第4話
茂みに伏せて、周囲の音に耳を澄ませる。なんの音もしない。都会の夜に鳴いているようなバグった蝉もいないし、あの忌まわしい足音も、誰かの声もしない。
無音。
その中で、私はスマホを取り出した。亜矢先輩と話した道祖神について、香澄にも伝えないと。ひとりで探すより、二人で探した方が早い。
画面を見ると、LINEのメッセージが数件届いていた。香澄からだ。
『琴子、どこ?』
『今、小さい商店みたいなところにいるよ。琴子はどこ?』
『琴子、無事? 返事欲しいです』
『琴子、どこにいるの?』
『琴子、会いたい。寂しい。琴子、おいでよねえ琴子おいでよおいでおいでおいでおいでおいで』
ぞっとして、バックキーをタップする。香澄になにか起きている。
そう思ったとき。
「琴子」
頭上から声がした。顔を上げたそこにいたのは、香澄だ。
ただし、頭がぱっくり割れている。血まみれの顔に、にたりとした笑いが張りついていた。
「琴子、みいづげだ」
私に覆いかぶさろうとでもするかのように倒れ込んできた香澄から、慌てて距離を取る。
「ごどごぉ、ざみじい、おいで、ごどごぉ」
「い、ひっ……!」
香澄の変わり果てた姿に足がすくんで立ち上がれない。後ずさりをしようとした私の腕を、なにかが掴む。悲鳴が喉の奥から溢れそうになったそのとき聞こえたのは、
「若林!」
花菱先生の声だった。力強い手に引き上げられて立ち、そのまま引っ張られて走り出す。花菱先生は今年でちょうど五十歳だけど、フィールドワークを大事にしているだけあって身のこなしが軽やかだった。
満月が照らす廃村の中を、先生と駆ける。すぐに砂利で足の裏が痛くなったけれど、それよりも恐怖が勝った。
息が切れるまで走り、村役場の看板が傾きながらもついている建物に逃げ込む。受付の中に入って身を小さくしながら、私と花菱先生は同時に息を吐いた。でもすぐに息を潜めて、周囲を探る。
よかった、無音だ。
「若林、他に生存者に会ったか?」
「亜矢先輩に、会いました。でも、もう。光ちゃんも、だめで」
「そうか」
息を整えながら答える私の背を、花菱先生がさすってくれた。
「先生、なにが起こってるんですか」
「……都市伝説に囚われてしまったんだ。きみもあの軍服の男を見ただろう? あれこそが、都市伝説の核。村人を皆殺しにしたという伝聞のとおり、僕たちを村人に見立てて殺そうとしているんだ」
「香澄は、なんであんなことに?」
「おそらくだが、精神を浸食されてしまったんだな。都市伝説を体験して発狂する人間と同じだ。精神を浸食され、死んでもなお動き、他の者を同じ目に遭わせようとする。よくあるパターンだ」
たしかに言われてみれば、生きていると思った者がとっくに死んでいたというのは怪談でよくある話だ。
「花菱先生、亜矢先輩と道祖神について話していたんです」
「来るときに見た、あのやたら綺麗な道祖神か?」
「はい」
亜矢先輩と立てた仮説を、花菱先生に披露する。花菱先生は呆れることなく、最後まで聞いてくれた。
「なるほどな。いい推理だ」
「それじゃあ、道祖神探しをしますか?」
「それと同時に、試すべきことがある。神社の鳥居だ」
花菱先生の言葉に、私は首を傾げた。廃村に来るとき、神社なんて通らなかった気がする。しかし花菱先生は、思い違いをしているのではなかった。
「若林、以前『鳥居はあの世とこの世の境目だ』という話をした覚えているか?」
「……あっ」
「そうだ。境界線の鳥居をくぐれば、この空間から抜けられるかもしれない。神社は見つけてある。行こう」
「はいっ」
闇雲に道祖神を探すよりも、まずはそれを試す方がよさそうだ。私は花菱先生と共に、先生が見つけたという神社を目指した。
ありがたいことに、神社は村役場からそう遠くはなかった。鬱蒼と緑が茂る小山の肌に、細い石段が続いている。
二人並べばもういっぱいという石段を登ろうとしたとき、あの忌まわしい発砲音が響いた。けれど銃弾は私たちには当たらず、古い石段を穿つ。
このまま走ってしまえば、逃げられるかもしれない。
そう思い、花菱先生に声をかけようとしたとき。
「ごどご、みいづげだ」
「ひゃあああっ」
背後から抱きつかれた。体重をかけて抱きついてくる香澄が重い。
そんな香澄を引き剝がしてくれたのは、他でもない花菱先生だった。
「ぜんぜえ、みいづげだ」
「行け、若林!」
香澄にしがみつかれてもがく花菱先生を見捨てるなんて。
けれど、私たちに迫っている危険は香澄だけではない。この空間を支配している怪異も迫っている。
「いいから行け! 必ず後から行く!」
「せんせっ……」
花菱先生から香澄を引き剝がそうとした私と、もがく花菱先生。その間を切り裂くように撃ち込まれる銃弾。
「行け!」
花菱先生が叫んだ直後、発砲音が響く。花菱先生の肩口から血の華が咲いて、満月の下に散る。
「若林!」
名前を呼ばれて、私の体は弾かれたように動いた。
今は花菱先生の言葉を信じるしかない。
鳥居が世界の境界線だという話も。
必ず後から行くという薄っぺらい約束も。
ざりざりとした石段を裸足で上りながら、涙が溢れてきた。
鳥居が見えてくる。
最後の二段。私は跳躍した。鳥居の向こうに倒れ込む。
途端、ざあ、と風が木々の間を渡る音がした。まるでさざ波のようなその音に、顔を上げる。
そこは神社でもなんでもない、明け方の道端だった。昇り始めた夏の陽が、やけに綺麗な道祖神を照らしている。
すっかり日が昇ってしまうまで、私はその場にただ座っていた。
そんな私のもとにやってくる者は、誰もいない。
おそるおそる踏み入った村は、私たちが最初に来たときと同じようにただの廃村だった。テントも何事もなかったかのように張られている。
けれど、無人だ。
自分の荷物だけを持ち、廃村を後にする。
町へ着いて真っ先に交番へ行き、信じてもらえないのは百も承知であったことを全て話した。廃村にあるテントのおかげで私がひとり旅ではないと信じてもらえ、山の捜索も行われたけれど、死体のひとつも見つからない。
夏休みが明けてから、花菱ゼミはなくなった。花菱先生がいないから当たり前だ。
けれど、ひとりぼっちになった今でも夢に見るのだ。
私を呼ぶ、皆の夢を。
そしてそのたびに、私の背中の傷は熱を帯びて疼く。
深更 Akira Clementi @daybreak0224
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