第30話 梅

文哉ふみや、春休み、いつまで?」


 三月中旬の土曜日の朝、コーヒーを淹れながら希和きわがきいた。

 去年の夏に告白してから俺たちはゆっくりと関係を深め、最近では、金曜夜に俺が希和の部屋に泊まるのが習慣になっている。


 希和の部屋は四階建てのマンションの最上階なのだが、屋根裏部屋のような造りで、天井が傾斜している。天窓があり夏は暑いが、「日中は仕事だし、冷房があるし、冬場暖かいのは助かるから」と、本人は満足して暮らしている様子だ。センスがいいのだろう、白壁に年季の入ったヘリンボーンの床の室内は、陳腐な例えかもしれないが、いわゆる「パリのアパルトマン」的な雰囲気に整えられている。薄紫を基調とした幾何学模様が美しいラグ、アンティークだという丸いテーブルと椅子、座り心地のよいモスグリーンの一人がけのソファ、キッチンと部屋の境目にある棚にディスプレイするように置かれた食器類とアジアンタムの鉢。ベッドはセミダブル(寝相が悪いから)。


 本は思ったより少なくて、本棚一つ分(といっても、一・五メートル幅ほどの天井まであるものだが)だけ。初めてこの部屋に来たときに俺が指摘すると、


「買うときりがないから。ほとんどの本は図書館で借りて読むことができるし、この部屋にあるのはどれも特別な思い入れのある本ばかりだよ」


と、希和は答えた。


 俺たちは同じ区画のちょうど反対側にある部屋に住んでいて、直線距離にすれば三十メートルほど、至近距離だ。にもかかわらずいつも希和の部屋に泊めてもらうのは、俺の部屋には幸一郎さんがいて、気まずいからだ。希和と初めてそういう雰囲気になった時に幸一郎さんを廊下に出してドアを閉めたのだが、部屋に入れろと激しく鳴かれ、仕方なく部屋に入れた。すると幸一郎さんはベッドに上がってきてしまい、希和と俺はどうにも落ち着かず、結局うまくできなかった。



「春休みは四月第一週まで。なんで? どこか行きたい?」

「うん。今、小石川後楽園の梅が満開だって。すごくいい香りだと思う」


 希和は植物の香りを好む。ベッドサイドのテーブルに花や枝ものを欠かすことはなく、今は球根から水栽培した真っ青なヒヤシンスが満開で、部屋中に爽やかな香りを漂わせている。香水は付けない。匂いが強すぎるのだそうだ。一緒に飲みに行くと日本酒やワインの繊細な香りを嗅ぎ分けるくらいだから、そう言うのも納得だ。もしかしたら、聴覚が不足している分、嗅覚が発達しているのかも知れない。 


「小石川後楽園かあ」


 それほど遠くはないが、なんだかんだで一日潰れるだろうな。


「勉強、忙しい?」


 その言葉の裏に(春休みなんだから、少しくらい余裕あるよね?)という希和の気持ちがあるのはわかったが、申し訳なさを感じつつ俺は答えた。


「ごめん、忙しい。春休み中にまとめておきたいデータがあって」


 希和にはまだ話していないが、修士課程の課題に加えて留学先の候補選びや出願書類等の準備も始めていて、学期中より忙しいくらいなのだ。


「そっか、残念」


 希和は静かに椅子を引いてテーブルにつくと、コーヒーを一口飲んだ。


「二人で出かけたの、お正月明けに『つばめ』に行ったのが最後だね」


 そうして小さなため息をつくと、言った。


「なんだか私たち、セフレみたい」


 思いがけない言葉に、俺はコーヒーを吹きそうになった。


「セ――って……そんなふうに思ったことはないよ」

「でも、金曜夜遅くにうちに来て、シャワー浴びて、して、寝て、朝起きたらコーヒー飲んで朝食食べて、帰っちゃうじゃない。すごく、慌ただしい。幸一郎さんにも一カ月以上、会ってない」

「――ごめん。これから幸一郎さん、連れてこようか? 俺は部屋に帰るけど。夜、迎えに来るよ」

「そういう問題じゃない」


 希和はぴしゃりと言った。

 


 部屋に戻ってパソコンに向かったが、いつものようには集中できなかった。


「まだこれだけか……」


 午前中三時間の作業でデータ入力を終えられるだろうと思ったのに、一時を過ぎてまだ半分も終わっていない。

 原因は入力ミスの多さ。これから分析に使うデータだから、入力ミスがあってはならないし、十分注意してやっているはずが、ところどころでおかしな数値を入力してしまう。大丈夫か、俺。


 椅子に座ったまま伸びをすると、ちょうどキッチンでカリカリを食べ終えた幸一郎さんと目が合い、幸一郎さんは「ニャン?」と鳴いてこちらにやってくると、机に飛び乗った。俺はそんな彼を抱っこして、お腹をモフりながら話しかける。


「希和の声がさ、いつもより少し大きかったんだ。怒ってたよなあ」

「ウニャン」


 けっこうショックだった。希和に、彼女が俺のセフレみたいだと思わせる行動をとってしまっていたことが。

 付き合い始めは一緒に過ごす時間を大切にしていたのに、いつの間にか彼女がいる日常に慣れ、忙しさや将来へのプレッシャーを理由に、自分のペースだけを優先していた。


 それでも希和は不満を言わず、俺のしたいようにさせてくれていた。きちんと片付けられた居心地のいい部屋に俺を泊め、土曜日の朝は旨いコーヒーにトーストとベーコンエッグを用意し、快く送り出してくれていた。でも内心では我慢していたのだろう。そんな彼女の希望が「梅を見に行くこと」で、しかも都内だ。ごくささやかな願いだったのに俺は断ってしまった。

 今頃になって気付く。彼女の優しさに甘えすぎていたことに。

 俺はスマホを手に取り、メッセージを送った。


『希和、今朝はごめん。今からでもよかったら、梅、見に行こう』

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