下
今日も報道ヘリが上空を飛んでいる。取材先は高校ではない。園児と小学生を狙った連続殺傷通り魔事件の犯人が近隣の路上で緊急逮捕されたのだ。その一報が入った途端、校舎から転落死した女生徒のことは世間の関心の外に押しやられた。
「おはようございます」
佳織はもう一度挨拶したが、若い男は佳織には応えず、後ろ姿を見せたまま先に校内に入っていった。
生徒が登校してくるまでにはまだ時間がある。佳織は校舎の脇に回った。
ばんっ。
半月前の夕刻、佳織は非常階段から転落する女生徒を目撃した。金属の扉が勢いよく開く音に見上げると、
それを見た佳織は花壇を踏んで一階職員室の窓を外から叩いた。
「大変です。生徒が校舎から転落したようです。グラウンド側です。救急車をお願いします」
残業していた教諭が愕いて顔を出すのへそう叫ぶと、佳織は転落した女生徒の許に駈け戻った。二年生の生徒だ。
搬送先の病院で女生徒の死亡が確認された後、警察から教員は聴取を受けた。女生徒は両手を振り回し、自転車に乗る時のように膝を動かしていたが、その上履きは階段を踏まず、持ち上げられるようにして手すりを超えて真下の地面に叩きつけられた。その時、三階の重たい非常口がひょろりと伸びてきた誰かの手によって内側から閉められるのを佳織は見たが、それについては、後の調べにより全校生徒の下校と残業していた教職員の所在が互いの証言と防犯カメラの映像を突き合わせて確認された。女生徒が落ちたあの時刻、校舎の三階には誰もいなかったのだ。
佳織は身を屈め、学生や父母会が供えた花束の山を整えた。学校の敷地内ということで花と手紙以外の供え物は禁止だが、亡くなった生徒が好きだった俳優や音楽グループの写真が花束の間に挟まれていた。定番の菊ではなく、お供えの花の多くは故人の面影を惜しむような可愛い花が多かった。
墜死した女生徒。あの日この地面に流れた血は、三階の墨色の窓に一筋だけ刷かれた残光のようだった。
臨時休校を設けた後に再開した学校では、教師も生徒も努めて平静を装って日常に戻ろうとしている。それがかえって空々しい空気を生み出している一面もあったが、高校生の若者はいつまでも塞ぎこんでいるようには出来ていない。生徒の心情に配慮して学期末までは自由登校期間と定めたものの、死者を出した二年生も今では十割の生徒が出席している。そのことは教員全体の励みになっていた。
教室を埋め尽くした花束。
「……ちゃん」
ぼそりと佳織が呟いた名は、転落死した女生徒のものではなかった。
あなた、六組の生徒でしょう。
佳織の脳裏には葬儀場での光景が鮮明によみがえっていた。誰かが口に出して佳織にそう云ったわけではない。だが棺を前に号泣している遺族の姿に、また、奇禍に巻き込まれた学生に対する慰めの言葉の中にも、佳織は自分への非難をみた。友だちを見棄ててあなたは逃げたのね。
雪崩をうって教室の外に向かう生徒。「逃げなさい」教師の絶叫。あの時は誰もが誰かを突き飛ばしていた。被害が大きくなったのは出口で将棋倒しが起ったからだ。佳織は教員を呼びに行こうとしていた。大変です、侵入者にみんなが襲われています。早く来て下さい。危機を告げる為に本能的にそうしていた。それは建前だ。本当は自分のことしか考えていなかった。恐怖が先行していた。友だちを見棄てて逃げたというのならば、確かにそうだった。そして逃げた生徒も廊下で次々と追いつかれた。かおりん、待って。
転倒しかけた友人が佳織の腕を掴んだ。それを無我夢中で振りほどこうとした。その手の感触を今も憶えている。
何処からか風に流れてきた白いテープが腕に絡みついていた。左袖に貼り付いたテープを佳織は引き剥がすと、手の中に丸めて、枯れた花と一緒に廊下のごみ箱に棄てた。
通り一遍の警察の調べを経て、転落した女生徒の死は『事故』ということで片付いた。非常階段に向かう扉には多数の指紋があったが、外階段には疑わしい痕跡がなく、誰かと争った形跡もなければ遺書もない。女生徒の家族関係も良好で、悩みを抱えていた様子もない。
「しかしそれでは、非常口に内側から鍵までかかっていた状況に説明がつかない」
不審点を遺したまま、葬儀は執り行われた。
何故こんな惨い死に方を。
葬儀場での悲憤とすすり泣き。とくに、女生徒と同じ放送部だった部員の嘆きは深かった。
「ぐっすり眠っている彼女を部室に残して先に帰ったんです」
「あの時に無理にでも起こして一緒に帰っていれば」
かといって故人の性格上、部室に置き去りにされたことを苦にして自殺したとも考えにくい。もしかしたら女生徒はその時から具合が悪かったのかもしれない。
学校から出た死者。佳織には過去の事件の再現にも等しかった。この高校に戻ることを選んだのも、心のどこかで贖罪を求めていたからだ。おそらくサバイバーズ症候群と診断される類のことなのだろう。教室が虐殺の現場に変わったあの日。
「おはよう」
「先生、おはようございます」
正門が開く時刻になり、元気な生徒の声が響き始めた。
「ねえ、これ見て」
登校してきた学生が昇降口の天井を指している。つられて佳織が見上げると、そこには大きなしみがあった。
「水道管から水が漏れてる」
水洩れならこんなものでは済まない。それに、随分と古いしみのようだ。
新しい校舎なのに?
「これだけじゃない。あっちにも」
男子生徒が廊下の奥を指した。
「突き当りの廊下にたまに、人の影が立ってる」
「誰もいないじゃない」
女生徒が身を震わせた。
「そんなことを云うからよ。寒気がしてきた」
そちらは無視して再度、天井に眼を凝らすと、しみは人体に見えるような気もした。集まってきた生徒も猿だ犬だ、ムンクの叫びに似てるだの、口々に騒がしい。
「血天井みたい。苦しみのあまりにもがいた指の痕がある」
誰かが悪戯をして汚れた雑巾を天井にぶつけでもしたのかもしれない。予鈴が鳴って生徒が散った後、佳織がもう一度見ると、天井の不審なしみは這うように少し移動していた。
教材映像を流すために各教室に設置されているモニタに、教室の様子が反射して映っている。その画面の中をネクタイをつけた若い男が横切った。生徒は全員着席しており、立っているのは担任だけだ。黒画面の中を通り過ぎていったその人影は、先日、職員通用門で見かけた若い男にみえた。
柴山佳織は立ち尽くした。
気のせいだ。そんなはずはない。あの男は既にこの世にはいない。
教室の戸の小窓にもう一度現れたその顔は、コピーを繰り返して掠れた写真のように白黒に割れていた。
「先生、何も映っていません」
「配線が外れてた。ごめん」
リモコンを操作するとすぐに明るい映像と音楽が教室に流れ始めた。低予算で制作されたことがひと目でわかる雑な動画だが、生徒は真剣に見入っている。いま見たものが霊ならば、地縛霊とは、この動画のようなものかもしれない。何かのきっかけで繰り返し再生されるのだ。
「説明映像にあったように、上履きは脱いで外に投げること。投げる前に下に誰もいないかよく確認して下さい。降りたらすぐにグラウンド側に集合です」
非常階段の使用が禁止された代わりに、三階にはキャビネットに収納された脱出用のシューターが備え付けられた。教室ごとに一つと、廊下側の三か所だ。
「怖い怖い」
「前の人が完全に袋から出て、下から合図があったら次の人が袋に入る。紐を両手でしっかり握って」
校内放送が避難訓練の開始を告げ、男性教諭が廊下を走りながら「火事だ」と大声で叫んだ。
化学担当の教諭と共に地上で誘導する係になった佳織は、三階からぶら下がった袋状のシューターの出口の前で待機し、校舎端の廊下側の窓から降りてくる生徒を袋の外に導き出した。垂直シューターといっても真っ直ぐ落ちるのではなく、中はらせん状になっている。最初はおっかなびっくりだった生徒も筒口から降り立つと、遊具みたいで意外と楽しかったという感想を口にしていた。
「見て、真っ黒」
足裏を見せ合って靴下が泥だらけだと笑っている。佳織は少しほっとした。久しぶりにきく生徒たちの心からの笑い声はいいものだ。六組の廊下の窓枠から爪を染めた手が垂れていた。それには気づかないのか、佳織の隣りで化学の教師が空を見上げて、「快晴なのに暗いな」と首をひねっている。
高所恐怖症気味の小柄な女生徒が袋に入りかけてまた止めてと、ぐずって流れを停滞させていた。訓練では全員が体操服を着用しているが、実際にこれを使うことになる時はスカートがめくれ上がることも事前に女子に説明済みだ。
「非常時に備えていつもタイツかスパッツを履いとけってことね。もちろん履いてるけど」
「
「日本初の高層ビル火災でしょ。着物の頃の女性は腰巻いちまいだったから、裾が乱れることを怖れて命綱で外に降りることが出来なかったんだよね」
「その火災がきっかけで下着が広まったのは俗説で、事実とは違うらしいぞ」
男子が口を出した。
「昔の火事だろ。どうせろくな消化も救助活動も出来ずに、どっちにしても焼け死んだんじゃねえの」
不意に出た死という単語に、それまでざわついていた生徒はしんとなった。
ようやく小柄な女生徒が半泣きで降りてきた。全員が外に出るまでの時間を計っているので急がなければならない。佳織は脱出用シューターから女生徒が出るのを見届けると、すぐに合図の片手を三階に向けて挙げた。
旧校舎で起きた惨劇の犠牲者を弔う碑の中には、柴山佳織の名が刻まれている。
[了]
六組の廊下(拡大版) 朝吹 @asabuki
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