第32話  生きたい

 トントントン、ノックが聞こえる。鍵を開ける。そこには亨くんがいた。


「亨くん⋯⋯どうして?」

「出禁にはならなかったみたいだよ。今、ここに来られて良かったよ」

 彼は強引ではなく、いつも通りにふわっと、わたしの頭に手を乗せた。

「遼、持ち直したって」

「ほんとに!?」

「あ、今行っても会えないよ」

「⋯⋯そうだよね、しばらくまた会えない」

 病院に入ってしまうっていうのはそういうことなんだ。治療によって簡単に会えなくなってしまう。

 それでもこの時間を乗り越えれば、また会うことができる。

 さっきまでの「もう会えなくなる」という仮定の割合が減る。

 また会える――それは奇跡だ。


「わたし、わかったの。ちょっとでも可能性がある限り、生きててほしいってこと」

「⋯⋯」

「わたしも遼に延命措置してほしい。また彼の心臓が止まった時、なにも試さないでさようならなんてできない」

「じゃあめぐはここを出る?」

「それは⋯⋯」

 ここは延命措置を拒む人のためのセンターで、延命措置を望むなら居続けることはできないだろう。

 遼との思い出が詰まったここを出るのは、人生の何分の一かの良いところをもぎ取られるような気がして辛かった。


 沈黙が深くなる。

 亨くんはお茶をいれ始めた。

 ケトルからシュンシュンと蒸気が上がる。

「⋯⋯パパとママに相談してみる」

「そうだね、それがいいと思うよ」

 遼がすきだと言ったオリエンタルな香りが、ふわっと広がる。そんなことにも涙が出そうになる。

「わたし、いつまで生きられるかなぁ?」

 一番の疑問が口をついて出た。

 正面に座った亨くんが、カップを置いた。

「やってみないとわからないよ」

「辛いんだよ」

「知ってる」

「でも、頑張る」


 ◇


 翌日は弱い雨が降って、桜が散らないか心配になる。有馬さんが「今日は冷たい雨ですね。こうやって寒い日が続くと、桜が長く咲くそうですよ」と教えてくれる。逆に晴れが続くと、あっという間に散ってしまう。

 桜の季節は短い。

 集中治療室に入ってる遼にはまだ会えない。一緒に見に行くはずだった池に張り出した桜の枝も見に行けない。わたしは鬱々としていた。


「恵夢ちゃん、面会」

「はい?」

「恵夢!」

「ママ!? どうして?」

 ママは抱えてた花束をテーブルに置いて、イスに座った。

「めぐと桜見物でもしようかと思って」

「⋯⋯わたし、でも、外出は」

「そうよね。ここを離れてる間に彼にもしもの事があったらと思うと離れられないよね」

「ママ?」

「遼くんのこと、聞いたから来たの。未来のお婿さん候補だもの」

「ママ⋯⋯」

「今はなにも難しいことは考えないで、遼くんのことだけ考えましょう」

 センターから出ないということで、わたしたちは食堂へ行ってお茶をした。

 ここで食べるケーキは、いつか3人で食べたケーキとは違ってぼんやりした味をしていた。


 まだ降る雨は、春の色づいてきた緑をすべてカーテンの向こうに隠してしまったかのように見えた。生き生きとしたその緑が、彼に似ている気がして、まるで遼が泣いているような気分になる。

 ⋯⋯会いたくても、会えない。

「延命措置、受けるの?」

 ママはティースプーンで紅茶をかき混ぜながらそう訊いた。わたしは顔を上げた。

「亨くんに聞いたのよ。わたしたちがあんなに反対したのにここに入っちゃって、彼氏が危なくなったら考えを変えるなんて、めぐも大人になったなぁ」

「ママ、わたしに1秒でも長く生きてほしいと思う?

 例え意識がなくても」

「ママはめぐの脳が生きている限り、伝わらないものはないと思ってる。生きていくのは辛いけど、この世から消えるのも辛いでしょう? 特に大切なものがあると」

「わたし、遼に死んでほしくないんだよ。贅沢?」

「贅沢かもしれない。彼はなんだって?」

「わたしには延命措置を受けてほしいって」


「延命措置を受ければ必ずしも生き返るわけじゃないのよ」

「⋯⋯わかってる。特にわたしは腫瘍がなくなるわけじゃないから、生き返っても長生きできないってこと」

 肌寒かった。鳥肌が立つ。

 いつか死が訪れる。天使が迎えに来て、そして――。

「死にたくないよ、ママ」

「治療、受ける? やるだけやってみる? また苦しいわよ。ママはめぐに生きてほしいけど、苦しい姿を見るのはママもパパも苦しいってことはわかって」

「わかるよ、ママ。でもやってみる価値はなしではないよね? わたし、生きたいよ」

「めぐが望むなら、なんだって協力するよ」


 ◇


 その日、ママはわたしの部屋に補助ベッドを入れてもらい泊まっていった。親と寝るなんてまったく昔の経験でちょっと緊張する。

 ママと、まだ元気だった頃の家族の思い出話をする。遊園地、キャンプ、それから⋯⋯。

 いつの間にか寝てしまって、朝起きるとすごく残念な気持ちになる。

 わたしは家族に甘えて、随分蔑ろにしてきた。でも、家族ってありがたいものなんだなぁ、と。


 テーブルの上にはもう朝食が用意されていて、ママはソファに座って本を読んでいる。

 この光景を忘れないようにしよう――そう思った。天国への荷物は確実に増えていく。しかも、速度を増して。それでいいんだと、そう思う。

 朝食を食べると、ママはケースワーカーさんと話がしたいと部屋を出た。多分、転院について聞きにいってくれたんだろう。

 転院⋯⋯どれくらい遼に会えなくなるんだろう? それを考えると悲しくなった。

 でもわたしは可能性に賭けて生きることを選ぶんだ。後ろ向きじゃなく、前向きに生を捉えるんだ。

 生きたい! 例え苦しいことが待っていても、遼と一緒の人生が少しでも長くなるなら。


「じゃあママ行くわね」

「また来てくれる?」

「近々来るから、気持ちを決めておいて」

「⋯⋯うん」


 ママはタクシーで帰っていった。

 タクシー乗り場まで送っていく。手を握る。そこには温もりがある。

 ママの手⋯⋯随分、小さくなったなぁ。

「じゃあね」

「うん。今日はありがとう」

「めぐのピンチはママのピンチよ。遼くんと亨くんによろしくね 」

 そう言うとママは運転手に「出してください」と言った――。


 ◇


 遼に会えない日は辛い。

 心が寂しさに折れそうになる。

 遼の病室の前に何度も行ってしまう。

 早坂さんか宮城さんに見つかって、帰される。「なにかあったら必ず知らせるからね」と。

 遼はこんこんと眠っているらしい。時々、寝ぼけてわたしの名前を口にすると聞いた。本当かどうかはわからないけど。

「武中くんがいないと静かですね」

「騒がしい人だもんね」

 窓の外はまだ雨。

 わたしはそっと、ビートルズを聴いている。『スカイ・クロラ』を膝に乗せて。


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