第4話

 紫燐蝶たちは山のように群がっていた。ぎらぎらと闇を照らし、周囲を明々と染めていた。


 そこで沙耶は、頭が締め付けられるような感覚に襲われた。甲高い声が響いてきた。


「足りぬ……。霊気が、足りぬ…………」


 声はそこらじゅうから聞こえた。


「霊気が。足りぬ……。足りぬ…………」


 蓮二の声もする。


「なんだ? この声は……。頭が割れちまう……こいつは」

「これは」と沙耶は息を吸ってから自分の正気を取り戻すように云った。「紫燐蝶たちの、声です! 彼らは、霊気に飢えているのです! ああ……」



 同時に、蝶たちに異変があった。


 光球をなすように固まっていた、紫色の蝶たちは、にわかに赤味を帯びはじめた。――紫色の光球は急激に赤く染まっていった。


 そのとき、一束の赤い帯が光球から離れ、夜空にまばゆい弧を描いた。甲高い声がまた響き渡る。


「おのれらの、霊気を寄越せ……」


 赤い光の束は虚空で反転するに、太槍のようになり突き進んできた。その先には、蓮二がいる。


「うおっ……」


 蓮二は身をひねって避けようとしたが、光の槍は左肩を直撃した。――光の槍は散開し蝶の群れになった。蓮二の周りには無数の蝶が舞い、奇妙な声を上げている。紙がこすれるような、不気味な囁くような声……。


「あっちへ行きやがれ」


 蓮二は腕を振ると、蝶たちはにわかに散って、距離をとった。


 そこで沙耶は気づく。――巨大な赤い蝶の光球から、また第二、第三の光線が夜空に放たれた。いや、第四、第五……。無数の光線が弧を描いて、襲いかかってくる。


「いけない、蓮二さん……!」


 すると、蓮二はふと振り返ってきて、


「ちと、静かにしてくれ。こいつは、骨が折れそうだ。せいぜい、邪魔にならねえように、小さくなってろ」

「そ、そうは言っても、蝶たちがあんなに……」


 沙耶が顔を上げると、ちょうど蝶の光線が幾本も重なり、降り注いでくるところだった。


「蓮二さん。に、逃げないと、いけませぬ。これほどの蝶と……瘴魔と戦うなんて。少しならば、浄化もできたかもしれませぬが」

「あー? そいつは違うな」


 すると蓮二は右手を伸ばして、左手にある太刀の柄を掴んだ。――と見えた刹那、『しゃら』となめらかな金属音を鳴らし、光が閃いた。白刃が現れた。


 蓮二は右脚を下げると鞘を放り、両手の太刀を脇に構えた。黒衣は赤々と照り、顔にはかげが落ちていた。その目は無感情にじっと、上空の標的を捉えているようだ。


 ――沙耶は座り込みながらも、蓮二の姿を見ておぼえず震えた。白ノ宮に詰めるいかなる兵の訓練を見ても、そんなふうに怯えたことはなかった。けれど、蓮二がいざ太刀を抜き、構えるのを見ると、この世のものとは思えない、底知れぬ不気味さを感じたのだ。


(そうか、これが、銀狼衆の……)


 そんなことを考える間もなく、蝶たちの赤い光と奇声の中に、周囲が埋め尽くされていった。


 沙耶は屈み込んで、蓮二の暗い横顔を見つめた。――緊張に引きつっているように見えたのだが、ふと、歪んだ口元に笑みを浮かべた。


「瘴魔は、浄めるんじゃねえ。叩っ斬るもんよ……」




 沙耶は体を屈めて上目遣いに蓮二を眺める。蓮二は迫り来る赤い光の帯に向かって、唸り声を上げながら太刀を振り抜いた。


 蝶たちは火の粉のように飛び散る。さらに、次々と赤い光線が落ちてくる。――蓮二は太刀を風車のように転回させ、繰り返し切り上げる。


 蝶たちは『許さぬ』『食ろうてやる』『人間め』と、韻々いんいんとした甲高い声を上げて、間断なく襲いかかってくる。


 気がつくと蓮二の周囲に蝶が群がっていた。蝶は赤い翅をはためかせ、光の尾を曳いて、数えきれない火の粉となって飛び交った。


「痛えッ!」と蓮二は呻いた。


 どうやら一匹の蝶が蓮二の肩に取り付き、口先で肌を刺したようだ。蓮二は蝶をむしるように掴み、地に放って踏みつけた。


「蓮二さん!」と沙耶が叫ぶと、

「蚊と変わらねえ! 痒いだけだ、こんなもん」


 蓮二はそう云って、また太刀を切り上げる。――いったいどこに目がついているのか、夜空から続けて落ちてくる蝶の光線をかわしながら、繰り返し繰り返し、歯を食いしばって暴れ続けていた。


 一薙ひとなぎするごとに、白刃は赤く照らされ、蝶は血の色にぜた。


 沙耶は狭世でも見たことがないような夢幻的な闘争の中で、狂おしく舞う蓮二の姿に見とれた。蓮二は陶酔したように、ぎらついた笑顔を浮かべていた。


 蝶が体にたかっては、蓮二はたまに刃を体に走らせて蝶を払った。そうしながらも、何度も何度も太刀を振り回す。すると、燃えるような血の光を巻き上げながら、蝶が滅びていった。


 ――永遠に続くかと思われた光の乱舞は、にわかに落ち着きつつあった。なんと蝶の半数近くを斬ってしまったらしく、空き地の光球は半分ほどの大きさになっており、一方で蓮二の周りには朱墨の沼のごとく、蝶の残骸が溜まっていた。


 蓮二は体じゅうを赤く染めながら、


「どうしたァ! 虫ケラどもが。――銀狼衆のしごきじゃ、一日三千は素振りをやらせるもんだが。――まだ今宵は百も振ってねえぞォ!」


 そうして右手のみで太刀を振って中空を薙ぐと、蝶の赤い火花がまた、二、三弾けた。


 沙耶は寒気を覚えながらも、体の芯が熱くなる感じに気づいた。


 ――蓮二の暴力性に当てられている。そんなことを認めたくもなかった。蓮二が一太刀振るうごとに、沙耶の中のなにかを切り裂くような……。痛みと熱を持って。



 生き残った蝶たちは危機を感じたのか、蓮二から距離をとった。蝶たちの恨みがましい声があたりに響く。


『何者だ』『怖い』『人間が』『許さぬ』『恐ろしい』『なれば……』『力を……』



 沙耶は異変を感じた。あたりの空気が変わり、ひりついた空気に包まれた。


 蓮二の足元に赤く溜まった、蝶の死骸から瘴気が立ち昇ってくると、宙の一点に集いはじめた。――それに、周囲を飛び交う蝶も、瘴気の中に飛び込んできた。


 蝶の死骸から昇る瘴気と、赤く輝く蝶が入り乱れ、あらためて赤い塊を織りなしてゆく。――ただしそれは、当初の光球といった形ではなく、蝶柱ちょうばしらとも呼べる群れをなしていった。


 キキキキキ…………


 蝶の奇声が幾重にも混じり合い、なおも赤光し、あらたな生物的な形態となってゆく。蓮二は太刀を片手に蝶柱を見上げた。


「な、なんだこりゃ!」


 蝶柱は次第に人の形を取りはじめた。柱の上部がくびれて頭をなし、両腕が生え、両足が生える。長い髪はふくよかな胸にかかり、腰の線に続く。――そこには、赤く輝く巨大な女の輪郭がそびえていた。女体らしい起伏があるものの、全身が赤い光の一色に包まれていた。


 目だけが暗く落ち窪み、その奥に禍々しい朱色に光る眼球が、蓮二を見下ろした。


 得体の知れぬ女の呻き声が響いてくる。


『ああああァァァ…………!』


 その声は沙耶の全身を震わせ、頭を締め付けてくるようだった。視界には赤い光が満ち、一方で濃密な瘴気の渦が幾筋もたなびいていた。


『うあああァァ……!』


 その割れんばかりのの声はどこか、己の誕生自体に対して怒り、呪い、苦悶するかのようだった。


 沙耶は口をぽかんと開けて、なすすべもなく女神を見上げた。


「沙耶ァ! こいつは、白ノ宮で学んだか? 聞いたことがあるか? 女とくれば……水の神か?」


 そう云う蓮二に沙耶は答えた。


「そ、そんなわけは、ありませぬ! 水奈弥ノ神は、このようなお姿ではありませぬ……。だいいち、このような、禍々しい存在であるわけが……」


 そうこうするうちに、女神はその右手を掲げると、蓮二にその手を振り下ろした。


「尋常じゃねえぞ、これはッ!」蓮二はがなりながらも、身を翻してかわした。

『ああァー!』女神はまたも嘆き声を上げて、左手を横薙ぎにする。


「ッたくこいつは、どこの悪神だァ」と蓮二は口端で嗤う。



(了)

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白花冥幻譚 紫燐ノ森(短編版) 浅里絋太 @kou_sh

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