第29話 返事

「前に言ってましたよね、聴覚障碍者何人かと付き合ってだめだった、だから健常者の俺とはもっとうまくいかないと思うって。あと、結婚とか子供のこととかも。でも、そういうのなしで、気になるから付き合ってみる、じゃだめですか。これまで付き合った人たちとは、単に性格が合わなかっただけじゃないですか。それって、障碍とか健常とか、関係なくないですか。将来のことも、付き合ってから二人で考えていったらいいんじゃないですか。子どもだって、欲しくなるかどうか、俺にはわかりません。今はただ、もっと東原さんのこと知りたいし、一緒にいたいです」


 将来のことについていえば、俺だけでも十分不確定だ。仕事を辞め大学院生をやっていて、しかも再来年からの留学まで考え始めている。修士論文と留学準備を並行させるのは相当きつい。東原さんと付き合えたとして、どのくらい彼女と一緒に過ごせる時間があるのか、わからない。留学に連れていく――となれば結婚することになるのだろうが――ことについてはまったく考えが及ばないし、人生のこういう時期に告白するのは不適切なのかも知れない。けれど、今つないでおかないと、この糸はきっと切れる。そうはしたくない。


「東原さん」


 返事は――ときこうとした時だった。


「お気持ちはよくわかりました。ありがとうございます。じゃあ、一つだけきかせてください。笹井さん、私が障碍者で弱者だから守ってあげたいみたいな庇護欲をかき立てられて、好きなつもりになってるんじゃないですか?」


 弱者? 庇護欲?


「はは……」

「今、笑いました?」


 東原さんは俺をいぶかしげに見た。


「ごめん、あまりに予想外の言葉だったから、つい」


 出会ったころから東原さんはしっかりしていて、聴覚障害だということをまったく気づかせなかったし、幸一郎さんの木登りの件では俺どころか渡会さんにまではっきりと注意をした。仕事は健常者枠で雇用。これらの事実は、弱いとか庇護とかいう言葉とはむしろ逆で、


「俺には、東原さんは強い人に見えます」


 そう、断言した。


「――そうですか」

「うん。それで、返事は?」

「手話できいてくれたので、私も手話で」


 こういうところも東原さんらしい。だが。


「え? それ困ります。俺わからない――」


 肝心のイエス、ノーを動画サイトで調べていなかった。


「大丈夫、簡単ですから」


 笑って東原さんは右手を顔の高さに上げた。その手は、親指と人差し指で丸を作っていた。



 帰宅すると廊下の端で幸一郎さんが俺を待ち構えていたが、いつもと違ってすっくと立ちあがって尻尾をぴんと上げると、俺の顔を見て「ニャア~ン」と大きく鳴いた。それがまるで、「よくやったな、文哉」といっているように聞こえ、東原さんに気持ちを受け入れてもらえたという高揚感が戻ってきて、嬉しくなった俺は幸一郎さんを抱き上げてぎゅっと抱きしめた。


 東原さんに出会えたのは幸一郎さんのおかげだ。

 大学院入試の朝、彼がゴミ集積所の段ボールの中で鳴いていなかったら、俺は東原さんを呼び止めるはずもなく、ずっと、ほとんどすれ違うことさえない「近所の人」のままだったろう。


「やっぱりお前、幸運の猫だ。ありがとうな、俺の所に来てくれて」

「ニャ……」


 幸一郎さんは喉をゴロゴロいわせながら小さく鳴くと、俺を見つめてゆっくりと瞬きをした。

 もう十一時を過ぎていて、シャワーを浴びてすぐに眠ろうとベッドに入ったが目が冴えてしまい、眠れなかった。それで俺は起き上がり、机に向かった。そこには数日前から取り組んでいる計算が書かれたレポート用紙が広げられている。東原さんと食事することが決まってからどうにも集中力を欠いてしまって、しかもこの方程式が難解だったこともあり、ここ数日、少し手を付けては放り投げる、ということを繰り返していた。


でも今なら解けそうな気がする。やるか。


俺は濃い目のコーヒーを淹れ、机に向かった。聡一郎さんはすでにベッドで眠っているように見えたが、コーヒーの匂いや俺の動く音で目が覚めたのだろう。机に飛び乗ってきていつもの箱に収まると、真ん丸な目で「頑張れよ」とでも言うように俺を見、ゆったりと毛づくろいを始めた。静かな室内に幸一郎さんのざらざらした舌がその毛を舐めるかすかな音が響く。ゆったりとした一定のリズム、場所によってしゃり、しゃり、くちゅくちゅ、と音が変わるのがまるでASMRのようで心地よく、次第に俺の集中力は高まり、やがて計算に没頭していった。

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