蠢く深穴
酔浦幼科
告白文
告白文
K大学理学部生物科学科教授 D
これは、私の罪を暴露するための告白文である。
私はもう耐えられない。自身が犯してしまった罪を、隠さず全て、ここに記述すると誓う。
人間という生物は、知能的にも、身体的にも成長しすぎたのかもしれない、とつくづく思う。もしも私が、葉の裏をのそのそと動くカタツムリだったなら、あの恐ろしい事件に関わることも、思い出して罪に苛まれることも、無かっただろう。全ての始まりは、私の悪癖から起きた。あの恐ろしい考えのせいで、私は、大事な教え子を二人も失った挙句、関係のない人々を巻き込んでしまったのだ。
心に残った罪を軽くするために、私の知り合いの小説家に罪を吐露したことがある。だが、彼は「この話を物語にしたら、さぞ面白くなる」と、決して少なくない金額で買い取ろうとしてきたが、この告白文の中心に位置するA君が起こした連続殺人事件は、まだまだ世間の人々に深く刻まれているのだから、どんなに名前を変えてみても、どんなに嘘を加えたとしても、誰も単なるフィクションだとは思わない。これを読んでいる皆もきっと知っているだろう、日本中を恐怖のどん底に陥れたF市十二人連続殺人事件である。
私は、事件の記述に先立って、この事件の主人公でもあるA君の人となりについて、または彼の印象について、詳しく説明しておくのが便利だと思うが、実を言うと、私は彼とあまり話をしたことがない。挙げ句の果てには、おかしい話ではあるが、声すら思い出せなかったのだ。きっとそのような態度が積み重なってしまったのも、事件を起こしたきっかけなのかも知れない。よって、まずは彼が起こしてしまった事件を詳しく説明するのが妥当だと思う。
二〇二〇年の七月半ばのことである。K県F市において、相次いで行方不明事件が発生した。警察は、事件も視野に入れた捜査を行うが、結局、有力な情報は見つからないまま、時間が過ぎていった。というのも、行方不明者はいずれも、年齢、性別に共通点は見つからず、また、親子や親戚、友人といった関係ではなかった。最後に目撃された地域はF市という共通点はあるものの、逆に言ってしまえばそれだけであり、広大な地域を闇雲に捜査する訳にはいかない。このまま時間が過ぎて行くか……、と思われた時だった。
F市連続行方不明事件、その最初の失踪事件から数ヶ月後、最初に行方不明が報告された男子大学生の友人という、隣に住んでいた人物が、病院へ運ばれた。彼は、眼窩から血を流したまま、病院まで走ってきたという。検査の結果、両目の眼球が欠損、損失していた。彼に眼球を損失した理由を訊いたところ「鏡に恐ろしいものを見た」「見たくないから取り出した」と発言した。さらに詳しく問いただそうとしたが、突然「連続行方不明事件の犯人は私です」と自首した。担当した医者は、その言葉を聞いた当初、信じなかったと言う。しかし、話を聞いているうち、徐々に信憑性が明らかになり、また、警察を呼んで欲しいと、本人から申し出があったことから、一一〇番通報したとのことだった。
その後は急流のように、あっという間に時が過ぎていった。彼──A君である──の証言通りに、自宅から犯行に使われたとみられる、被害者の血痕が付着した包丁と、同じく血痕の付着した衣類が見つかった。彼は犯行動機について「夜中、ぼうっとしていると自然と身体が徘徊していた」「誰かに操られているようだった」「ただ人を家に持ち帰りたい、という意識が身体を支配していた」と言って、犯行を認めた。その後の裁判で、本人が有罪を求めていることから、死刑となった(世間から賛否両論が巻き起こったのは言うまでも無い)。
そして、A君が起こしたF市十二人連続殺人事件。これに、私が関わっている。そう断言できるのは、彼が、私の勤める大学の学生であり、さらには、最初の行方不明被害者だった彼の友人と共に、私の研究室に所属していたからである。彼らが大学に入学した年、私は二人を見かけたことがある。それは、入学式の帰りだった。式を終えて、車に乗り込もうとした私の視界に、彼らが映ったのである。二人は笑い合いながら、大学に入ったらこんなことがしたい、と、眩しすぎるほどの希望を語りあっていた。なんとも微笑ましい光景だが、まさかその数年後に、こんなことになるとは。信じられなかった。そして、自身の心の中に、ある種の疑念が生じた。白い画用紙に、黒い絵の具が一滴、落ちてしまったかのように。
もしかしたら、彼は誰かの罪を庇っているのではないか?
この疑念は、日々、過ごしている私の頭を徐々に侵食していった。時には、ニュースの情報を集めてみたり、事件の時系列を整理してみたり、挙げ句の果てには、事件現場にまで赴くことさえあった。結果は、何も見つからなかった。ただ、一点だけ、気になる証言があった。それはA君の下の階に住んでいる人に話を訊いた時である。彼は面倒臭そうに、頭をボリボリと掻きながら、私の話を聞いていたのだが、何か思い出したようで、「ああそういえば」と不意に、言葉を発した。
「そう言えば、あの人、いつの頃だったか忘れたけど、ウチに来て、謝っていました。何だっけ……、そう、確か『穴』がどうたらこうたら……って言ってたけど、俺にはよくわかんなくて、さっさと追い返しちゃったなあ」
面倒臭そうに語る彼は、私がその話に衝撃を受けていたのを知らないだろう。脳裏に嫌な予感を感じたのだ。私の脳底に封印した、遠い記憶が呼び起こされた。しかし、ありえない、とその考えを捨てることにした。後述するが、この嫌な予感は、残念ながら運悪く的中したのである。
結果として、私は探偵に向いていない事がわかった。ただただ、仕事机に事件の情報と仕事の山が溜まっていくだけの日々を過ごした。そうしたこともあってか、考える事を一旦ストップし、この事件を追いかけないようにした。というよりは、本当のことを言うと、怖いのだ。恐ろしいのだ。この事件の情報を集めている中で、白昼夢のような、ぼんやりとした、いくら手を伸ばしても掴めない事柄ばかりだけでなく、自身の嫌な予感が、腹の中でじいっと蟠っているのである。この告白文を書いている今、この最中でさえ、自身の恐ろしい考えが、頭の中を巡っていくと、目の前がじわじわと黒くなり、その闇の中に、見るも恐ろしい怪物が現れ、低い、低い、生きたチューバのような悲鳴を浴びせるのだ。そうして今、存在しているこの空間が、もしかしたら架空のものではないか。仮想現実なのではないか。本当に、私は存在しているのだろうか、と、この世が理解できないものに思われてくるのだ。
そんな訳で、A君の刑が決まる前から、事件のことを問いただしたくて、しょうがなかった。結局のところ、自分自身の性格をよく理解していたのは、自分自身だったのである。私は、探偵小説を読んでいる時、早く答えを知りたがり、途中のページを読み飛ばしてしまう。つまり、簡単に言えば、さっさと回答を知りたいのだ。A君に答えを訊きたかったのである。彼の性格からして、私にはどうも殺人を起こすような人間では無いように思える、とテレビの取材に答えたことがあるが、あれは世間体にすぎない。
刑が決まる数ヶ月前、私は刑務所へ赴くことにした。なぜ、あんな事件を起こしてしまったのか、彼が話してくれなかったその理由を聞きに。
A君は、未決拘禁者(裁判の判決が確定しておらず、警察の留置施設に身柄拘束されている被疑者、被告人のこと)として、刑務所の拘置監にいた。そう簡単に会うことはできないだろう、と長丁場を予想していたが、想像していたよりもはるかに、簡単に面会を許可された。
前日に、A君の担当看守の話を聴くことが出来た。もちろん、非公式の場であるが。彼によると、A君は非常に真面目で、何をするにも挨拶とお礼を、お辞儀と共に行い、時には「お疲れ様です」と、声をかけるのだという。彼ら看守の中で、あくまで噂話として「本当は犯人じゃないのかもなぁ」と呟く人すらいたという。しかし、担当看守によると、彼は罪に苛まれているらしく、就寝時間になって、彼の独房の前に行くと時々「すみませんでした」と何度も呟いている、とのことだった。
私が刑務所についてからしばらくして、面会室に通された。そこは、住むには少々広すぎる部屋で、壁には窓の代わりに、透明なアクリル板が鎮座していた。アクリル板に腹を向けるようにして、パイプ椅子が一つ、置いてあるだけの質素な部屋だ。板の中心には細かな穴が、円状に空いている。ここで、未決拘禁者と話すのだろう。そして、板の反対側にも同じような部屋があった。面会室を知らない人がここに入ったなら、鏡と勘違いするかもしれない。それほどに、同じような部屋が向かい合っていたのである。それから、気まずいような時間を過ごした。実時間にしてみれば、数分程度だったかもしれないが、私にとってみれば、まるで数時間も経っているように錯覚した。
そうして、緊張が限界にまで達そうとした、ちょうどその時、向こうの部屋の扉が開いた。そして、鋭い目をした看守に引き連れられて、撫で肩の見るからに若い少年が現れた。髪は切ってないのか、少々長く、耳に掛かってしまっているほどだった。パッチリとした目が入っていたはずの部分は、今は何も入っていない。A君である。
彼と私は、久しぶりに顔を合わせた。目が見えないA君に対して、来た人が私だという事を説明しないといけなかったが、何度か会話して行くうちに、理解したようである。彼はその小さな体を、さらに小さく折りたたんでお辞儀した。その一つ一つの所作が美しく、何もない部屋と、美しい彼の姿との不釣り合いが際立ったからか、まるで味噌汁の中にトマトが入っているかのような、奇妙な違和感を感じた。
まずは、雑談をした。何せ、久しぶりに会うのである。何より、ここが刑務所かどうか忘れてしまうほどに、彼は明るく振る舞っていたからだ。私は、さも友人に話しかけるように、饒舌に語った。ここ何ヶ月間で起きた話、私と私の妻との間に起きた失敗話、同じ研究室に所属している人たちの話──。時々、笑いも起きた。彼は本当に嬉しそうだった。研究室にいた頃とは打って変わって、彼の口は、話し上手になっているようだった。研究室では、まるでロダンの「考える人」のように、じっと俯いて、誰の話も聞いていないように思えた。だが、今目の前にいるA君はどうだろう。視力を失った彼は、研究室時代では、考えられないほど口が滑らかに動いた。時々、彼が質問をして、私が答える場面さえあった。場所が場所でなければ、正しく先生と生徒の関係性を思い出させた。
しばらく会話を往復させた後、私は本題に入ることにした。咳払いをして、一呼吸おく。それから、彼の犯した罪について尋ねることにした。
「なぜ、こんなことになってしまったんだろうね」
彼は、私のその言葉を聞くと、先ほどの元気が一気になくなってしまった。そうして、まるで萎れた向日葵のように俯いてしまった。それから、一言、「申し訳ありません」と漏れ出た空気のような小さい声で言った。
「いまだに信じられない。君のような大人しい子が──」
「私はただ、臆病だっただけです」割り込むように、彼が言った。
「臆病だった子がこんな事をするなんて、僕には考えられないよ」
彼は俯いたまま、黙ってしまった。
「もしかしたら」私は小声で言った。それは、奥で睨みを利かせている看守に、聞こえないようにしたからだ。まあ、こんなことをしても、聞こえているだろうけど。
「もしかしたら……本当は殺してないんじゃないか?」
彼はハッとして私の方を見た。その目には、涙が浮かんでいた。しかし、彼の返答は私を失望させるものだった。
「……いいえ、先生。私は確かに殺したのです。この手にハッキリと、肉を切り刻む感触が残っているのです」A君は、首を振った。
「ならばなぜ、犯行動機を喋らないんだ。実は、無いんだろう? 心優しい君のことだ、誰かを庇っているんじゃないかい」少々興奮したのか、私はアクリル板に自身の顔が近付いているのを自覚した。監視している看守の睨みが、先ほどよりも鋭くなっていく。A君は、やはり首を振り「いえ、覚えてないのです。でも、確かに私が殺しました。」と苦しそうに答えた。
矛盾しているその言葉に違和感を覚えつつ、私は率直にどうやって殺したのかを尋ねた。彼の話を論理立てていけば、どこか矛盾している点を突っついて、最終的には、真犯人が分かるんじゃないか、と甘い考えを持った。
今思えば、私はA君のことを心配していたのではなく、ある種の空回りした義憤のような、または正義感あふれる探偵のような、謎解きゲームをしている気分に浸っていたのだ。真犯人を見つけ、真実を発見し、ヒーローのように救い出す。まるで空想小説のようなハッピーエンドを夢見ていたのだ。だが、現実はそう甘くない。目の前には、私の想像よりもはるかに上の、黒漆よりも真黒な真実が、こちらをじっと見つめていたのである。
「信じてもらえません」彼は、顔をくしゃっと歪ませて、何度も、何度も、首を横に振って答えようとはしなかった。
「だが、私は君の教師だ。少しでも、信じる気持ちがあってはダメかい」慎重に答えた。
「いえ、信じてもらえるのは嬉しいです。でも、私の身に起きたことは、私自身、信じられないのです」
「それは、どういうことだ」私の呼吸が早くなっているのか、アクリル板が少し曇った。
「……一言では説明できません」
「……そうか。それならいいんだ。でも、言葉にしてみるのも大事だと思う。もし、今、言葉にできないなら、後日でもいい。私に真実を話してくれないか」息を荒くして、私は彼に言った。もし真ん中にアクリル板がなければ、今頃、私は、A君に駆け寄って胸倉を掴み、真実を教えろ、と、脅していたかもしれない。それほど、興奮していたのである。
しばらく彼は考えているようだった。そして「……わかりました。先生を信じてみようと思います。ですが、もう面会時間がありません。詳細な話は手紙で送ります」と言った。私を信じてくれるのは嬉しいのだが。
「手紙?」私は不思議に思った。「また、ここに来るよ。その時に教えてくれ」
「先生、言葉では説明できないのです。自分に起きていることを、一言では説明できないんです。心臓の動かし方を説明できないのと一緒で」
A君は譲らず、結局、手紙で詳細を送ってくれることになった。今になって思えば、予感がしていたのかもしれない。自分の将来、いや、自分の未来に起こることを。
後日、私の元に手紙が届いた。内容を読んで、私は絶句した。と言うより、信じられなかった。あんなに信じると言っていて、いざ読んでみると、彼の身に起きたその一部始終を、到底理解できなかったのだ。
これを読んでいる者にも、俄かに信じがたいことだと思うが、私は彼の書いた手紙の一字一句を漏らさず、ここに記していることを誓う。
先生へ
A
先生、あのような我儘、大変申し訳ありませんでした。ただ、こうして文章にしなければ、私自身の言葉を伝えることができず、また、私の体験したことを整理してお話しすることができないように思われたため、手紙としてお送りいたします。
久しぶりに、先生とお話しできて、非常に嬉しかったです。先生もご存知の通り、私は人とのコミュニケーションを取るのが苦手です。話そうにも、話せないのです。言葉にできないと言いますか。でも、先生とお話した、あの面会時だけは、私の思った言葉がすらすらと出てきて、驚きました。自分の性格が変わるほどに、独房という閉鎖的な環境では、ストレスが掛かるのかもしれません。
さて、本題ですが、先生が知りたがっていた事件の詳細を記載するより先に、私自身の事を書いたほうがいいように思うので、記します。事件にも関係があるように思われるので。
私は、子供の頃から臆病でした。両親は「優しい性格なんだよ」と、私の性格を否定せず、励まし、褒めてくれたのですが、それが子供の私に伝わることはなく、また、小学校のクラスメートにも伝わりませんでした。なので、しょっちゅういじめられていました。ここで語るのも嫌なほど、ひどいこともされました。最初は「嫌だ」「やめて」「なんでこんなことするの」と言っては泣いていましたが、次第に慣れてしまい、泣くことも無くなりました。いじめが起こるたび、私は、軽くため息をついて、散らばった教科書や落書きを消したり、隠された上履きを探しに行ったりなど、自分で全て解決していくようになりました。この頃からだったと思います、私が他人とのコミュニケーションを取らなくなったのは。というより、諦めたと言った方が正しいです。どうせ、他人と会話しても、いじめられる。助けてくれる人なんていない。ヒーローなんて、漫画やアニメの世界にしかいないんだ。こんな事を、毎日考えるようになりました。しかし、そんな考えが一変するような出来事が起きたのです。
ある日のこと。いつものように登校すると、これまたいつものように、机に落書きがされていました。その稚拙な罵倒語を、ため息をつきながら消していると、突然、机の前に仁王立ちして、消しゴムを持ち、一緒に消してくれる人がいました。一通り消し終わると、一緒に消してくれた彼は、クスクスとこちらを見て笑うクラスの皆に、大声でこう言ったのです。
「いじめて何が楽しいの? やめろよ」
それから、私に対するいじめは、少々減りました。彼の名をB君(筆者注:プライバシーのため名前をアルファベットにしている)と言います。そして、B君こそ、最初に私が殺めてしまった人です。親友でした。私が気を病んでいると、彼が助けに入り、また私がいじめられていると、彼は毅然として私の前に立ち、守ってくれたのです。
私は、彼の寄生虫になりました。そうでもしないと、いじめられてしまうからです。迷惑かな、と何度も思いましたが、B君は気にすることなく、むしろ私が頼ると、嬉しそうに笑うのです。「困っている人を助けて、ありがとう、って言われた時が一番嬉しいんだよ」が、彼の口癖でした。そんなヒーローに寄生する関係が中学、高校と続き、ついには卒業後の進路を決める時期になりました。私は、親に勧められた通り、地元に残って就職しようと考えていたのですが、B君は「お前、弱っちいのに、社会に出ていけるのかよ。俺と一緒の大学に行こう」と笑いました。
そして、私は彼に誘われる形で大学生になりました。両親は非常に心配していましたが、頼もしいB君の姿と、私の熱心な説得を経て、最終的には許可してくれました。私と彼は、同じ学部へ、そして生物の研究をしました。そうです。私とB君は、先生の研究室に所属することになったのです。
しかし、彼は突然、家から出なくなりました。先生も覚えているでしょうか。彼が大学に来なくなる前日、私はいつも通り、B君と大学へ行きました。焼けるような日差しの日でした。研究室に着いた時、B君は、先生のテーブルの上に置いてあった物を、じっと見ていました。それから、彼の様子が変になっていきました。どうしたの、と訊いたのですが、別になんでもない、とはぐらかされてしまいました。それ以降ずっと、様子がおかしくなりました。あちらこちらを忙しなく見て、話しかければ肩を大きく震わせて、何かに怯えたようにこちらへ振り向くのです。ただ、その日は何も無く、一日が終わりました。B君も、家に着く頃にはいつも通り、元気いっぱいの姿を見せてくれました。
ですが、今日一日の彼の様子がどうしても気になって、とても心配だった私は、数日後、彼の家へ行きました。私と彼は同じアパートの隣同士で暮らしていたので、家に行くことは簡単でした。
隣ですから、ガタガタと物音がしたら「あ、今起きたな」とか「寝るんだな」というのは、何となく分かるのですが、その日だけは、凍てついたように全く物音がせず、心配でした。家を出て、彼の家のインターホンを鳴らしたのですが、返事をしないどころか、誰かが動く音すらしません。出掛けているのでは、と思うかも知れませんが、前述したように、結構、物音は聞こえる家だったので、彼が外出したのならば、出掛ける際に音がするはずです。ですが、その日は一度もそのような物音はしていませんでした。不思議に思った私が、ドアノブに手を掛けると、ドアは苦しそうに軋みました。鍵が、掛かっていなかったのです。恐る恐るドアを開けて、まず、私は部屋の暗さに驚きました。外は昼間なのにも関わらず、異常に暗かったのです。カーテンを閉めているからだ、と思うでしょうが(確かに、カーテンは閉まっていました)それにしても異常に暗いのです。カーテンにだって隙間はあり、その隙間から、少しでも光が差します。しかし、今、目の前に広がっている、彼の部屋は、もはや「暗い」というより「黒い」のです。例えるならば、墨汁を部屋中に撒き散らしたかのように真っ黒でした。
ふと、ガタリ、と物音がしました。部屋の奥、テーブルの上に突っ伏しているB君から発せられた音でした。ハッとして、私は駆け寄りました。息が細く荒い彼は、非常に弱っているようでした。大学入学時のB君は、黒髪で、元気一杯で、ウキウキとした様子で私に将来の夢を語っていましたが、今、目の前にいるB君の姿は、髪はやつれ、腰が曲がって、まるで年寄りでした。「大丈夫?」と声をかけたところ、彼はゆっくりと自身の体を、辛そうに持ち上げました。突然、目の前を閃光が襲いました。唐突だったので、私は驚いてバランスを崩し、床に倒れました。彼は私の顔にめがけて、いつの間にか持っていた、懐中電灯の光を当てたのです。私の顔を、まるで間違い探しをする子供のように、じいっと睨むと、B君は、それまでの老人のようなフラフラした状態から打って変わって、急に立ち上がり、倒れている私の胸倉を掴みました。「どこから入ってきた!」「近寄るな!」「早く家から出ろ!」と言って。そして、いつの間にか、追い出されてしまいました。
私は、非常に落胆しました。小中高と、私のヒーローだった彼が、やつれてしまったあの姿を見てしまったからです。そして、そんな憧れの彼に、拒絶されたからです。彼と一緒にいたいから、辛くても同じ大学に進んだのに。寄生虫は、宿主の生物から無理やり取り除かれた時、生きていけるのでしょうか。いいえ、生きていけません。私の状態はそれでした。B君という宿主から、無理やり引っこ抜かれた寄生虫です。閉められたドアを前にして、傷心した私はトボトボとおぼつかない足取りで家に戻り、悲しみのあまり床に寝転びました。
隣では、相変わらず何も物音がしません。私は、静かな部屋の中、まるで死体にでもなってしまったかのように、じっと動きませんでした。動く気力すら無かったのです。顔を、涙が伝いました。その涙が床に付いて、それに目をやった時、ふと、私は奇妙な光景を目にしました。私の目の錯覚かな、と思わせるほど、小さな変化があったのです。
穴です。私が寝そべっている床、そこに、小さな穴●空いておりました。その穴は人差し指がすっぽりと入るほどの大きさでした(実際に穴へ指を入れたわけではないのですが)。私は、何か物を落として、その衝撃で穴が空いてしまったのかしら、と変な思い込みをして、それならば、下の階の人に謝らなければならない、となんとか体を起き上がらせ、家を出て階段を降りました。
下階の家のインターホンを押すと、私と同じぐらいの歳の若い人が出てきました。私は事情を話して謝り、落ちてきたものがあれば返して欲しい、と伝えました。すると、「穴……? 変だなあ。天井には●んな穴なんて見当たらないけど」とのことでした。彼は私の顔を訝しげにジロジロと見て、「他に用がないなら」と、それから勢いよく扉を閉めてしまいました。
私は家に戻って、先ほどと同じように寝そべり、●の不思議な穴を再度、見つめました。下の階の人は穴な●無い、と言いましたが、私の目の前には確●にあります。しかし、観察すればするほど、その穴は不思議なものでした。よくよく見れば、穴の奥は真っ暗です。貫通しているのなら、そこに下の階の部屋が見えるはずなので、貫通しているわけではないと分かるのですが、それならば、これは一体何なのだろう、と不思議に思いました。しばらく考えて、どうでも良くなった私は、気にすることをやめました。そんなものに気を配るなら、さっさと寝てしまいたい、そう思いました。それに、B君と仲違いをしてしまった、と意気消沈しているのです。私の頭の中はすぐさま、B君に謝らなきゃ、という思いで埋●尽くされました。
その日は寝て、翌日。朝の身支度をしていたところ、私は昨●見た穴に目をやりました。しかし、そこには何もなく、ただ木目の床が広が●ておりました。私は自分自身に、気でも狂ったのかしらと不思議に思いながらも、外出しました。いつも、買い物に利用するスーパーは、家がある場所から坂を降りてすぐのところ、距離で言うと七〇〇メートルほどの近い場所だったのですが、そこですれ違う親子や、若者、老人までもが、私の方を見てヒソヒソ●話すのです。寝癖でも付いていたかしら、と頭に手をやっても、何も変なところはないのです。明らかに私に聞こえるように、きもち悪いと発言する人たちすらいました。昔経験した、いじめられている気分になり、心に傷を負ったまま、帰路につきました。
家に帰ってきて、買った卵を冷蔵庫に入れた時、私は、思わず鳥肌が立ってしまうほど、不気味に思いました。それは、朝には見かけなかった穴がまた、ぽっかりと口を開けていたからです。一度消えた穴がまた空いている……そんな現象、普通だったら、気味悪がって、家を出ていきそうなものですが、私はなぜだかポコポコと怒りが湧いてきて、腹いせに●●っきり踏みつけました。グシャ、と何かが潰れるような音がしたのですが、穴は相変わらず空いています。「大家さんに相談してみよう」と、ため息混じりに独り言を呟いて、そして、不貞寝をしました。
その日の夜、私は奇妙な夢を見たのです。フラフラと立ち上がり、深夜に包丁を持って歩く自分。その姿は、隣のB君の家へ進みます。慎重にドアを開け、音を立てないように、爪先立ちで侵入していくのです。そして、相変わらずテーブルの上に突っ伏しているB君の喉元に、私は力の限り、包丁を振り下ろしました。その瞬間、ブチブチと何かをちぎるような感触がした後、赤色が爆発しました。視界が血でいっぱいになったのです。まるで花火みたいだ。そんな場違いな感想を口にしました。
その鮮血が、ぐるぐると回転して、私は物音で目が覚めました。先ほどまでの景色は夢だと、この時気づきました。それほどにも、あの夢は衝撃的で、刺激的でした。恐ろしい悪夢から覚め、目を開いた私の耳へ、息を整える余裕すらないほどすぐに、何かが床を蠢いている音が届きました。生物が動く音です。ザリ……ザリ……と何かを引き摺●ような音です。私はそっと、音のする方へ目線をやったけれど、身体は金縛りに遭ったように、全く動きませんでした。私は諦めて、静かに瞼を閉じました。けれど、あの鮮血は瞼の裏にびっしりとこびりついて、離れようとしてくれず、あまり眠れずに朝を迎えました。
鳥の鳴き声で目が覚め、瞼を擦る私の目に、驚くべき光景が入ってきました。そこには、ぽっかりと穴が空いていました。しかも、一つだけではありません。あちらにも、こちらにも、壁にも、天井にも……。穴が大量に発生していたのです。それは、まるで巨大な黒カビが、あちらこちらに生えてしまったかのようです。さらには、そのどれもから、ザリ……ザリ……と音がするのです。●●、そのあまりの恐ろしさに、私は思わず大声をあげ、寝巻き姿なのにも関わらず、家を飛び出そうとしました。しかし、玄関で見てしまったのです。
そこには、無惨にもB君の死体がいました。
包丁が首に刺さったまま、死んでいました。玄関のドアにもたれかかるようにそこに居たのです。だらんと口からぶら下がった舌は、地面を指して動こうとしません。ただ、不思議なことに、傷口から出た血は、ナイフや服に付いたもの以外、見当たらないのです。床に血の水溜りを作っているはずですが、そこには何もありませんでした。私は、その光景に、ああ、私が殺したのだ、と理解しました。昨日見た夢は、正夢だったのだ。私が殺したのだ、と。
その時、私はまた聞きました。今度ははっきりと、何かを引き摺るような音。不快な音なのに、私には、はっきりと意味が伝わったのです。「クワセロ。タリナイ」と。その時察しました。●●この穴は生きている。一種の生物●のだ。こいつらは人間を衰弱させて食べる生物だったのだ。しかし、私はすでにすっかり衰弱しています。何も言い返すことはできません。私の体はまるでその幻の声に操られているように、目の前にあった包丁で、死体を切り刻みました。不思議なことに、恐ろしいとか、●●グロテスクだ、とかそんな感情は一切湧きませんでした。ただただ細かく、細かくしなければ、と仕事のような感覚で、骨から肉を剥ぎ取り、一つ一つ、穴に入れてやりました。変な感触でした。●●料理するときに切る肉の感触とは違う。やけにひっついて、やけに粘っこい、切りづらいものでした。私の身体は、返り血ですっかり真っ赤になってしまいまして、一通り細かく肉を穴に入れた後、風呂場へ行って血を流しました。
それからの人生は思い出したくもありません。私は何度も、何度も、●●●穴に指示されては殺しました。夜、寝ると、身体が私の意識を解さずに、ふわりと立ち上がり、街を徘徊するのです。そして、出歩く人々に対して、手に持っていた包丁で刺しました。ぐちゃりとした、嫌な感触だけが手に残りました。もう私は人形でした。穴の声に逆らうことができなくなっていくのです。●●ある時、ちょうど十二人目の返り血を洗っているところでした。ふと、洗面台に目が行きました。その鏡はいつもなら曇っていて、私の顔が見えなかったのですが、偶然にも、流した水が鏡に掛かって、私の姿がはっきりと見えたのです。その時、恐ろしいものを見ました。自分が自分でないような●の●で●のようだったのです。それか●●●●●で●●●●●●●●●●●●●●●●●眼●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●剥ぎ取りました●●●●●●●●●●●●●スポーンで抉り●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●カタツムリのようで●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●美味しかったです●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●寄生された●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●ニンゲンは美味しいのです●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●何人も●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●殺人●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●今も、体が思うように動きません。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●止められないのです。●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●助けてほしいです●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●無実なのでしょうか●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●●(これ以降、延々と丸が続く。時々文字が見えるも、解読できない)
恐ろしい。思わず呟いた。読み終わった私は、途中からガタガタと身体の震えが止まらなくなっていった。落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をして、もう一度、その手紙へ目をやった。
途中から、文字の間に埋め込まれた黒点は誤字ではない。A君の手紙は手書きだったが、A君は文字の上から何度も、何度も、ボールペンを使って点を描いているようだ。時々、塗りつぶされすぎて、原稿用紙が破れてしまっている部分さえある。私には到底理解できない、底の深い恐怖だった。
A君はこの手紙を出した翌日、獄中で死亡した。心臓マヒだった。生前に、A君の最期の姿を見た看守によると、彼は目が見えてないのにも関わらず、この手紙を流暢に書き進めていて、さらには、一度書いた文字の上に、黒い丸を一心不乱に描いていたと言う。それは月明かりに照らされて、非常に不気味だったそうだ。
私は一度、目を閉じて、それから、机の引き出しの中、奥の、奥の方に、取り残された研究資料を取り出した。それは、私が過去に研究した、ある生物についてだ。学名をInprobi Voratrinae(蠢く深穴)と名付ける予定だったこの生物は、まだ未発表だった。この生物は、自然界ではまだ見つかっておらず、どこからか現れたのかはっきりとしないが、簡単に言えば寄生虫のようなものだ。Inprobi Voratrinaeは人間に寄生し、そして宿主の意識を操作する。つまり、わかりやすく言えば、ロイコクロリディウムやハリガネムシと似たようなもの、と言えばわかりやすい。ロイコクロリディウムは、中間宿主としてカタツムリに寄生し、カタツムリの体内で増殖、そしてカタツムリに目立つ動きをさせるように操作する。最終宿主である鳥へ侵入するためだ。ハリガネムシは宿主であるカマキリを、操って水に飛び込ませる。そして水中で繁殖する。
Inprobi Voratrinaeは、一見すると、壁に開いた穴のように見える独特の姿をしているのだが、薄べったい見た目の彼らは、少しの食べ物があれば増殖する。また、彼らは自己増殖させる際に用いる卵に、幻覚作用のある5-MeO-DMTを多量に含んでいる(この幻覚作用のある成分は、例えばコロラドリバーヒキガエルの分泌液にも含まれている)。
私がこれを発見したのは、知り合いの研究者から送られてきたからだった。彼は裏社会で流通していた「マックロ」と呼ばれるドラッグを持ち込んだ。曰く、植物として研究したが、どうもこれは君の研究分野かもしれない、とのことだった。幻覚作用の毒物を出す動物は、前にもあげたコロラドリバーヒキガエルの例もあり、劇物を取り入れないように、慎重に研究していた。すると、確かにこれは植物ではなく動物であることがわかった。しかし、何を好んで食べ、どのようにして増殖するのか分からないままだった。
結局のところ、自分自身の性格をよく理解していたのは、自分自身だったのである。私は手っ取り早く答えを知る方法として、わざと、机の上に「マックロ」を放置してみた。ドラッグに興味のある学生が盗んでくれないか、そんなドス黒い考えが、私を行動させた。そんなある日だった。予想通りこれが盗まれる事件が発生した。個人的な所有物だったので、警察に届け出るのも迷ったという方便で、警察に報告しなかった。盗まれた翌日から、B君が研究室に現れなくなった。彼はきっとどこからか、「マックロ」の噂を聞いたのだろう。私は、心配になったという体で、彼の家に行った。するとどうだ。あたり一面に黒、黒、黒。黒い点々が所狭しと並んでいた。恐ろしくなって、逃げてしまった。それからというもの、私は恐ろしくてその研究を辞めてしまった。そして起きたのがあの連続殺人事件だ。A君は、幻覚作用のある毒物を多量に摂取した結果、身体が乗っ取られたと勘違いして、ああなったのだろう、と言い聞かせていた。しかし、実際にはあり得ない。確かに幻覚は見るだろうが、薬物によって身体はボロボロになり、殺人を犯すどころか自分自身が死んでしまうだろう。つまり、「マックロ」には意識があるのだ。人間と同じかそれ以上、そして人間を操れる生態を持つのだ。殺害した人間を捕食して生きて繁殖するのだ。
私の未熟な行為で、A君もB君も失ってしまった。私は、罪を告白する。そして、世界に警鐘する。この「マックロ」を世に広めてはいけない。いずれは世界が滅ぶ。私は、この「マックロ」を絶滅するために、そして、A君とB君へ贖罪の意味も兼ねて、戦う事を誓う。
執筆者:K大学理学部生物科学科教授 D
ここまで一通り書き終わって、私は目を閉じた。
今まで睨んでいたノートパソコンから目線を外して、窓の外を見る。もうすっかり暗くなっている。つい先ほど淹れたと思ったコーヒーは、すでに冷たくなってしまっていた。それを喉に流し込む。不味い。もう一度、パソコンへ目をやると、そこには、先ほど執筆した私の告白文が載っていた。
この告白文は、罪に苛まれた私が我慢できずに懺悔するということと、こんな恐ろしい生き物がいるのだから注意しろ、の二点を伝えたい目的で書いた。この生き物が世界中に蔓延したら、それこそ人類は滅ぶだろう。それを広めてしまった私の責任だ。これが伝わるといいが。
私は、すっかり固まってしまった腰をほぐしつつ、立ち上がり、台所へ向かった。軽い眩暈がする。立ちくらみだろうか。冷たくなったコーヒーを流しに捨て、新しく淹れる。インスタントの粉を入れ、そこに沸いたばかりのお湯を注ぐ。漆黒な液体は、香ばしい匂いと共に、コポコポと音がした。ふと、一滴コーヒーがこぼれてしまった。そのまま、水滴が地面へ落ちる。疲れていたのだろう、私は、何も考えず、その水滴を目線で追った。その時、地面に落ちたコーヒーの水滴がやけに黒く感じた。いや、むしろそれは穴のようで……。
私はハッとして、意識をそちらへ向けた。しかし、そこにはただのフローリングと、コーヒーの水滴が一つ、落ちているだけだ。私は一つ、大きなため息をついた。目を閉じると、A君が見たという夢の光景がありありと浮かんでくる。彼の文章には、何か得体の知れない生き物が、文字の裏に隠れているのでは、と勘繰ってしまうほど、ゾッとする何かがあった。おかげで、私の目にはさっきから、変な幻覚がチラチラ見えてしまっている。疲れているのだろう。私は、湯気の立ったコーヒーを一口啜ると、元の部屋に戻ろうとした、その時だった。
隣の妻の部屋から、何か物を引き摺るような音がした。形容し難い音だった。それは重たく、腹の底から響いているようだ。言葉にするなら……ザリ……ザリ、といった感じだろうか。私は思わず、音のする方へ目をやった。部屋のドアが少し開いている。その隙間を覗くと、そこには暗闇が全てを染めていた。動悸が段々激しくなっていくのが、自分でも分かる。一筋の汗が、顔を伝っていく。そっと、私はドアノブを握った。手が震えているのか、軽く、爪が金属を引っ掻く音がした。ゆっくりと、ゆっくりと扉を開く。音がしないように──。
「あなた?」
ギョッとして、私は声のする方へ目線をやった。妻はトイレルームから出てきたようで、そのまま台所へ、私に背を向けたまま、水を一口、ゴクリと飲んでいた。ああ、私の考えは取り越し苦労だったようだ。どうやら妻はトイレに行っていたらしい。肩の力が、急激に抜けていく。
「何してるの?」蛇口から流れる水の音をBGMに、彼女は背を向けたまま、言った。
「あ、ああ、いや、君はもう寝ているのかな、と」顔が熱くなっていくのがわかった。
「あら、ふふ……。そういうことは、事前に言ってもらわないと、私だって準備があるんだもの。今日はダメよ」彼女は相変わらず背を向けつつ、水を少しずつ飲んでいた。
「いや、分かってるさ。あー、いやその、物音がしたものだから。泥棒でもいるのかなって」
「この家に高価な物なんて何もないのに。そんなお馬鹿さん、いないわよ」彼女はクスリと笑った。つられて、私もハハハ、と笑う。そして、彼女は振り返った。
鋭い音が響いた。物が割れた音だ。私が、コーヒーの入ったカップを落としてしまった音だった。ああ、床に落ちていた黒点は、見間違いではなかったのだ。彼女の寝室の扉から見た光景は、やはり幻覚では無かった。夥しいほどの黒点が、月明かりに照らされて鈍く光っているあの光景は。
私は、自分の書いた告白文、その中のA君の手紙に書かれていた事の中で、一つだけわからないことがあった。それは「鏡」。A君は鏡を見て恐ろしいと言っていた。何に怯えていたのだろうか。目玉を取るほどの恐怖。それは一体何だったのだろうか。彼が外に出た時、次々に人から指されたのはなぜだったのだろうか。B君は、なぜA君をあれほど強く拒絶したのだろうか。
私はその答えが、今ならはっきりとわかる。
目玉だ。「マックロ」が目玉に入り込んでいたのだ。ロイコクロリディウムと同じなのだろう。彼らは、宿主の部屋だけで増殖すると、私は考えていた。だが、部屋だけなのだろうか? 同じ部屋に長く住んでいる人間の体内にも侵入しないだろうか? 答えはイエスだ。人間の体内に侵入したInprobi Voratrinaeは、体内をゆっくり侵食しながら、目玉に到達する。そして、増殖を始めるのだ。
なぜ、私はここまで断言できるのだろうか。それは、目の前の実例を見ているからだろう。
「疲れているのかしら?」妻が言う。いや、妻の姿をした何か、そう考えてもいい。心配してくれる彼女の目は、白い部分が一切無かった。目玉が全て真っ黒になっていた。よく見ると、その黒は、点の集まりで、時々グルン、と目玉の中を移動していた。
人間は、いつか全滅するだろう。
私の予感がそう告げていた。
蠢く深穴 酔浦幼科 @youka-yoiura
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