第10話 カレーのついで
彼はいたって普段通りに過ごしていた。
他に女の影がある訳ではなく、交友関係に何か変化があるようにも見えなかった。大学のキャンパスで私と目があった時だってほんの少し気まずそうにしながら、いつもの様にただ微笑むだけだった。
誰もいない自室に戻ってぐるりと見回す。流行りの物を取り揃えた私だけの落ちつける空間。でも今日はなんだか少し落ちつかなかった。危惧した通り、カレーの匂いがほんのり残ったせいなのか。微かなスパイス臭に包まれながらゆっくりと考える。
結論。
つまり彼は私に嫉妬したのだ。華々しく大学デビューを果たした私を、彼は内心快く思っていなかったのだろう。素朴な優しい味を好む彼は、同じ田舎で育った素朴な私を良く思っていたのだった。
必死に努力し、田舎者と笑われないようバイトに明け暮れながらも周りに合わせ、無理をして頑張った私を、垢抜けた私を、彼がどんな想いで見ていたかは想像に難くない。
そして直接の引き金となったのは、彼と行ったあの喫茶店での出来事だった。
あのとき私は、彼がカレーをおかわりする姿を見て吹き出してしまった。その喫茶店の事を教えてくれた、彼の知らない男友達の姿と重ねてしまったから。その事を面白おかしく話したのがいけなかった。
華やかな垢抜けた世界を前に彼は妬き、その身を引いたのだ。まるで黒胡椒のように、ピリッと辛い刺激を残して。
『胡椒の商人はどんな気持ちだったんだろうな』と言った、先輩の言葉が蘇る。アイツは、彼もひょっとしたら胡椒の商人と同じような気持ちだったのかもしれない。
その素晴らしさにいち早く気付いた商人は、金の価値を持つ胡椒を独占していた。胡椒の魅力が一般に知れ渡り誰もが愛し、手を伸ばし始めた頃に多くの人の手に渡る方法が生まれてしまった。
自分だけが知っていたはずの魅力、流通方法だったのにとそんな想いもあったかもしれない。それでも胡椒の商人達は黙って見守り、その身を引いたのだ。
胡椒の幸せ、みんなの幸せの為に。
彼は、『やっぱりお前は本当、芋っぽいよ』と言った。多くの人に愛されるじゃが芋に喩えて、無念な気持ちをちょっぴりと滲ませて。ほんの少しだけ、後ろ足で砂をかけてみたかったのだろう。
自分が惨めで、悔しかったから。
「おや。大葉くん、ココナッツミルクの買い置きはどの棚にあるのかな」
という先輩の声でフッと我に返った。
うっとりと物思いに耽っていたようだ。ふるふると頭を振って正気を取り戻す。ええとココナッツミルク? そんな一般家庭にない物を求められても困ってしまう。
「普通ありませんよ、先輩」
「ふぅん。そういうものなのか?」
納得いっていない様子だ。カレーオタクの先輩の部屋にはあって当たり前の物なのかもしれない。
「ちょっと取ってくるよ」
と自分の部屋に戻っていった。
シンと静まり返った部屋をちらりと眺める。あの頃とは少し部屋の様相も変わっていた。田舎にいた頃の部屋に戻りつつある。無理をして周りに合わせ、取り繕うことをやめたのだ。私は垢抜け損なったかもしれない。友達も少し減った。
でも、それでも構わなかった。
じゃが芋でも世界一になれるのだから。私はじゃが芋のままで世界一を目指すとしようじゃないか。まずは、その為の一歩。
先輩がいない間にネット探偵の宣伝用の動画を取り終えた。編集をしていると、缶詰めを手にやってきた先輩が尋ねる。
「もう、彼氏とは仲直りしたのか?」
「んー、保留中です」
どうしたものだろうか。
あれ、彼とのわだかまりが溶けたことを先輩に話したっけ。あの後、先輩に私の気付きを聞いて貰おうとした所、そんな事よりもとカレーの話を聞かされ有耶無耶になっていたはずだけど。
先輩のカレー話はぐうぜん役立ったわけではないのだろうか。なんて、まさかね。
先輩はカレーの話がしたいだけだろう。私の推理力があの時たまたま花開いたのだ。きっとそうだ。不慣れなスパイスと、先輩のカレー話が私の脳細胞を活性化させたに過ぎない。
そのふたつがあれば、私は謎が解けるのだからと先輩の元に駆け寄った。
「先輩、聞いて欲しい話があるんです。大葉、大学で不思議なものを見たんです」
すると、くるくるお玉をかき混ぜなら、
「まったく、しょうがないな」
白衣の男は振り返る。
「それじゃあ、聞こうじゃないか。カレーを煮込む、その間だけな」
と。
お隣さんのカレーには謎という名のスパイスがかかっている モグラノ @moguranoki
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