誕生日のお決まりごと

冠つらら

誕生日のお決まりごと

 誕生日にはそれぞれの当たり前があるのだと思う。

 ケーキは絶対にチョコレートとか、お友だちをたくさん呼んで盛大に祝うとか、何事もなくベッドに戻るためにささやかに過ごすとか──、数えきれない「お決まりごと」が毎日繰り広げられている。

 今日まさに七歳になったばかりのスズカは、ぬいぐるみを見つめ微かに瞳を輝かせた。愛らしいそのうさぎは大きなリボンのついたカラフルなプレゼント箱に詰められていく。

「はい、どうぞ。おたんじょうびおめでとう」

 笑顔の店員さんは、派手に飾られたその箱をそっと差し出す。彼女の優しい声に、スズカは思わず足を一歩前に出した。けれど──。

「スズカお待たせ。さぁ行きましょう」

 はしゃぐ女の子の歓声と同時に聞こえてきた自分を呼ぶ母の声にスズカはハッと顔を上げる。

 前に出しかけた足を戻し、スズカは母の手を握りしめてこくりと頷いた。ショーウィンドウ越しに見えていたプレゼント箱は、すでに知らない女の子に抱きしめられている。興奮気味に両親にうさぎの話をする彼女はきっと、毎年ひとつ、誕生日にぬいぐるみを買ってもらうのが恒例行事なのだろう。

 そんなことを考えながら、スズカは母の手に引かれておもちゃ屋を背に歩く。

 うさぎのぬいぐるみは少しうらやましいけれど、スズカがショッピングモールに来たのは自分の誕生日プレゼントを買ってもらうためではない。誕生日プレゼントはいつも待ちきれず、だいたい一週間前にはもう用意してもらっているからだ。

「お母さん、終わったらケーキを選んでもいい?」

「ええもちろん。今年はどんなケーキがいい?」

「えっとね。フルーツがたくさんのってるやつがいいな」

 スズカのはにかみに母は楽しみね、と愉快に笑う。誕生日に食べるケーキにこだわりがあるわけでもない。母と二人で食べるならなんだってケーキは美味しいからだ。

「それならフルーツタルトを買おう。でもその前に、ほら、こっちを向いて?」

 ぴたりと立ち止まったスズカと顔を合わせ、母は娘の顔をしっかり見るためにしゃがみこむ。スズカの三つ編みを結ぶリボンが少し斜めになっていたのを直し、母はニコリと満足そうに微笑んだ。

「これで完璧」

 それから、ショッピングモールの二階の隅に設けられた一畳ほどのスペースに座る眼鏡をかけた男性に声をかけた。

「この子の似顔絵をお願いします」

 母はスズカの肩に手を置き、娘を眼鏡の彼に紹介する。彼の背後にはたくさんの似顔絵サンプルが飾られていた。スズカは彼が描いた数々の似顔絵を見上げて思わずクスリと笑う。どれもこれも鼻や唇が誇張されて描かれていて、いかにもギャグマンガに出てきそうなキャラクターのようで可笑しかった。

「お母さん」

 スズカは椅子に座りながら母に訊ねる。

「本当にこういうのでいいの?」

 クスクスと肩を揺らしながら笑うスズカはサンプルのイラストたちを指差してみせる。すると母は、もちろん、と言わんばかりに親指を立てた。

「さ、お嬢さん、準備はいいですか?」

 二人の間に挟まれた絵描きの彼はスケッチブックとペンを手に取り腕まくりをした。スズカはもう一度母と目を見合わせ、元気よく答える。

「はい。もちろんです!」

 正直に言えば彼の描く絵はスズカの好みのものではない。でも今回はスズカの好みは関係なかった。これは母のために描いてもらうものなのだ。

 誕生日のお決まり事。スズカの場合は、毎年自分の肖像画を違う絵描きに描いてもらうことこそがそうだった。

 今日の主役である自分へのプレゼントとはまた別で、この絵は母へのプレゼント。スズカと誕生日が近い母は、自分の誕生日プレゼントに毎年必ずスズカの肖像画をリクエストする。スズカが何か別の物はいらないのかと訊ねても、返事はいつも決まっていた。

「お母さんは、スズカの肖像画が欲しいな」

 母が望むのならスズカもそれに応えるしかない。このプレゼントは、スズカが忘れてしまった一歳の誕生日から続く二人の恒例行事なのだ。

 一冊のスケッチブックに毎年一枚ずつ。

 絵を描いてもらうのはできるだけ誕生日当日で、その日はとびきりのおめかしをしてお出かけする。今日も、最近のお気に入りである黄色のリボンで髪を結んでもらった。着ているワンピースは、おばあちゃんに買ってもらった特別なもの。

 真剣な眼差しで自分を観察してはスケッチブックにペンを走らせる絵描きをじっと見つめ、スズカは自分がどんなキャラクターに変身するのだろうと想像した。

 彼の描く似顔絵はこれまでの六年間には一切なかった類のもの。母は毎年違うタッチの絵描きを探してスズカの姿を描いてもらうのを楽しみにしている。母が言うには──色んな世界のスズカが見たい、らしい。

 去年は少女漫画みたいな絵で、その前は西洋絵画のような絵、さらにその前は、鉛筆でラフに描かれたものだった。

「はい、おつかれさまでしたっ! 完成ですっ」

 そして今年は、やっぱりギャグマンガのキャラクター。

 完成した絵を一目見たスズカは、思った以上に面白おかしく描かれている自分の顔に吹き出した。

「お母さん、わたし、こんな顔してるの?」

 スケッチブックを受け取る母に駆け寄ったスズカはもう一度自分の姿を確認してみる。やっぱり面白くて、スズカは大声で笑い出す。

 母は絵描きにお礼を言った後で一緒になってスケッチブックを覗き込む。

「うん。やっぱり、スズカはかわいい」

 これもまた、毎年恒例の母の言葉だ。


 その次の年も、また次の年も、母の誕生日プレゼントに肖像画を贈る習慣は続いた。母がそれ以外を望まないのだから、やはりスズカはそれを叶えるしかない。

 十一歳になる頃には、スズカも自分から絵描きを探すようになってきた。趣向を凝らして様々な画風で自分を描いてもらうことにスズカ本人もこだわりだしたのだ。十二歳の時には絵の上手なスズカの友だちに描いてもらうことにした。十三歳の時は、少し勇気を出して美術部のエースに肖像画を描いてもらった。

 十四歳になると、いつでも写真が撮れるのにどうしてわざわざ人に絵を描いてもらうのかと不思議に思うようになってきた。例えば写真館で写真を撮ってもらう方が手間がかからない気がしたのだ。絵描きを探す必要もない。

「ねぇお母さん。いつもたくさんわたしの写真を撮ってるのに、まだプレゼントは肖像画がいいの? もっと別の物だって用意できるのに」

 スズカの疑問に、母は人差し指をスズカの顔の前に突き出して得意気に言った。

「誰かの目を通して見るあなたの姿が見たいの。写真なら私でも撮れるでしょう。それじゃおもしろくないじゃない」

「でもカメラマンも違う人だよ」

「写真とイラスト、どっちの方が個性がある?」

「うーん。そりゃイラストの方が分かりやすいけど…」

「そうでしょう。お母さんは色んなスズカを見てみたいの。そして、どんなスズカも可愛いって改めて思い知るの」

 母の嬉しそうな声にスズカは思わず頬を赤くした。なんだか恥ずかしくなったスズカはそれ以上は何も言わずに部屋に戻って行った。

 十五歳で描いてもらった劇画風の肖像画はさすがにスズカ本人も可愛いとは思えなかったが、それでも母はいつも通りの言葉を呟いた。

 十六歳。スズカはまた母に訊ねる。少しだけ、肖像画を描いてもらうことが面倒に思えたからだ。高校も無事に希望の学校に合格して、中学の時よりも部活動や勉強で忙しくなったこともある。

「お母さん。今はAIだってイラストを描けるんだって。今年はそれで描いてもらうのはどう?」

 スマートフォンと睨めっこを続けるスズカは母の顔を見ずにそう提案する。

 けれど母は洗濯物を畳みながら首を横に振った。

「それじゃだめ。私は人の体温を浴びた絵じゃないと満足できないのだから」

「えぇ?」

 母が何を言っているのか分からなかったけれど、スズカはやはりスマートフォンから目を逸らさずに喉を鳴らす。

「実際に触ってみると、その絵を描いた人の癖や色づかいを感じられるでしょう。美術館に展示された実物の絵画と教科書に印刷された絵画とじゃ同じものでもまったく別物になるのよ」

 声しか聞いていなくても母が得意気に言っていることは分かる。

 スズカはやっぱり母は頑固なのだと思うだけで、ため息を吐きながら部屋に戻って行った。

 十七歳になると、そろそろスズカも進路を考えなくてはならなくなった。

 友だちとの話題も最近は将来のことばかり。友だちに連れられ、スズカも大学見学に行ったり、先輩の話を聞いたり、たくさんの情報に頭がぐるぐると回る日々が続いた。でもしばらくして、だんだんと自分の興味が分かってきた。

 けれど、学校の先生や祖父母と何度も相談しても、母にはなかなか言い出せなかった。

 十八歳を迎えた日、制服を着たスズカは決心して母に告げる。

「わたし、通訳者になるために大学で言語や文化を学びたい」

 スズカの真剣な眼差しを受けた絵描きが思わず背後の母を振り返る。母はスズカの目標にニコリと笑う。

「いいんじゃない?」

 母の爽やかな微笑みがスズカの胸のもやもやをすべて消し去ってくれた。

 生まれたときから母と娘二人。祖父母の経済支援もあって、そこまで苦を覚えたことはない。それでもやっぱり、言うのは少し気が引けた。でも母は、いつだってスズカの瞳を愛おしそうに見つめてくれるのだ。

 すでにスケッチブックの残りは数ページだけになっていた。


 大学に通い始めても、母の誕生日プレゼントに変わりはなかった。本格的にアルバイトを始めたスズカは母の他の望みも叶えられるようになっていたけれど、決して母がそれを望むことがなかったからだ。

 二十二歳を迎えたスズカは、ついに残り一ページとなったスケッチブックを抱えてショッピングモールの二階に向かった。色んな絵描きに肖像画を描いてもらった場所だ。今日彼女を迎えたのは、長髪が美しい若い女性の絵描きだった。

 彼女は最後の一ページに鮮やかな色彩でスズカを描く。水彩画で描いてもらうのはこれが初めてだった。

「どう? お母さん」

 自分の顔の横にスケッチブックの最後のページを掲げ、スズカは得意気に訊ねる。

「うん。ずーっと、スズカは可愛いね」

 母の満面の笑みにスズカは嬉しそうに歯を見せて笑った。

 満杯になったスケッチブックを母に渡し、スズカは自分の鞄から色紙を取り出す。

「すみません。今度はこっちにも描いてもらえませんか」

 スズカがそのまま色紙を絵描きに差し出すと、彼女は少し戸惑いながらも頷いた。

「ほらお母さん、こっちに来て」

 スズカは母を手招きで呼び、自分の隣に並ばせる。

「どうしたのスズカ。もう絵は描き終わったでしょう」

「お母さんの分はね」

「お母さんの分?」

「今度はわたしの分だよ。誕生日プレゼント、今年はまだ貰ってないでしょう」

 スズカは母を椅子に座らせ、その肩に身を寄せた。

「今年はね、お母さんと一緒の絵が欲しいんだ」

 母の肩をぎゅっと抱き、スズカは照れくさそうにはにかんだ。

 これまで自分の肖像画は歳の数だけあるけれど、母の絵は一枚もない。母も最初はスズカの依頼に戸惑いはした。でも、ほんの数分経てば──

「ふふ。描いてもらうのって、思ったよりも緊張するんだね」

 絵描きに見つめられることに慣れていない母は、恥ずかしそうにそう言って笑っていた。


 通訳者になりたいというスズカの夢は、少しずつその手の届くところまで来ていた。

 就職活動でチャンスを得たスズカは大きなスーツケースに荷物を詰め、しっかりと鍵をかける。部屋の壁に飾られた母と二人の似顔絵を眺めれば思わず笑みがこぼれた。薄い唇から吐き出した微かな息は、穏やかな表情にはあまり似合わない寂しい色をしている。

「スズカ、準備はできた?」

 母が開いた扉の向こうから呼びかける。どうやらタクシーが到着したみたいだ。

「もうほとんど。あとは例のアレを鞄に入れるだけ」

 スズカは肩にかけたボストンバッグを指差して意味ありげにウインクする。娘のおどけた表情に母は「はいはい」と肩をすくめた。

「ちゃんと用意したよ。これこそスマホで写真を撮っておけばいいのに。かさばるでしょう」

「かさばるって言ってもたった二十枚ちょっとだよ。いつでも見られるように写真も撮ったけど、データ失くしたらいやじゃん」

 母が手渡したファイルを抱き締めスズカは眉尻を下げてクスリと笑う。受け取ったファイルには何枚かの紙が挟まれていた。透明な仕切りからちらりと見え隠れするそれは、ふくふくとしたまあるいほっぺが印象的な愛らしい、幼児の似顔絵。

 スズカはファイルをボストンバッグに入れながらハリのある声で念を押す。

「いい? 実物はちゃーんと大事に保管しておくんだよ? 絶対大事にしてよ?」

 はきはきとしたスズカの必死な語調に母は半ば呆れながらも困り眉で笑う。僅かながらに淋しさを帯びた微笑みは数分前のスズカの表情とそっくりだ。

「分かってるって。お母さん、スズカよりも物持ちがいいんだから」

「そうだろうけどー…わたしがいなかったら、怠けちゃうかもしれないじゃん!」

「あらま、ずいぶんと自信があるように言うじゃない」

 スーツケースを押して部屋を出て行くスズカの後に続き、母はあらまぁと目を丸める。

「スズカこそ、あっちで浮かれて体調を崩したりしないでよね。無理したらロクなことがない」

「分かってますー。そもそも遊びに行くんじゃないんだもん。それくらいわたしも弁えてますって」

 スズカはイーっと歯を見せて笑いながら振り返る。スズカと目が合うと、母は鈴が転がるような声で笑い出した。

 就職先の方針で、配属後すぐに研修を受けることになったスズカはしばらくの間アメリカで生活することが決まっている。今日はその出発日だ。現地で同僚たちと仕事をしながら、自身のスキルアップを目指すこととなる。

 玄関まで見送りに出た母は、スズカのポニーテールが上着の中に入っていることに気づき彼女を呼び止める。

「はい、これで完璧ね」

 ぴょこんと飛び出たポニーテールを眺め、母は最後にスズカの背中をぽんっと叩く。

「気をつけるのよ。いつでも連絡してくれていいからね」

「うん」

 スズカを見つめる母の瞳は希望に満ちていた。寂しくないと言えば嘘になる。それでも娘が夢に向かって邁進するさまを見るのが嬉しくて堪らないのだろう。

 胸の奥にきらきらと光る母の期待が伝わり、スズカはちょっぴり気恥ずかしさを感じる。期待に応えられるかは分からない。それでも自分を応援してくれる人がいると確信できるのは、不安に立ち向かうには十分すぎる剣となった。

「お母さん」

 スズカは母に向き直って緩んだ涙腺を引き締める。

「スケッチブック、帰った時に見るのを楽しみにしてるね」

「あら、またその話? ふふ。珍しくえらく必死じゃない。コピーも持っていくし、スマホでいつでも見られるのに」

 母は先ほどファイルをしまったボストンバッグを指差す。けれどスズカは静かにポニーテールを揺らした。

「そうだけどさ。でもね、印刷と実物じゃ大きく違うもの」

 言葉を噛みしめるように声に乗せ、スズカはニーッと得意気な顔をする。

 冗談めいたスズカの言い分に聞き覚えのあった母は一瞬だけポカンとした表情をして、すぐに唇の端を緩やかに持ち上げた。

「──確かに、そうだったね」

 クローゼットに大事にしまいこんだスケッチブックを思い出し、母は肩をすくめてから娘を数秒見つめる。

「行ってらっしゃい、スズカ」

「うん。行ってきます、お母さん」

 別れを惜しみ、今後の挑戦を鼓舞するためにも互いを抱きしめるのは自然なことだった。耳元で囁き合った二人は、やけにドラマチックな空気に浸る自分たちが可笑しくなって思わず吹き出す。

 大きく手を振り、スズカは小柄な身体には似合わぬ荷物を抱えて玄関を出た。

 タクシーに乗り込めば、手を振る母の姿も見えなくなってしまった。

 走り出したタクシーの中でスズカはボストンバッグからファイルを取り出す。

 一枚、また一枚、めくるたびに記憶の中の笑い声が鮮明に蘇るようだった。母が望んだように、確かにそこには色んな世界のスズカがいた。自分でも驚くほど、当時の心情や息遣いまでもが瞳に浮かぶ。

 そこで気が付いたように、スズカはポケットに入れていたもう一枚の紙をこっそり広げてみる。

 四つ折りに畳んだコピー用紙には、一匙ほどの緊張を隠せない様子で微笑む母と、満面の笑みを浮かべた自分が鮮やかな色彩で描かれていた。その一枚をファイルの最後のページに挟み込み、スズカは二人の笑顔をそっと撫でてみる。

 どきどきと、鼓動は鳴り止まない。同時に、新たな一歩を踏み出した実感がじわじわと興奮を伴って侵食してくる。

 ファイルをボストンバッグに戻し、スズカは通り過ぎていく街に目を移した。

 これから幾度となく、この絵に助けられることになるはず。けれどきっと、あのスケッチブックにはどうしたって敵わないのだろう。

 数年前に聞いた母の頑固な主張が身に染みわたり、スズカはなんだか悔しくて頬を崩す。でもそれもまた悪い気はしなかった。もしかしたら、少しは自分も成長したということなのかもしれない。

 順調に空港に向かって進むタクシーの中で、スズカは母の温もりが残る背中をしゃんと伸ばす。

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誕生日のお決まりごと 冠つらら @akano321

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