水底小提琴

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水底小提琴

 〇.

 黒木くんが居なくなった。

 学校では親の都合で転校したとか借金で夜逃げしたとか言われてるけど、僕は知っている。

 それで博物館に行くことにした。

 海辺の博物館である。


 一.

『黒木くんはどうして美しい音楽――その、なんていうか』

『"たえなる音楽"のことか?』

『そうそれ。それを探してるの?』


 僕はいつものようにたずねた。黒木くんが失踪する前のことだ。そして黒木くんは相変わらずのように、


『宇宙を救うためだ』


 と訳のわからない答えをした。


『いつもそう言うけど僕には訳がわからないよ』

『君がわからなくても仕方がない。それは人知を超えたものだからね。宇宙の深奥におわす魔王が永遠の眠りから醒めないよう我々"従者たち"は"妙なる音楽"を絶えず奏で続けなければならないのだ』

『それがここにあると?』

『そうだ』


 僕は博物館の展示会場を見回した。地方の小さな博物館のためそれほどではないが特別展示でいつもより多くの来場者がいて会場の中心の大きなガラスケースを眺めている。


 黒いバイオリンがあった。


 ガラスケースの中にそれは縦にして飾られていた。なんでも一〇〇年以上前の海難事故の遺品が発見され東京で展示会がされたらしいのだが、同じ海つながりで僕の地元の博物館にも展示されることになったらしい。競売で途方もない値段が付き付属の楽器ケースすら僕らが一生働いても手にできないような高価格となったそうだ。それを地元出身の実業家がコネでここでの公開も取り付けたとのことだ。


『君には聞こえないか?』


 黒木くんがそう言うので僕はしばらく耳をそばだててみたが会場の人の足音や会話声くらいしか聞こえなかった。


『何も聞こえない』

『あの船は知ってるかい?』


 黒木くんが展示室の壁いっぱいの大きな絵を指す。それは巨大な豪華客船の絵だった。煙突が四本立っている。空はドス黒い雲に覆われ波しぶきが上がっている。甲板の上に異常なほど大量の人影があり、船の横腹の救命ボートらしきものに蟻のように大勢たかっている。雪が降ってるのか海のしぶきなのか白い粒が強風で流されて斜めに降り注いでるように見える。空は暗い灰色に覆われて船の向こうに白と鈍色の小高い山のようなものが見える。氷山か何かであろうか?


『タイタニック号?』


 有名な映画で見たことがあるのを思い出し、答えた。


『そうだ』

『八人の楽団だっけ? みんなが避難した時も弾き続けて最後は賛美歌を演奏したっていう。綺麗な曲だった。あれがそうってこと?』

『違うな』


 黒木くんはふんと鼻を鳴らす。


『あの曲は、君が見た最近のじゃなく、昔の白黒映画の時に鳴らされた曲が元になっている。あまりに美しい場面になってしまったため本当と信じてしまっている者もいるが実際に演奏されたのは別と言われている。そもそもあの賛美歌のあの編曲はあの事故よりも後にできたものなんだ』

『じゃあ、実際その時鳴らされた曲って何なのさ?』

『証言では当時流行ってた"ラグタイム"じゃないかと言われている』

『それってどんな? 曲名? ジャンル?』

『ジャンルだな。ジャズの前身になった明るく軽快な曲だ。たとえばこれ――』


 黒木くんは小さく口笛を吹いた。聞いたことある、なじみのある曲だった。


『聞いたことある。なんて曲だったかな』

『"ジ・エンターテイナー"って曲だ』

『なるほど。だけどそんな陽気な曲、およそ船が沈没しかかってるのに弾くような曲じゃないよね』

『"ラグタイム"にもいろいろあるからね。それでボクは実際その時どんな曲が演奏されてたのかが知りたいんだ。苦しみの中でこそ真に美しいものは生まれるからね』


 そうつぶやいて黒木くんは大きな船の絵を見上げた。その目は夢見るような感じでは全然なく、確かにそこに在るものを確かめようとする確信に満ちた表情をしていたと思う。


 二.

 夕刻、休憩室で僕は時間をつぶした。館内が消灯されるのを待ってこっそり展示室に侵入した。見回りの警備員は移動しながら隠れることで無事やり過ごすことができた。監視カメラに見つからないようなるべく隅の部屋の死角に回る。壁の影に隠れてゆっくり移動する。そうしてあの大きなタイタニックの絵画の下までたどり着いた。


 耳を澄ませる。

 部屋の中央のバイオリンに耳を傾ける。

 何の音もしない。


 外は月が明るいのか、黄と黒の縞模様に展示室は彩られていた。僕は見上げるようにしてタイタニックの大きな絵の方に目を転じた。どろりと暗い水面が見える。それは写実的で暗闇の中では本当に水しぶきが上がってるかのように見えた。


『……さん』


 何だろうか? ただの気の迷いかもしれない。漆黒の中では平衡感覚が失われる。どこが上で、下で、自分は何ものかといったことがすべて抜け落ちてしまう。自分は肉体をもっているのか。闇の中で意識だけが漂ってるのではないか。すべては夢ではないか。


『にいさん』


 よりはっきり声がして、僕は、ああ、いつもの幻聴と確信した。


 ――僕には弟がいた。小さい頃のことである。弟は僕になついていつも一緒にいたがった。それでうっとうしくなることもあったのだが、その日、近くの公園で弟は池で溺れて死んだ。深さはせいぜい膝下くらいまでしかなく、そんなのでどうしてと問われたのだが、その程度でも子供が溺れるのはよくあるのだそうだ。

 僕は、弟を見ておいてよと親に言われて弟の面倒を見ることになったのだが、林の中で虫を探すのに夢中になって目をはなした隙に弟の姿は見当たらなくなってしまった。それで公園じゅうをみんなで探して弟が沈んでるのを発見したのだった。弟は穏やかな表情で、池の底から誰かを迎えるかのように手を伸ばした状態で見つかった。

 そんなことがあってから、僕はなるべく水に近づかないようになった。近寄ると、


『にいさん』


 と声がして水の中から小さい子供のような丸い手を差しのばされるような気がして恐ろしかったのだ。


 ――そんなことがあったなら僕はその手をつかんでしまうだろう。

 ――引かれるまま水の中の深淵に沈み込んでいってしまうだろう。

 ――そうして弟と同じように二度と帰ってこないだろう。


 それで海岸のある町であるにもかかわらず一切海水浴などには行かなかったし、学校のプールの授業も休むか、どうしても出席しないといけない時には必ず誰か友だちがすぐ側にいて僕をつかんでもらえることを確認してから水に触れるようにした。


 それでもいちど家の池で溺れそうになったことがある。そこまで気を付けてなかった頃だ。

 僕は沈んで息は吸えてなかったが、意識ははっきりして水底からゆがんだ空が見えた。ぼうっと上を眺めながら弟にも同じ光景が見えていたのだろうかと思った。その時僕を助けてくれたのは祖父で、親やみんなが悲しそうに助かってよかったといったので、同じように悲しい思いをさせないために僕は水に近寄ることを辞めたのだ。


 それでずっと僕は水から離れていたのに、いま、海の側にいて波のざわめく音が聞こえた。それはただの紙の上に描かれただけの絵に過ぎないはずなのに。冷たい空気が吹きすさんでいて、船の上から大勢の人の喧騒が聞こえてくるような気がした。


『にいさん』


 またもその声がした。

 子供のような白い光る丸い手が僕の方に差しのばされてきた。

 その手は絵の海の中から現れた。

 それで僕はその手を取った。

 差しのばされてきた以上その手を取らないという選択肢は僕にはない。

 そして手に引かれるまま立ち上がって一歩踏み出した。

 くるんと風景が一転して僕は意識を失った。

 ぽちゃん、と水がはぜる音が聞こえた。


 三.

 気づくと僕はゴツゴツした板張りの床の上に倒れていた。板全体がゆっくり大きくゆれていて、僕は船の甲板の上にいるのだろうと感じた。ドタドタと板の上を駆け回る足音がそこら中からしてくる。


「君か」


 聞き慣れた声がして見上げると燕尾服を着た黒木くんが僕を見下ろしていた。とても嫌そうなしかめっ面をしている。


「どうしてこんなところまで来てしまったんだ」

「おとうとの声がして」


 僕が答えると黒木くんは大きくため息をついた。


「黒木君は"たえなる音楽"を探してるんだよね」

「そうだ――仕方ないな。それが見つかるまでは手伝ってもらおう。そのあとは君を元の場所に戻してやる」

「黒木くんはどうするの?」

「ボクが君の学校に転校してきたのはそもそもこの時のためだったのだ。自分のことは自分で何とかする」

「助けるよ」

「気持ちだけもらっておく」


 そう言って黒木くんは人がぎゅう詰めのデッキの上を縫って船が進む先の方へと歩き始めた。


「前の方から沈んだんじゃなかったっけ?」

「先頭の方に楽団が演奏できる広い会場があったからね」


 僕らは船首に向かっていったがそれらしい音は聞こえてこなかった。

 しかししばらく歩いたのち、その音は聞こえてきた。弦の音だった。確かに"ラグタイム"風の明るい調子の曲だった。どんな曲か確かめようとしたその時、


 ゴキン


 ものすごい音がして、足下の床が消失した。僕は暴力的なすごい力で虚空に投げ出された。くるくると風景が回る。その視界の端であの大きな船が真っ二つに折れ曲がっているのが見えた。黒木くんの僕を呼ぶ叫びが聞こえる。そしてしばらくの飛翔のあと、斜め上から覆い被さってきた海面にたたきつけられ意識を失った。


『にいさん』


 いや失わなかった。


 僕はその手を掴んだ。

 いや、掴んだと思った。

 現実なのか、幻想なのか。

 どちらでもよかった。


 身体はまったく動かず氷のように冷たい水の中に僕は沈んでいった。その僕の身体が沈んでいく様子を僕自身が遠目に眺めていた。水の上から船の明かりと外の音がゆがんで見える。"ラグタイム"の音色は水でひしゃげてぶつ切れに聞こえた。その残された散り散りの音が、一音一音ゆっくり耳に染み渡ってくる。その細切れにされた飛び飛びの音色が、厳かな賛美歌のように聞こえたのだ。


 いあ あざとーす!

 いあ あざとーす!


 これが"たえなる音楽"か。

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