第3話
獣道の長い坂を降り切ると、にわかに視界が拓けた。
そこで蓮二は、これもまた不思議な情景の中に飛び出たことに気づいたのだ。
枝葉の天蓋が太陽を隠し、その下には白い――
「
「姫沙羅だと」と蓮二が尋ねるが、蓮二もそれくらいは知っていた。沙耶に突っかかって、言葉の弾みをつける癖が身についていたのだ。
「だいたい、こんな、坂を降りるなんてことが、わけがわからねェ。下杉村は、高地のはずだ。あの因業な瘴気のやつが、山を食っちまったんじゃねえ限り」
そこで沙耶を振り返って、「なァ、そうだろうがよォ」
沙耶が頷くと、蓮二は納得したように頷いた。まだ『迷った』とは云わない。
旅立っていくらも経っていないのに、いきなり出鼻をくじかれたことを認めるのは、あまりに癪だった。
――それよりも姫沙羅の森。
低地に広がる暗い森には湿気がこもり、涼しげだった。いや、ともすれば
「
沙耶は姫沙羅の幹を見てそう云った。確かに姫沙羅は湿気に濡れてしっとりと輝き、触れれば血でも流れそうな、きめ細かな白肌を呈していた。
その繊細さがどこか、切なくも不気味でもあった。
「ちッ。こうなれば、少し歩くぞ。村か宿場か、なんにしても座るところくらいは見つけてやる。――それに、こう湿気てちゃ、蛭だのなんだのが厄介だ。――俺の頭や首に蛭が落ちてきやがったら、すぐ教えるんだ。わかったな」
姫沙羅の森の地面にも、よく見ると道の跡があった。坂を下ったところから、細々と草の薄い箇所が帯のように続き、森の奥へと伸びていたのだ。その先には村の柵のようなものが見えた。
「よし、こいつは、さっそく助かったな」
蓮二は嬉々として村らしき方へ進んでゆく。
*
沙耶はそんな蓮二の黒衣を追って歩きはじめた。
黒衣は姫沙羅の白と森の緑を背景に、わかりやすい目印になった。
沙耶にとっては、目印があるのはありがたかった。
迷うことはないし、迷ったとしても一人になることはない。
蓮二が戦うところを見たことはないが、きっと強いのだろう、と思った。なにしろ、瘴魔退治を専門とするあの侍集団、銀狼衆にいたのだから。
そんなことを思いながら歩いていると、視界の端に妙な光が見えた。
「――あ」と思わず声を漏らす。その光は紫色の燐光を放ちながら、森の空気の中を泳ぐようにはためいていた。
「どうした」
という蓮二に、沙耶は答えた。
「
紫燐蝶は姫沙羅の陰に隠れ、また反対側から現れた。黒く縁取られた翅は繊細に、しかし克明に森の緑に映え、非現実的な余韻を残して飛んでゆく。
その飛んでいった先には、さらに二匹の紫燐蝶が見えた。
「ただごとじゃねェな」
蓮二はそう云って、紫燐蝶たちをじっと見た。
「おい、わかってるだろうな。沙耶、おまえも」
沙耶は頷くと、「はい」と答える。紫燐蝶の体からは瘴気が揺らいで溢れていた。
――それは、普通の紫燐蝶ではないことを意味していた。瘴気によるものか、もはや紫燐蝶は『瘴魔』と化しているようだ。
沙耶はいつになく険しい蓮二の横顔を見た。――蓮二はため息をひとつ、
「益体もねェ。ひとまず放っておこう。
ついに村の柵の近くまでやってきた。
村の周りには、木の杭がびっしりと打ち付けられており、端々に苔がついていた。村の正面には木の門があるが、なにかに降伏するように開け放たれていた。
門から中を見ると、
人の気配がしない。外を出歩く人もいなければ、話し声もしない。
かといって家の中に人がいるような感じもない。――家によっては戸が開け放たれ、家屋の中に土や葉が入り込んでいた。
「滅んだ村だなァ。どういうことだ」
と蓮二が振り返ってきた。なぜか自分に詰問するように話しかけてくる。きっと、話し相手がほしいのかもしれない。
「わたしには、とんと、知れませぬ」
沙耶はそう返して、周囲に意識を向ける。空気に、肌がひりつくような刺々しさがある。瘴気がやはり村を覆っている。
紫燐蝶と関わりがあるのかは、わからない。
「よし、ひと通り見てやるか。宿の替わりを見つけなけりゃ、ならんだろう」
と蓮二はずんずんと進んでいった。左手は太刀の柄に載せて、右手で頭を掻いていた。
民家を見つけ、焚き火を熾して夜露を凌いでいると、外に異様な気配が溢れてきた。
戸口から外に出た蓮二の目に飛び込んだのは、夜闇に浮かぶ紫色の光の流れだった。
満月の手前の、
光の流れはよく見ると、
数匹が蓮二の鼻先をかすめ、まばゆい光の尾を残して、流れの一部となっていった。――それらの蝶の流れ自体が、巫女たちの云う、霊気や瘴気の流れを体現しているようだ。
どんどん濃密になってゆく瘴気に、蓮二は目まいを覚えた。
そうだ、紫燐蝶のいずれもが紫色の燐光とともに、瘴気を放っていた。もっと云えば、これらの紫燐蝶はことごとく、瘴魔にほかならない。
「なぜ、こんなに……!」蓮二が呟くと、沙耶も横に並んだ。
「紫燐蝶……。それも瘴気に冒された……」
「ああ。瘴魔になっている。尋常じゃねえ」
蓮二は記憶の中に、これまで戦ってきたさまざまな瘴魔を思い返す。
獣に似たもの、瘴気に憑かれた人間、鬼の姿のもの。
「まいったな。こんな、蝶の瘴魔となんざ、やりあったことがねえ」
「そ、そうですか。わたしも、聞いたことがありませぬ……」
「だろうな。驚いたぜ……」
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