中
……昨日のネットなんだけど
……宿題多すぎ
……土曜日の部活、朝八時に集合だって
その教室は、『五・五組』と呼ばれていた。ごう、てん、ごくみ。五組でも六組でもない。五組と六組の間に小部屋があるわけでもない。一年から三年生まで各学年、生徒が割り振られているのは五組までだ。だから六番目の教室はどの階でも空き教室となっている。
変則的に一年生を真ん中の二階に挟んで、一階が三年生、三階が二年生となっている。二年五組のわたしの教室は、三階だ。
五組の先に延びる廊下。突き当りまで掃除のモップをかけると、ちょうどその教室の前になる。校舎の端の五・五組。廊下の先には重たい扉があり、屋外の非常階段に通じている。非常口は普段は締め切られていて、避難訓練以外の日にうっかり開けると大音量で警報音が鳴り響く。それをやって、すでに何名かの男子生徒が大目玉をくらっていた。
五・五組。おかしな呼び方をしているその教室の中は、使われていない机や椅子が隅に積み上がっている。授業で使う備品を一時保管している物置部屋だ。
「だったら準備室でいいじゃん」
各教室の入り口上部についている白い樹脂プレート。学年と組を示して小旗のようにずらりと並んでいるそれは、二年五組にも付いている。一つ前は二年四組。後ろが二年五・五組。その教室だけは、二年以下の部分を幅広の白いテープで隠した上で、その上に黒マジックで五・五と手書きされているのだ。
「地味に怖いんですけど」
「一階から三階まで、六組にあたる隅の教室の名前は、すべて同じように書き換えられてるよね」
「消えた六組の謎」
「あ、先生」
わたしたちは急いで掃除に戻った。階段を上がってきた日本史担当の女の先生は、ぱんと両手を叩いた。
「ほら、喋ってないで掃除して」
女の先生の登場に、箒で剣道の真似事をしていた男子も慌てて清掃に戻った。廊下の奥までが五組の清掃範囲だ。
「隅にもまだ埃が落ちていますよ」
日本史の先生はてきぱきと注意すると、五・五組の教室の中に入って行った。
「あの先生、昔、学校で起った惨劇の生き残りって本当かな」
「裏門に慰霊碑がある事件でしょ。その噂、きいたことある」
やがて先生は保管してあった資料を抱えて出てくると後ろ手に戸を閉め、わたしたちの前を過ぎて行った。先生が後にした五・五組から、がたんと音がした。
夜だった。夜なのはおかしい。夜なのに、どうしてわたしはまだ学校にいるのだろう。
突っ伏していた机から顔を上げると、眼の前に紙片があった。そこには部員からの伝言がよだれを垂らして寝ているわたしの似顔絵と共に書かれてあった。
『先に帰るね♡』
それで分かった。部室で眠り込んでしまったのだ。
自分の迂闊さにびっくりしながら、わたしは部室から出た。一階にある放送部の窓には分厚い遮光布が降りている。そのせいで夜だと想っていたが、まだ夕方だった。めんどくさいことに鞄は教室で、家の鍵も鞄の中にある。三階の教室まで鞄を取りに行かなければならない。
生徒が下校してひとけのない校舎をわたしは三階に向かった。まるで朝陽のような夕陽が廊下を染めている。中央階段は三組と四組の間にあり、上り口から折れて五組に向かう。掃除を終えたはずの廊下になぜか菊の花が落ちていた。丁度わたしの教室と隣りの教室の境目だ。
近づいてみるとそれは菊ではなく、幅広のテープが裏返って絡まっているだけだと分かった。
テープを拾い上げ、粘着面を引き剥がしながら広げていくと、文字が現れた。『五・五組』。
……昨日のドラマなんだけど
……嘘だろ、試験範囲広すぎ
……朝練のせいで猛烈に眠い
柿色に染まっていた夕方の校舎が急に陰った。廊下にいるわたしは白いテープを握り締めた。五・五組の教室の戸が少しだけ開いている。隙間からみえる薄暗い空間には机と椅子が整然と並んでいる。この教室は物置部屋のはずだ。
「やめてよ、その音」
「前の黒板よりも、教室の後ろの黒板を使うほうがいい音が出るぞ」
「マジでそれやめろって」
誰かが黒板を爪で引っ掻いている。笑い声。誰もいないはずの教室に大勢の生徒がいる。
ギギー。
黒板を引っ掻くあの音がしているうちに此処から離れよう。よく分からないが、あれは、ひどくよくないものだ。
ぜんまい人形のようにがくがくした動きでわたしは何とか後退し、四組の辺りまで下がると、転がるように階段を駈け下りて学校を飛び出した。
「どうしたの。変な顔をして」
家に帰ると母が職場から先に帰宅していた。母が怪訝な顔をするほど、わたしはずっと肩のあたりを払っていた。
夜だった。夜なのはおかしい。学校の照明は外が暗くなったからといって街燈のように自動点灯はしない。だから校舎は薄暗いままだ。ギギと音がする。誰かがまた教室の黒板を引っ掻いている。わたしは、また学校で眠り込んでしまったのだ。今度は部室ではなく教室の中で。
霊に憑りつかれると寒気がして無性に眠くなるんだって。
誰かがそんなことを云っていた気がする。
逃げても、何度も同じ場所に引き寄せられるんだって。
わたしの通うこの高校は、廃校を完全に取り壊した上で新しく建て直された学校だ。正確にはグラウンドの位置だけが変わらず、校舎とプールと体育館を反対側に建てたのだ。創立はわたしが入学する三年前。だからまだ新しい。何百人もの生徒が毎日使うのだからそれなりに薄汚れてきてはいるが、机も床もこんなに古びてはいない。日除けが破れて傾き、床に下がっているのはおかしい。
机から引き剥がすようにして上体を起こし、半覚醒状態のまま、何とかわたしは鞄を持って廊下に出た。帰らなきゃ。
教室とは違い廊下には電灯が点いていた。電気が点いているのに大雨の日のように暗かった。埃だらけのリノリウムの床。
閉校した学校が校名を少し変えて復活したわけは、開発計画の途中で頓挫して半世紀近く放棄されていた路線工事が再開し、線路が延伸するのに併せて新しく街が生まれたからだ。現在この高校に入学してくる生徒は、生まれる前に起きた昔の事件のことを知ってはいるが、誰も気にしている様子はない。この学校は生まれ変わった新しい学校だ。こんなに古ぼけて、灰色に汚れて、下水のような臭いがするはずがない。わたしはまだ寝ているのだ、きっと。
ずるずる。床がずるずるしている。
根の生えたような身体を傾けるようにして少しずつ進んだ。高熱でもあるのだろうか。寒気と眠気がする。わたしの顔を左右からのぞきこんでいる彼らと眼を合わせてはいけない。
静かに、廊下の埃のように、この前のように逃げないと。もう少しで階段だ。
ギギー。
黒板を爪で引っ掻くあの音。旧校舎を解体して新校舎の建設に着工してからも、お祓いをしたというのに工事関係者が次々と具合を悪くしたときいた。大丈夫、そんなことはよくあることだ。よくある話。
塗料の剥げ落ちた壁。めくれ上がった床。通い慣れた校舎とは違う。わたしは知らない学校の中にいる。
その時ふと、廊下側の窓から見える日暮れの校庭を見慣れた先生が歩いているのが見えた。日本史担当の女の先生だ。
先生。
わたしは大声で救けを求めた。先生。
そうだ、職員室に行こう。職員室にはまだ先生方が大勢残っているはずだ。当たり前だ。暗くなったとはいえまだ六時頃なのだから。
階段の下から何かが二段とばしで上がってきた。
わたしは叫び声をあげて今きた廊下を走って戻った。二年四組、五組。六組の前には薄黄色い影法師が幾つも集まっている。そこを突き抜けて廊下の突き当りの扉にぶち当たる。ふるえる指でわたしは非常口のロックを手動で開けた。この非常口を開けると大きな音で警報が鳴る。耳をつんざくあの音がすれば、きっと職員室にいる先生たちが様子を見に来てくれる。
早く開いて、早く。
五・五組。六番目の教室をそう名付けることで集団霊を封印したという噂があるが、初代の校長が急死したせいでそれ以上のことは誰にも分からない。日本史の先生は昔の事件の生き残りだと云われているが、それもわたしには分からない。誰も確認したことがないのだ。
鍵が開いた。身を屈めると、わたしは上履きの底に貼り付いていた汚い白いテープをもぎ取り、後ろに向かって投げつけた。
冷たい風が吹き、夕暮れの空が視界に広がった。山の稜線に沿ってどす黒い雲が折り重なり、ぱっくりと肉が裂けたような赤い残照が雲の切れ目に一筋のぞいている。非常口は開いたが、警報音は鳴らなかった。
》下
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