第31話 ナポリタン

 希和の返信は意外なものだった。


『もう一人で行ってきた』


 もう? ということは、俺が希和の部屋を出て間もなく出発したのか。


『今、どこ?』

『地下鉄』


 移動中か。


『帰宅途中?』

『さあ』


 冷たい。希和はまだ怒っている。

 俺は不安になり、どうしたら希和の怒りを鎮められるか必死で考えた。


『さっきはごめん。一緒に梅、見に行けばよかった。あと、ここしばらくのことも。毎週は難しいかも知れないけど、土日のどちらかは、もっと希和と一緒に過ごすようにする』

『ほんと?』

『約束する』


 送信してしまってから、大丈夫かな俺と思ったが、希和も研究も両方大切なのだから、こうするしかない。


『よかったら、今日これから俺の部屋に来る? それともつばめか、近所を散歩とか』

『勉強、忙しいんでしょ。無理しなくていいよ』

『忙しいけど、希和のことも大切だから』


 修士論文と留学準備の両立はたしかに大変だが、留学して博士号を取ろうと思ったらもっと大変だし、大学教員になったらなったで、講義と研究の両立が必要だ――つまり、常に研究のプレッシャーに追われ続けるのが俺の人生になるわけだ。今から自分のことばかり優先しちゃだめだ。本当に大変な時以外、希和のこともちゃんと大切にしないと。


『じゃあ今日、これから部屋に行っていい?』

『もちろん。夕食はどうする?』

『パスタがいいな。付き合い始めの頃作ってくれたナポリタン』

『そんなのでいいの?』

『うん。材料、ある?』


 鋭い質問。

 冷蔵庫は、ほぼ空っぽだ。

 今みたいに研究に集中したいとき、俺はごく簡単なものしか食べない。

 満腹になると眠くなって作業効率が落ちるし、準備と後片付けに時間をとられるから。朝はスムージー(リンゴ、バナナ、小松菜、豆乳をミキサーで混ぜるだけ)、昼はヨーグルト(オートミール、ナッツ、ドライフルーツ入り)、夜は外食で定食というのが、ここしばらくのパターンだ。


『私が買っていくから。材料教えて』


 俺の気配を察したのだろう、希和が申し出てくれたので、厚意に甘えることにし、またメッセージを書いて送信した。


『玉ねぎ、ピーマン、ウィンナー、豆乳。調味料はあるから不要。代金は後で払う』



 インターホンが鳴る直前、それまで机の上の箱の中で眠っていた幸一郎さんはむくりと起き上がり、耳をぴんと立てて玄関の方をじっと見つめると、箱から勢いよく飛び出した。俺には聞こえなかったが、足音で希和が来たのがわかったのだろう。


「ニャー‼ ニャーン‼」


 廊下に続くドアの前でミーアキャットのように立ち上がって鳴くので開けてやると、すごい勢いで廊下を駆け抜け、玄関にまで出て、ドアの前を右往左往して一段と激しく鳴いた。


「ウミャア、ミャア―‼」

「幸一郎さん、そこ、邪魔」


 俺は興奮する幸一郎さんを左手で抱き上げ、鍵とドアを開けた。


「ニャッ!」


 ドアを開けて希和の姿が見えた瞬間、幸一郎さんは俺の胸を蹴り、希和の胸に飛び込んだ。


「幸一郎さん、久しぶり! 元気にしてた?」

「ニャン!」


 幸一郎さんはしっかと希和の肩にしがみつくと、盛大に喉をゴロゴロ鳴らし、その額を何度も希和の顔にこすりつける。幸一郎さんは人懐こいが、一番好きなのは、希和なのではと思う。


「はい、これ」

「ありがとう。入って」


 希和は買ってきた食材を俺に渡すと、幸一郎さんを抱いたまま靴を脱いで廊下を歩き、ベッドの端に座った(俺の部屋にはソファがない)。そして膝の上に載せた幸一郎さんを撫でながら、「抜け毛がすごいね、文哉、ブラッシングしてる?」ときいた。


「今、換毛期だよね」


 そういえば、そうか。


「ごめん、すっかり忘れてた」

「じゃあ、私がする。ブラシ、貸して」


 俺がブラシを取ってきて渡すと、希和は、膝の上で香箱座りをしている幸一郎さんの体を、丁寧に優しくブラシで撫で始めた。よほど気持ちがいいのだろう、グルグル言いながらされるがままになっていた幸一郎さんは、そのうち態勢を変え、今ではお腹を上に向けて四肢を弛緩させている。その毛並みはまさにべっ甲のように、艶々になっていた。


「希和、何か飲む?」

「大丈夫。文哉は勉強、続けて」

「いいの?」

「いいよ」


 にっこり笑って当たり前のように言ってくれた希和を、俺は愛しいと思った。



 希和と幸一郎さんの醸し出す穏やかな雰囲気が良かったのだろうか、あれほど苦労したデータ入力が、再開後はすんなりと進んでいった。それはブラッシングを終えた希和と幸一郎さんが遊びだしてからも変わらずで、こんなにうるさいのによく集中できるなと自分でも感心したほどだった。


 希和は一階の渡会さんのことを気にしてベッドの上で幸一郎さんを遊ばせたが、猫じゃらしの使い方がとても巧みで、小刻みに動かして幸一郎さんの手先を使わせたり、かと思えば大きく動かして大ジャンプをさせたり、ぐるぐる回らせたりと、幸一郎さんの体を余すところなく使わせた。

 その効果だろう、俺たちがナポリタンを食べ終え、二人で食器を片付けてコーヒーを飲んでいると、希和の膝の上にいた幸一郎さんは丸くなり、熟睡態勢に入っていた。


「お、寝た」


 顎を撫でてみるが、幸一郎さんは微動だにしない。

 幸一郎さんを持ち上げるが、まだ眠ったままだ。

 俺はそっと幸一郎さんを運び、机の上の箱に入れ、さらにその箱を廊下に出して静かにドアを閉めた。耳をそばだてるが、幸一郎さんが起きた気配はない。


 希和を見る。目が合う。希和が笑う。その唇に俺はキスをする。


「作戦勝ちだな」

「え?」

「幸一郎さん。希和がたっぷり遊ばせたから、疲れて熟睡した。今日は邪魔されない」

「狙ってやったわけじゃないよ」


 希和はまた笑い、キスを返した。

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