第3話

「琴子ちゃん」


 ひそひそとした声に呼ばれて、足を止める。素早く周囲を見回せば、たばこ屋のそばに建つ円柱型のポストの後ろ、伸び放題の植え込みの陰から亜矢先輩がちょいちょいと手招きをしていた。いつもはひとつに結んでいる長い黒髪も、さすがに逃げる間に結ぶ暇なんてない。色白の亜矢先輩とすとんと下ろされた黒髪の対比がお約束の幽霊に見えて、私は一瞬叫びそうになった。

 怪異に見つかる前に、亜矢先輩が隠れている場所に駆け込む。


「怪我してない?」

「背中ちょっと斬られたけど、大丈夫です。掠っただけだと思います、たぶん」

「見せて」


 そう言われて、亜矢先輩に背中を向ける。暫く黙っていた亜矢先輩だったけれど、


「うん、血も止まってるみたい。服破けちゃってるから、これ着て」


 私に亜矢先輩が羽織っていたパーカーを着せてくれた。


「亜矢先輩、あれなんだと思いますか?」


 自分の中で答えらしいものはあったけれど、口にするのはあまりにも非現実的で、もっとまともな意見を求めて亜矢先輩に質問する。


「たぶんだけど……」


 亜矢先輩は少し口ごもってから、言葉を続けた。


「村人たちを殺害した犯人の、残留思念みたいなものじゃないかな」


 亜矢先輩の出した答えは、幽霊と推測した私と似ていた。


 私たちが夏合宿で訪れたこの廃村に伝わる都市伝説は、『大量殺人』だ。病気を理由に差別された犯人が村人を皆殺しにして、廃村となった。そんな話がささやかれている場所である。たしかに実際に殺人事件はあったけれど、皆殺しなんて大規模なものではない。だいたい、ひとりで村人を皆殺しにするなんて無理な話だ。廃村になった理由だって、立地的に不便なこの村からふもとの町に移住する人が多かっただけだ。


 だから都市伝説で語られているような犯人なんているわけがないし、そのお化けが出るはずもない。

 そう思っていたのに、実際私たちは怪異としかいいようのないものに襲われている。


「でもお化けみたいなものってことは、朝になったらきっと大丈夫ですよね」

「朝は来ないよ」


 亜矢先輩は私の希望をあっさり打ち砕いた。


「見て」


 ほっそりとした指に誘われて、空を見上げる。


「私たちが寝ようとした頃に見た空から、雲も月も一切動いていない。憶測でしかないけれど、あいつがあたしたちの前に現れたんじゃなくて、あいつの世界にあたしたちが囚われてしまっているんだと思う」


「そんな。それじゃあ、朝は来ない……?」

「……そうだね」


 亜矢先輩はこんなときに冗談を言うような人ではない。動かない夜空しか証拠と呼べるものはなかったけれど、それでも亜矢先輩の言葉は私に目眩を感じさせる程度にはショックだった。


「村から出たらいいんじゃないかって思ったんだけど……あたしたちが通ってきたはずの入り口が、どこにもないんだよね」

「夜だから景色が変わって見えて、気づかなかったとか」


 亜矢先輩が首を横に振る。


「このたばこ屋とポストを右手に道を十分くらい進むと、あたしたちが行きに通ってきた道祖神の前に出るはずなの。でもね、それがないんだ。いきなり道が終わって、森になってる」


 その道祖神は私も覚えがあった。かなり立派で、廃村のそばにあるにしては新しいものに見えたのだ。

 もしかしてその道祖神が、この閉ざされた空間を作り出しているんだろうか。

 村に災いが入らぬようにしている道祖神が、通常の意味とは真逆に、村から災いが出ないようにしている。

 奇妙な考えではある。でも、ありえない話ではない。だってそれくらいあの道祖神は綺麗だった。人の手が入っている証だ。


「亜矢先輩、道祖神探しましょう。たぶんなにかの鍵です」

「さすが琴子ちゃん。話が早いね」


 そうとなれば、ここで隠れていても仕方ない。立ち上がろうとしたときだった。


 ぱあん、と爆竹が爆ぜるような音がした。


 亜矢先輩の頭からぴゅっと血が噴き出す。


 続けて、同じ破裂音。

 亜矢先輩の頭からもうひとつ血が噴き出し、その体が傾ぎ、どさりと地面に倒れ込んでびくびく痙攣する。


 じゃき、と金属音。


 音の聞こえた方を見れば、あの怪異が遠方で銃を構えていた。銃口がわずかに動き、亜矢先輩から私の方へと移動する。


「ひっ……!」


 本当に恐ろしい思いをしたときは、「きゃあ」なんて定番の可愛い悲鳴は出ない。恐怖と緊張で震える体に鞭打って、私は走り出した。


 後ろから追いかけてくるように響く銃声。


 物陰に隠れなければと、小径に飛び込む。

 そこで見たのは、斬り殺された光ちゃんだった。糸の切れた操り人形みたいにくしゃりと倒れた光ちゃんは、真正面から斬り殺されたらしい。血だまりの中で、顔から体にかけてぱっくりと開いた傷口をさらしている。


 戻ろうとした私の耳に、じゃり、じゃり、とあの足音が飛び込んできた。戻れない。でも光ちゃんを避けて通れるほど広くもない。


 暫しの逡巡の後、私は血だまりに歩を進めた。そのまま小径を走り抜けて、廃屋に飛び込む。床が腐って抜けている廃屋の中、ぐちゃぐちゃに荒れた居間、そこにある戸棚の後ろにしゃがんで隠れた。


 じゃり、じゃり、と足音が近づいてくる。

 足音は迷うことなく、廃屋に入ってきた。ぎい、と框が軋む。

 腐った床を避けて歩く音が、ざ、ざ、ざと近づく。


 まるで私の居場所を知っているかのようだ。


 なんで、どうして。


 考えながら足下を見ていて、気づいた。

 足跡だ。血だまりを通ってきたから、足跡がついてしまってるんだ。


 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう。


 考えなければ死んでしまうのに、考えがまとまるどころか、考えるべき一切が頭に浮かばない。


 ざ、ざ、ざ。


 その間にも近づく足音。

 思い切って私は戸棚の陰から飛び出した。いくら相手が怪異といったって、急に飛び出したものに反応はできないはずだ。


 部屋を一直線に抜け、狭い廊下に出て、家の奥を目指す。

 怪異は走らないはずだ。だって今まで走って追いかけてはこなかった。


 そのまま知らない家の中を走り回り、台所の裏口らしき場所を見つける。鍵は馬鹿になって開かないみたいだけど、すっかり古くなって朽ち始めている木製の扉は穴が開いて外が見えていた。木材の端で頬を切り、引っかかったパーカーに裂け目を作って、それでもなんとか外に出る。背の高い雑草がぼうぼう生えているそこにスニーカーを脱ぎ捨てると、私は走り去った。

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