第9話 ゼロ年代のセカイ系が描いていた「存在そのもの」に対する恥について。
X(旧Twitter)にて、以下のような投稿を見かけました。
――思春期とは人が初めて、自分の内容的規定ではなく自分の「存在」に気付く時期で、思春期のあの「恥」の感情はまさしく私の内容ではない私の「存在そのもの」に対する恥だろう。この恥を得た人でないと恋愛できないのは当然である。恋愛とは恥を持ち寄ることだから。
十代の僕は自分という存在が恥ずかしくて仕方がありませんでした。まさに「私の内容ではない私の「存在そのもの」に対する恥」を前にした状態です。
たまに十代に戻って人生をやり直したいなんて話が飲み会の席で盛り上がったりしますが、僕は一日たりとも戻りたいと思えません。黒歴史とは十代のことです。
さて、今回はそんな黒歴史化した十代の頃(ゼロ年代)に流行した「セカイ系」と思春期の関係について考えてみたいと思います。
最初に結論めいたことを書いてしまうと、このセカイ系は「存在そのもの」に対する「恥」に応答してくれる作品群だったように思います。僕は十代(と二十代前半)のうちにセカイ系を通して自分の「存在」を受け止める方法を得たような気がします。
よろしければ、最後までお付き合いくださいませ。
では、世間一般におけるセカイ系はどのようなものでしょうか。
的確な説明を行っているテキストがありましたので、引用させてください。
――いわば「物語の主人公(ぼく)と、かれが思いを寄せるヒロイン(きみ)の二者関係を中心とした小さな日常性(きみとぼく)の問題と、「世界の危機」「この世の終わり」といった抽象的で非日常的な大問題とが、いっさいの具体的(社会的)な説明描写(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」と定義されます。ごく簡単にいえば、「自意識過剰でひきこもりがちの郊外に住むヘタレな男子が、はるか遠くで戦う好きな女の子を思いながら、ウジウジ自分語りする物語」だと思っていただければいいでしょう。
こちらは批評家・映画史研究者の渡邉大輔の記事「『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く」からの引用です。
個人的に注目したいのが「抽象的で非日常的な大問題とが、いっさいの具体的(社会的)な説明描写(中間項)を挟むことなく素朴に直結している作品群」がセカイ系の説明文に入っている点です。
冒頭の思春期に関する文章の中に「自分の「存在」に気付く」と表現されていますが、この「存在」に気づく瞬間に具体的な説明はなされず、ほとんど事故みたいな形で恥を突きつけられてしまうところに一つ厄介さが潜んでいます。
そして、この厄介さがセカイ系と繋がります。
少々下世話な例で恐縮ですが、男の子にとって自分の性器がある日突然、固くなって上を向く戸惑いと恥ずかしさには言葉にできない強烈さを含む経験としてあります。性欲って理不尽なんですよね。
もちろん性欲が特別理不尽なわけではなく、生きることにまつわる多くが具体的な説明はなく、ほとんど事故みたいな形で自分の身に降り掛かってきます。
それも十代という多感な時期に。
セカイ系の根底には、この理不尽さがあります。
それが「世界の危機」「この世の終わり」として象徴的に描かれ、自身の身に起こる「恥」とも繋がります。
その結果、一見まったく関係のない「世界の危機」「この世の終わり」の理不尽さが、なんだか分かる気がしてくる。
錯覚と言われてしまえば、その通りかも知れないこの「分かる気がしてくる」感覚がセカイ系の曖昧さと、だからこそ人と感想を共有したくなる感覚とが綯い交ぜになるのではないでしょうか。
また、同時にセカイ系にはどうしても他人と共有できない感覚も共存しています。厄介ですね。感想を共有したい部分としたくない部分が混ざりあって、上手く言葉にできない。この感覚こそが思春期というあいまいな時期に起こることだ、と言えばその通りなのですが。今文章にしている僕からすると、厄介極まりありません。
一端、具体的な場所へ戻りたいと思います。
個人的にセカイ系と自らの「恥」が繋がるシーンを一つ紹介させてください。
「イリヤの空、UFOの夏」の4巻には以下のシーンがあります。
ヒロインのイリヤを連れて戦争から逃げて、誰もいない学校を根城にして生活していた時、主人公の浅羽くんはエロ本を拾って橋の下で自慰行為をします。
この際、以下のような独白があります。
――浅羽のすきにして。
なぜか伊里野の声で。
だめだ、
浅羽は想像を強引に軌道修正する。
こういう想像に伊里野を持ち出してはいけないのだ。
もうずっと前からそう決めているのだ。
青臭いシーンですが、セカイ系はこうだよなと思います。浅羽くんは自分の中に沸き起こる性欲を我慢することができず、その上で恥だと悪いものだと自覚をしています。だから、好きな女の子を「こういう想像」に巻き込みたくない。
セカイ系の基準として、この性に対する恥や罪悪感が必要なんだと僕は考えます。
ここで「伊里野の声で」いくのが良いんだ、みたいなことを浅羽くんが言い出したら、いや違うだろと僕はなります。この微妙なラインを読んでくださっている方にどれだけ伝わっているのか不安ですが、もうそう書く他ない内容ではあります。
ちなみに、例として「イリヤの空、UFOの夏」を出しましたが、「新世紀エヴァンゲリオン」の旧劇場版にも似たようなシーンが存在します。
性欲が悪というわけではないんですが、十代の少年にとって性欲は扱いきれないものとして描かれますし、そこに大切にしたい女の子が絡んでくれば、なお一層そうの混乱が巻き起こります。
冒頭の話に戻れば、その上で「恥を得た人」。「得る」ためには適切な距離をとって手にする必要があります。つまり、恥を切り離し、コントロールできた人が恋愛に「恥を持ち寄ること」ができます。これは必ずしも大人になったからできることではありませんが、時間をかけなければできないタイプの事柄です。
そういえば、押見修造の「惡の華」はそういう話です。
ご存じでしょうか?
あらすじは「ある日、憧れのクラスメイト・佐伯奈々子の体操着を衝動的に盗んだところをクラスの問題児・仲村佐和に目撃されてしまった彼は、秘密にする代わりに仲村からある“契約”を持ちかけられる」というもの。
扱いきれない性欲の象徴が「体操着」なのでしょう。そして、それらの問題を片付けた後にはまともな恋愛(のようなもの)ができるようになっており、これはつまり恥のコントロールが可能にしたものと捉えることが可能です。
さて。
ここまで書いてきたことはゼロ年代に流行したセカイ系の話です。では、現在のセカイ系はどうなっているのでしょうか? 先ほど、渡邉大輔の記事「『君の名は。』の大ヒットはなぜ“事件”なのか? セカイ系と美少女ゲームの文脈から読み解く」からの引用をしましたが、このタイトルがすべてを物語っているな、と僕は思います。
現在のセカイ系は「君の名は。」的なものに回収されています。
ただし、ゼロ年代に流行したものとは異なる部分があります。
それを渡邉大輔は以下のように書きます。
――本作は表面的にはセカイ系的でありながら、しかしどこかセカイ系とは違う。
それはおそらく、主人公の瀧がセカイ系的ヘタレ男子――『雲のむこう』の浩紀や『秒速5センチメートル』(07年)の貴樹などを思い浮かべてください――とは異なる、いかにも「ポストゼロ年代的」な主体的に行動し、運命を変えていこうとする「リア充的」なキャラクター像に変えられているからです。
リア充!
そして、更に以下のように続きます。「実際、こうしたモデルチェンジは、近年のオタク系コンテンツではしばしばありました。たとえば、『秒速』のセカイ系非モテ主人公・貴樹と『君の名は。』のリア充主人公・瀧の違いは、旧『エヴァ』の主人公・碇シンジと『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』(09年)のシンジのキャラチェンジにぴったり対応しているといえます。」
この記事は2016年に書かれたものですから、シン・エヴァ以前です。シン・エヴァまで行くとリア充も超えて大人となり一人の女性と肩を並べて生きていく。みたいな世界観へと変貌しています。
そこに複雑な悩みはもうありません。単純明快です。
大人になって「恥」の記憶も遠のけば、十代にあんなに切実に悩んでいたことなんて忘れられますし、何ならなかったことにさえできるかも知れません。リア充は悩まないと暗に書いてしまっているわけですが、実際はそんなことはありません。ただ、悩みの質はセカイ系のそれとは異なってしまうわけです。
それで良いのかと言えば、生きやすい方を選ぶのが生存戦略的には正しいとは思う次第です。
とはいえ、今まさに思春期に突入した少年たちには旧「エヴァ」のシンジくんも「イリヤの空」の浅羽くんもいないことには驚きます。一緒に理不尽を背負ってくれる存在はおらず、ただみんな当たり前にリア充で「主体的に行動し、運命を変えていこうと」しますし、実際に運命は変えてしまいます。
けど、それが出来ないんだよ、と苦悩する主人公がメジャーな領域に存在しません。
作品は時代の応答だと考えれば、今の多くの人が自らの自意識に悩んで苦悩する主人公は見たくないということなのでしょう。それは自然なことと言えば、その通りです。
ただ、思春期を乗り越えるためのプロセスまで変わったとは思えません。今の若い人たちは、あの理不尽としか言いようのない「恥」をどのように乗り越えているのでしょうか。
いつか、これかと言うものを見つけたら、それもエッセイのネタにできればと思います。
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さて、本日は12月25日。クリスマスってことで良いんですよね?
みなさまケーキは食べましたか? うちは妻の実家の近くにある小さなケーキ屋さんのケーキを本日食べる予定です。
そして、来週は31日。今年最後の日にも、ちゃんと更新する予定ですので、最後まで本エッセイをよろしくお願い致します。
カクヨムコンテスト10【短編】を通じて短編小説を楽しむ。 郷倉四季 @satokura05
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