第33話 石井先生
希和は幸一郎さんを俺に渡し、玄関を出て行った。
パタンと閉まったドアを前に、俺は呆然と立ち尽くした。
これじゃ麗奈の時の二の舞だ。
五年があっという間? とっさの言い訳とはいえあんなことを言うなんて、俺はバカか。
「留学を考えているんだ。期間は五年」
初めてつばめで食事をした時――希和に付き合ってくれという前に――伝えておけばよかったのだ。
でもあの時は今ほど具体的じゃなかった。留学について調べ始めた程度で、漠然としたものだった。もしもっとはっきりしていたら――いや、俺は言わなかっただろうな。現に、これまでも黙っていたし、まだしばらく伝えるつもりはなかったのだから。
それに比べて希和はどうだろう。
初めて俺の気持ちを伝えた時、聴覚障害であることはもちろん、結婚や子供のことまで正直に伝えてくれた。そこにあったのは誠実さだ。
やってしまった。
「ニャン」
腕の中の幸一郎さんの声で俺は我に返り、幸一郎さんを床に置くと、希和の後を追った。
「希和!」
角を曲がろうとするその背中に声をかけ、ああ声は届かないんだと全力疾走し、その肩に手をかける。立ち止まって振り返った彼女の目は赤かった。
「希和、ごめん」
「謝るのが遅い」
「ごめん」
「今は、『いいよ』って言えない。時間をください。考えさせて」
「――別れたいってこと?」
「わからない。驚きすぎて。何からどう考えたらいいのかわからない」
「希和」
「しばらく落ち着いて考えたい。文哉からは、連絡してこないで。ナポリタンとスムージー、ごちそうさま。じゃあ」
「また」はないのか。
希和は背を向けると、角を曲がって行ってしまった。
四月に入り、大学構内の桜並木が満開になっても、希和から連絡はなかった。
冬の間この並木の下を歩くたびに、
「今年は二人で見られるね。春になったらお花見しよう。幸一郎さんもキャリーケースに入れて」
と希和が何度か言っていてとても楽しみにしていたので、もしかして桜が咲いたら連絡があるのではと期待を抱いていたのだが、一向にその気配はない。
俺からは連絡してこないでと言われたが、もう、あれから三週間だ。桜を口実にメッセージを送ってもいいのではないか――土曜日の朝、まるで雪のように舞い散る桜の花びらの中、ベンチに座っていた俺は、ポケットからスマホをだした。その時。
「笹井君?」
この声は。
顔を上げるとそこには石井先生――この大学での俺の恩師だ――が笑顔で立っていた。
「はは。そりゃ彼女は怒るよ。笹井君が全面的に悪い。よくそこまで怒らせるようなことをしたね」
舞い落ちる桜を見上げながら、俺の隣に座った石井先生は笑った。
俺は希和とのことを話してしまったのだ。友達でもなく、渡会さんでもなく、恋バナなど一度もしたことのない恩師に突然こんな話をするとは、俺だけの胸に抱え込んでおくのはもう限界だった、ということなのだろう。でも、案外いい相談相手かもしれない。先生の左手薬指には指輪がはめてあって、ということは結婚しているということで、それはつまり、お見合い結婚でなければ普通に恋愛したことがあるということだから。
「で、しばらく悩んで笹井君の気持ちはどうなったの」
「……それが、まだはっきりしなくて。情けないことに。希和――彼女とは一緒にいたいんです。でも海外での五年間、僕一人ならまだしも、彼女の生活まで支えられるのかとか、僕のために彼女の大切な仕事を辞めさせてしまっていいのかとか、そもそも海外で博士を取ること自体すごく大変なのに、彼女とのことまで犠牲にしてやるべきことなのかとか――」
そこまで話すと、また先生は笑った。
「うんと悩んで決めればいい、と私は思うよ。もっとも最終的な決定権は彼女の方にある感じがするけど」
「しますか」
「うん」
「先生が在外研究に行った時はどうだったんですか」
石井先生は日本で博士号まで取っているが、ゼミで俺たちを受け持つ直前、二年間サバティカルを取って海外の大学で研究していた。
「その時先生って、おいくつでしたっけ」
「三十四~三十五」
「すでにご結婚されてたんですか?」
「まあ、うん。そうだね……」
石井先生が言葉を濁し、それまで舞い落ちる花びらに向けていた視線を、俺に向けた。
「笹井君、秘密守れる?」
「秘密? はあ、守れと言われれば。いや、犯罪とかに関係ないことならっていう意味ですけど」
「その点は大丈夫。これは助言というか何というか――そうだな、担当教官らしいことをほとんど笹井君にしてあげられなかった代わりとでもいおうか。何かの参考になるかもしれない話をしようと思う」
そうして石井先生は、とつとつと話しだした。
「当時、付き合って五年経つ彼女がいてね」
「まさか、在外研究のこと直前まで黙ってたんですか」
俺が聞くと、先生は笑った。
「笹井君と一緒にしないでよ。私はちゃんと話してた。それもけっこう早い段階で。在外研究が決まったら結婚して一緒に来て欲しい、とまで言っていて、彼女も了承していた。それが、いざ詳細が決まった途端、迷いが――怖気づいたというのかな――生じて。彼女に言ってしまったんだ」
激しい風が吹き、桜吹雪が舞った。
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