第32話 留学

 目を覚ましたのは深夜だ。

 幸一郎さんが廊下でうるさく鳴いている。

 希和は俺の横ですやすやと寝息を立てていて、ああ、本当に聞こえないんだなと、彼女の聴覚について改めて認識する。


「ごめんな、閉め出して」


 希和を起こさないようにそっとベッドを出て幸一郎さんを部屋に入れてやったのだが、怒っているのだろうか、


「……」


 幸一郎さんは返事をせず、真っすぐ部屋を横切ってベッドに飛び乗ると、希和の頭の横に座り、その額を右手で押した。


「あ、こら。やめろ。起きちゃうだろ」

「ニャン」


 俺が止める前に幸一郎さんは、その鼻先を希和の額にくっつけた。


「……ん…………」


 無意識に自分の額に触れようとした希和の手に、幸一郎さんが今度は頭をこすりつける。


「……幸一郎さん?」

「ニャン」

「……いつもかわいいねえ」


 寝ぼけながらも、希和は両手で幸一郎さんの頭を包むようにして、モフった。


「ニャオン」


 幸一郎さんは希和の手から逃れて枕元で三角座りをすると、希和を見下ろして短く鳴いた。その少し不満げな響きで、俺は幸一郎さんの言いたいことがわかった。枕もとのスタンドを付けて、希和に説明してやる。


「『そこは自分の場所だからどけろ』って言ってる」

「そうなの? 前、足元で眠ってるって言ってなかった?」

「そうだったんだけど、ここ三ヵ月くらいかな、寝場所が変わったんだ」

「そっか。ごめんね、幸一郎さん。場所取っちゃって」


 希和が体を起こすと、幸一郎さんはそれまで希和の頭があった場所にその体を落ち着け、くるりと丸くなった。


「ふふ。かわいい」


 その様子を見て希和は笑い、あくびをした。


「寝よう」


 まだ二時だ。


「うん」


 そうして俺たちは狭いベッドで川の字になってまた眠りに落ち、それぞれが寝返りを打とうとするたびに目を覚ましつつ、朝を迎えた。



「日曜日も早起きなんだね」


 朝五時半。希和は感心しながら、俺の作ったスムージーを飲んでいる。


「おいしい」

「そう? よかった。幸一郎さんがお腹空かせて俺の耳元で騒々しく鳴くから、土日関係なく、朝五時に起きざるを得ない。猫の体内時計って、かなり正確らしいんだ。希和にはもっと眠っていてほしかったんだけど、あいつ、俺を起こすより先に希和に鼻くっつけたもんな」


 それで希和の方が俺より先に起きてしまったのだ。


「どんな騒々しさなんだろう。聞いてみたいな。人間の声って一人一人違うでしょ? 猫も?」

「違うよ。人間ほど大きな違いはないように感じるけど、個体差はある。幸一郎さんの声はちょっと高めで意外とかわいい。あ、でもその時によって鳴き方を使い分けるな。木に登って降りられなくなった時は、聞いたことのない切羽詰まった鳴き方だった」

「へえ……。おもしろいね。……鳩は? 鳩も個体差がある?」


 予想外の質問に俺は思わず笑ってしまったのだが、すぐに、希和にとっては極めて真面目な疑問なのだと気付いた。


「笑ってごめん。鳩は――考えたこともなかったけど――俺にはどの鳩も同じ声に聞こえる。いや、正確にいえばドバトとキジバトで違うな。見たことあるよね、首のところが光ってる鳩と、茶色くて地味なやつ」

「うん。種類が違うから鳴き方も違うんだね」

「そういうことだと思う」

「今日もまた勉強?」

「うん。勉強、研究、留学準備――」


 しまった、と思った。留学についてはもう少ししてある程度めどが立ったら話そうと思っていたのに、つい、口に出してしまった。希和が見逃してくれているといいのだが――そう思って彼女の顔を見る。希和は俺の口元を凝視していて、考えを巡らせている様子だったが、少しして視線を上げ、そして聞いた。


「最後、何て言ったの? 勉強、研究、それと何? 何の準備?」

「――留学準備」


 机の上にあったレポート用紙を取ってきて、ペンで書いた。


「留学するの?」

「できれば、したい」

「いつから?」

「計画通りに行けば、来年の秋から」

「一年? 二年?」

「五年」

「今、五年って言った?」


 希和が目を大きく見開き、右手のひらを広げて俺に見せたので、俺は頷いた。


「五年も行くの?」

「ああ。でも夏休みは三ヵ月くらいあるから、多分その間日本に帰って来られるかもしれないし、希和も有休取って遊びに来れば、五年くらいあっという間に」

「過ぎないよ!」


 希和の声は大きかった。


「考え始めたのは、いつ?」

「初めて希和と食事した頃から」

「なぜ、そんな大切なことを今まで教えてくれなかったの?」

「ごめん――準備を始めたというだけで、本当に行けるかどうかまだわからないし――」

「じゃあ、留学が決まるまで黙っているつもりだったの?」

「そういうわけじゃない。ある程度めどが立ったら話そうと思っていた」


 俺たちの険悪な雰囲気を心配したのだろうか、いつの間にか足元にきていた幸一郎さんを希和は抱き上げ、しばらく黙って彼の背中を撫でていた。何分くらいそうしていただろう。やがて希和は口を開き、はっきりとした声で言った。


「文哉の考えはわかった。でも、この関係を続けていいのかわからなくなった」

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