ありふれた恋の話 オレンジ11 @orange11

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