白息

夜賀千速

 わたしが最後に見たきみは、どんな速度で瞬きをしていただろうか。どんな声でどんな表情で、どんな瞳で世界を見ていたのか、わたしにはもうわからない。きみの声を、きみの肌を、きみの睫毛を、きみの言葉を、思い出せば思い出すほどに忘れていく。手をのばせばのばすほどこぼれ落ちていく、記憶、思い出は褪せていく、過去は今に蝕まれ朽ちていく。目を瞑れば存在しているはずの、きみ、が、わたしの中から消えていく。



 ◇



 甘ったるい花の香りに目を覚ます。香水の香りが充満した部屋のなか、真白の布団で眠るきみ。無垢な横顔を見つめて逸らして、ちひろ、と声をかける。ん、と音がこぼれた。きみがゆっくり起き上がり、とろんとした目つきのままわたしを見た。

「おはよ」

 おやすみからおはようまで、少しの時間しかたってないね。そう言って、きみはふふっと笑った。

「かわいい」

 え、とこぼしたきみと目が合う。セミロングの黒髪が揺れて、さらりと流れて肩にふれた。

「ね、鏡借りていい?」

「いいよー」

 ありがと、と答えながらリップを手にとる。発色のよい赤色を、唇に沿わせてなじませた。

「髪、結んであげる」

 きみの手からゴムを強引に奪い、さらさらの髪をポニーテールに結わえる。

「なんか高くない?」

「高くないよ、かわいい」

 きみは鏡の前で、くるくると動いて髪を触っていた。

「ね、今日どうする? 映画でも行こうか」


 着いたのはきみの家から近い、小さくてレトロな映画館。蔦の這うレンガ作りの外観、シアターはたった2つ。ちひろは映画に詳しかった。それも昔の、マニアックな洋画に。2時間弱の映画を見終わった後、外に出てジェラートを食べた。いつもは口数が少ないけれど、映画の話になると饒舌になるきみ。駅前のベンチに座って、春の空気のなか、頬を染めるきみを見ていた。足元で、何羽かの鳩がてくてく歩いていた。



 そういえば、きみと出逢ったのも映画館だった。あたたかい、四月の陽気。ふと思い出して、きみの目を見て、そこで、目が覚めた。

 見上げる天井、そこは自分の部屋だった。白く、息が詰まる。何度目かも分からないゆめ、反芻するうつくしい思い出。起きて、鏡を見て、一日が始まる。そこに、きみだけがいない。





 きみを失ったわたしの人生も、わたしが生きたこの日々も、決して悲劇にはならない。ただ、失い、痛み、それでも、生きる、それだけの話だ。主人公の恋人が死んで、それで感涙必至、みたいな小説にはならない、ただ人生の一コマとして過去になるだけ。仕方ない仕方ない仕方ないを繰り返す、そうやって巡っていく毎日だ。


 各駅停車でしか止まらないきみの最寄り駅を、快速急行で通りすぎていく。もうあのベンチに座ることも、小さな映画館に行くこともないだろう。電車から降りる、発車メロディが鳴る、たくさんの人とすれ違う、追いこしていく人、前から向かってくる人、言葉を交わすことなどない人、大都会の交差点を歩く、109、の文字を確認する、もうきみとすれ違うことはない。偶然の日々のなか、巡りあってきみと会ったのに、交わることは二度とない。


 それは極めて普遍的な別れだったと思う。出逢いと別れは繰り返すものなのだ。わたしにとってきみは特別で、きみの特別はわたしだったのだと、それは分かっていた。もうここにはいない、きみにとっての特別がわたしでよかったのかはわからない。特別な日々はなかった。エンドロールも挿入歌もない無音の日常、だけど大好きだった、どこか遠くへ行ってしまった。それでもわたしは生きていく、きみを忘れて生きていく、それは不誠実だろうか、きみを愛していたわたしはもうここにはいない。


 よく通っている花屋に入り、お花を選んで五千円札を渡した。もう一度電車に乗り、きみの眠る場所へと少しだけ移動する。


 きみが誕生日にくれたホワイトリリーの香水が、未だに服にしみついている。息を吐いて、それが空気に白く溶けた。もう季節は冬だ。きみと出逢った四月が、遠く昔の過去になった。空はくもりくもっているけれど、少しだけ夕焼けが遠くにかかっている。それは滲んだ涙みたいなかたちをしていて、胸がつまって溢れだしそうになる。それをぎりぎりのところで堰き止めて歩くのが、生活というものなのだと思う。悲しみを脚色しているような気もするし、そうではないような気もする。そのままにしていたホーム画面のなか、はにかむきみを見て少し泣いた。記憶のなかにはいるというけれど、記憶のなかにしかいないのだと思うとすこしくるしい。


 お花をお墓に供えて、手を合わせて目を瞑る。ごめんね、そう呟いてそこを離れた。きみと出逢えてよかった、きみの体温を感じられてよかった、それも全部もう伝えられないけれど、きみが好きだったよ、わたしは確かにきみを愛していた。ちひろ、ごめんね、ともう一回口に出す。わたしはきみにもらった思い出を、声を、愛を、忘れながら、生きて、巡り逢いを重ねていく。きみじゃない誰かに恋をして、きみじゃない誰かと冬をこえる日がくる。真白の息を空に吐く、ゆるして、と泣きながら。


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白息 夜賀千速 @ChihayaYoruga39

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