第34話 ちょっとだけさようなら
春の空はなんだか物悲しい水色だ。
桜が散って、八重桜の花が、一段と華やかに咲いた。
わたしたちはみんなに手伝ってもらって、思い出の池に辿り着いた。
遼の車椅子を押すのは亨くんだ。亨くんは相変わらずまめまめしく、なにも言わずにわたしの元に通ってきてくれている。その気持ちがうれしくもあり、悲しくもあった。
池に張り出した桜の枝はすっかり元気な葉をつけて、立派な枝になっていた。
遼がどんな気持ちでそれを見ていたのか、知らない。あの日、ここで会った時のように目がキラキラしていた。どこからそのエネルギーが生まれるんだろうと思っていたけれど、単純なことだ。『生きることへの喜び』が彼を輝かせていたんだと今更思う。
わたしにはそれがなかった。
生きることは死に繋がる線路でしかなかった。
だからきっと、彼に惹かれたんだと思う。いつも煌めきを放つ彼に――。
彼のそばにいると、その光を反射して自分まで輝ける気がした。
そして今、その時を迎えようとしている。
彼なしでも輝ける自分に――。
「転院したらまた白いベッドに逆戻りかぁ」
くすくす、とわたしは笑った。実に遼らしい感想だ。
「リクライニングするベッドだろう? 離乳食みたいな食事。大体、腹が空く。消毒くさいリネン。早すぎる消灯時間」
「慣れるよ、すぐに」
「遼、めぐは病院生活長かったから」
わたしは中学も院内の学校に通った。クラスメイトはいたけれど、修学旅行はなしだ。いつどうなるかわからないのに、勉強なんてする気分にはまったくなれなかった。
だから、勉強は亨くんに教わってばかりで、その時ばかりは亨くんもいつもより厳しくなる。
「同じ病院に転院できるなんて奇跡だ!」
それを聞いた時に遼はとても喜んだ。わたしだってうれしかった。
センターを経営している病院だから簡単なことだったかというと、そうでもなかった。
まず空きベッドがないといけない。
特に遼の家は個室希望だったので、条件が厳しかった。
わたしはもう余命がつく程、状況が悪化していたので、受け入れに問題があった。尊厳死が云々と言う前に、緩和ケアが妥当ではないかという意見もあった。
覚悟はしていたけど、そう正面切って言われると心が震えた。
その中で新薬を使って臨床実験をしているという先生がたまたまわたしに興味を持ってくれて、わたしの担当医になってくれることになった。
病院としては患者の死亡率が上がるのは不名誉なことなので、受け入れは難しいかと思われたけどすごくラッキーだった。
その先生は
わたしは先生の手を取り、この命に繋がる手を決して離さないと決めた。
「東堂先生はイケメン独身だからな」と遼が嫌味を言う。「そっちこそ、綺麗な看護師さんにフラフラしちゃうんじゃないの?」と言い返す。
「⋯⋯悪かったよ」と言って「お互い様」となる。
日に日に転院の日が近づいてくる。
ママはわたしが新しい病院に慣れるまで、こっちにいてくれることになった。お見舞い客専用の個室を借りて、そこに寝泊まりすることになる。
わたしは――。
わたしは少しずつ荷物の整理をして、こことお別れする準備をする。
あと3年はここにいて、そして旅立っていく予定だった。
終の住処になるはずだったこの場所を離れて、知らない冷たい病棟へ行く。それはすごく勇気のいることだ。
先生の話によると、新薬治療は成功するかどうかまったく見通しがついてないという。でも、やらないよりやってみた方がマシだという考え方もあると。
ひょっとすると、悪化することもあるらしい。
つまり、わたしは転院したら余命が短くなる可能性がかなり高いということになる。
これが事実だ。
亨くんはその話を聞いて「それでも行くの?」と訊いてくれた。わたしはにっこり微笑んで「もちろん」と答えた。
可能性があるのなら、例え数パーセントでも試してみたいと思えるのは、その勇気が湧くのは、遼がいつだっていてくれるから。隣じゃなくても⋯⋯。
ふたりの居場所が隣じゃなくても、きっと生きている限り、遼の存在を近くに感じることができる。
例えばわたしが面会謝絶になっていても、心は離れない。
だから、命を懸けて、治療に挑もうと思う。それが平坦な道じゃなくても。
――多分、わたしの方が先に逝くことになるんだろうなぁ。
その時は彼にショックを与えずに逝けたらなぁと思う。そのショックで倒れられたんじゃ意味がない。
遼だけでも、少しでも長く、そしてわたしではない誰かとしあわせになってほしい。わたしの分まで。
わたしの分まで命の花を咲かせてほしい。
このことは遼にはとても言えない。
遼はわたしが前向きで、治る方向に進む治療を受けると信じている。
わたしに少しずつ会えない日が増えていっても、彼はちゃんとやっていけるかなぁ? ヤケを起こさずに治療を受けてくれるかなぁ?
お願いだから、1日でも長く生きてください。神様、わたしの分もどうか命を遼に与えてあげてください。
わたしはここを出たら、すぐに死んでしまっても構わないから――。
◇
「ここでは最後の読書会だ」
「そうだね」
「どうかした?」
わたしは開いた本で顔を隠した。
いつかこの世を去る日が近々やって来ると知ってここに来たのに、進歩的な治療を受けてもっと早く逝くかもしれないことが怖かった。
その時はきっと、遼の顔もわからなくなって、救命措置を受ける。たくさんの機械に囲まれたわたしを遼は見ることになるだろう。手を握って、呼びかけてくれるかもしれない。
「ごめんね、困らせることして」
「いいんだよ、めぐの気持ちはわかってる。今より会うことはずっと少なくなるだろうから、俺だって寂しいし、独りは怖いよ」
「怖いの。わたしも」
「当たり前だ」
スマホから流れるビートルズが陽気な歌を流す。
『All my loving』だ。
離れている恋人たちが、思いの丈を手紙でやり取りする、そんな歌。
「手紙の交換をする?」
遼が言った。
「メッセージだと味気ないからさ。看護士さんたちに嫌がられるかな?」
「わたし、書ける限りかくから、返事を絶対にちょうだいね」
「言い出しっぺは俺だからね」
いつまでペンが持てるかわからない。
それでも、わたしの愛の全部を、愛おしい彼に届けよう。
ビートルズの曲が変わる。『Yesterday』。わたしも恋していた昨日をずっと信じ続ける。
わたしがもし先に逝ったとしても、遼には昨日を信じ続けてほしい。わたしがあなたを愛していたということを。決してあなたを捨てていくわけじゃないということを。
頁をめくる音。
静かに流れるビートルズ。
テーブルにはトマトとパプリカのマグカップ。
いつも通り、そういつも通り。
この日がまた来ることを祈って、明日、わたしたちはほんの少し距離を置く。
ちょっとだけ「さようなら」。また会えるその時まで――。
(了)
天国への荷物 月波結 @musubi-me
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます