第33話 桜散る

 遼の意識が戻ったのは2日後だった。

 第一声は「おはよう」だったと言う。暢気な人。わたしをこんなに悩ませておいて⋯⋯。


 遼がベッドに入ってる間、桜の花はどんどん開いて、そして散っていった。わたしはその風景を亨くんと一緒に眺めた。

 ハラハラと池の水面に散っては浮かぶ花弁は、命の儚さを感じさせる。

 でも桜自体はこれからが本番で、花を咲かせたのは眠りから目覚めただけなんだ――。ほら、若々しい黄緑色の若葉が芽吹いている。

 若葉はどんどん伸びて、立派な濃緑色の葉に育つ。わたしたちを太陽の陽射しから守れるくらいに。


「やぁ。⋯⋯なんだかちょっと照れくさいね」

「わたしのことなんか、忘れてたでしょう?」

「いや。ただ、一緒に桜、見る約束守れなかったなって」


 事の発端を思い出す。

 情熱的だった彼は、病人らしく弱々しく見えた。

「転院することに決めたよ」

「え!? まだなんの相談もしてないのに!」

 そんなの酷い、とは続けなかった。

「ちょっとした事でさ、死にかかってばかりいたんじゃめぐの気も休まらないでしょう? それに亨からめぐを返してもらわないと」

「返してもらうって⋯⋯」

「看護士さんたちは意地悪で毎日言うんだよ。今日は高台の桜を見に行くって言ってたとか、池のほとりで桜を見てるふたりを見たとか。なんだよ、俺は用無しかよって」

 病人相手に笑ってしまう。そんなことでむくれてた彼が愛おしい。


「だから、しばらくお別れだね」

「遼⋯⋯」

 わたしは彼の心臓に耳を当てた。規則正しい鼓動が、強く聴こえてくる。これが彼の命の源だ。

 わたしに彼を与えてくれるのは、この心臓。

 心臓の治療をして成功すれば――わたしたちはもっと一緒にその先いられるかもしれない。

「さみしい?」

「さみしい。ひとりで見る桜がどれくらい辛かったか⋯⋯」

「亨がいたでしょう?」

「亨くんは遼じゃないよ」

 彼は重そうに片腕を持ち上げると、わたしの頭をポンポンと軽く叩いた。

「もし俺にもしもの事があったら、亨のところに行きなよ。迷うな」

「迷わないよ、わたしも転院が決まったもの。遼と生きられる道を、ダメだと思うけどもう一回頑張って模索してみる」

「⋯⋯泣いてるよ」

「泣くでしょう? わたしたちこの数ヶ月の間、ふたりでひとりみたいにずっと一緒だったのに」

 涙は桜の花弁のようにはらはら散っては布団の上に落ちた。布団にできた涙のシミはさながら池のようで、神様は意地悪だなぁと思う。見たかったのはこれじゃなかったのに。


「ねぇ、ここまで言っておいてなんなんだけど、吉報があるの」

「なに?」

 わたしは息を整えた。勇気がいる。

「わたしたち、ここを経営してる病院に一緒に転院できるみたいよ。診療科も、腕のいい先生もいるって」

「本当に?」


「遼⋯⋯ごめんね、なかなか来られなくて」

「母さん?」

 ふたりだけで話したいことがあるんじゃないかと思って、部屋からそっと出た。

 本当は遼のお母さんはもっと早くこっちに着いていた。ただ、遼に合わせる顔がないとそう言った。

 わたしたちは――わたしとママと遼のお母さんはケースワーカーさんと何度も面談した。

 ここを出てどうなるのか、それが問題だったから。

 遼の意思を看護士さんから伝え聞いていたお母さんはいろいろ複雑な手続きの方法を学んで、わたしたちにもわかるように説明してくれた。

 つまり、とてもありがたかった。


 遼のお兄さんの結婚式は丁度、1ヶ月後だったけど、延期されることが決定していた。

 遼の家はかなりの資産家で、お兄さんは結婚を条件に次期社長としてお父さんの右腕になることを約束されていた。

 だからみんな焦っていた。遼のことは後回しになるくらい⋯⋯。


「兄貴と梨花さんに悪いよ」

「ふたりとも遼の心配をすごくしてる」

「俺、治療が上手くいったら、少しは兄貴を手伝えるかなぁ」


 ◇


「というわけだ。残念ながらポンコツな弟の嫁になっても、次期社長夫人になれない。残念だったな」

 もう、とわたしは呆れる。

 ――センター内で一緒に暮らそうって言ったのは何時だったっけ? あの時は喜びしかなかったけど、治療が始まったら現実がやって来る。二度と一緒に暮らす夢は叶わないだろう。

「あ、シワ寄ってる。ここ」

 眉間に指が触れる。ツンツンとつつかれる。こんな小さなことまでもう、滅多になくなってしまうんだ。

「そんなに泣くなよ」

「遼は倒れてた間、わたしがどんな想いだったのか知らないから」

「知ってる。知ってるよ」

「嘘つき⋯⋯」

 やさしいキスをする。わたしの心拍数が上がる。彼の心拍数もきっと上がってる。いいことじゃない。でも、わたしたちには言葉以外でのコミュニケーションは難しいから。


「もしもさぁ、ふたりとも病気が良くなって、結婚して、ハネムーンなんかも行っちゃって、⋯⋯子供ができたりして。青空の下で芝生の上にレジャーシートを敷いてさ、お弁当はサンドイッチとおにぎりが両方あるだろう? 子供たちが取り合わないように」

「うん」

「喧嘩になったら仲裁する。パパとママは仲良しなんだから、お前たちも仲良くしろよって、父親っぽい?」

「うん」

「うちは両親との思い出は殆どないから憧れるんだよね。そういうつまらないことに。

 めぐはさ、そのつまらないことに付き合ってくれる?」


 下から覗き込むアングルは狡い。

 遼の瞳にブラインド越しの太陽が映っている。

「わたしでいいなら」

「うん、勿論。最初からそのつもりだった」


 わたしたちが生きてその日を迎える可能性は限りなく小さい。それでもふたり、その可能性に挑む。

 勇気をくれたのは、あなただから――。

「長生きしよう。64歳になっても仲良くしていられるよう」

「うん」

 それはさすがに無理だろうけど、余命を伸ばすくらいの努力はしたい。

 あきらめない。

 64歳になれなくても、遼をあきらめない。

 わたしたちがふたりでいられたかけがえのない時間を、大切に胸に刻んで。

「転院しても会える?」

「どっちかが面会謝絶じゃなければ」

「あちゃー、俺かな?」

「それはダメ。聞いてると思うけど、次は命取りだからね! お願いだからもう倒れないで⋯⋯」

「嘘だよ。大人しくしてめぐに会いにいく。看護士さんに嫌な顔をされても」

 ふふっとわたしは笑った。


 わたしたちの心の中に今年の桜はまだ咲いている。

 今が見頃のその心の中の桜も、いつか結実する日が来るんだろう。

 そう、いつか――。






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