第3話

 花岡先輩が小児科に移ってからしばらく経ち、秋も深まりをみせていた。

 葉山くんは病室に行く前に必ず、ナースステーションに顔を出す。

「木下さんの顔を見に来てるのよ、あれは」

 などと、調子のいい同僚は笑う。私は「そんなことない」と、本心から応じた。彼の心を占めているのは、先輩だけなのだから。

 彼の来訪から数十分後、ナースコールが響いた。すぐさま確認すると、花岡先輩の病室だったので、駆けつけた。

「いやああああ! やだああああああ!」

「瑠璃ちゃん!」

 精神は幼くなっていても、身体は成人女性だ。遠慮のない泣き声、暴れ回ってベッドの柵にガンガンと腕を打ちつける図は、一瞬、ぎょっとする。

 看護師だけでは手に負えないと判断し、一緒にやってきた同僚は、素早く彼女の担当医師を呼んだ。

 先輩は、葉山くんの手を強く拒絶していた。「だれ」「こわい」と断片的なつぶやきを拾い上げるに、おそらく症状が進み、葉山くんを忘れてしまったのだろう。

 五歳の女の子にとって、見知らぬ成人男性は、恐怖を煽るものだ。

 定期的にやってきて、車椅子で散歩を任されるほどの信頼を勝ち得ていた彼は、突然のことに、表情を強ばらせていた。

 私や花岡のご両親同席のうえで、何度か接触を試みるものの、惨敗。すぐに泣き叫ばれ、仲良くなることはもはや不可能だった。

「道久くん。あの子のことは、もう、忘れてくれないか」

 母親は、ぐずっている娘のベッドの横についている。後は任せて、と言う彼女にうなずいて廊下に出ると、真剣な顔で、父親は葉山くんに懇願していた。

「そんな」

「君が瑠璃のことを、昔から大切にしてくれていることは、わかっている。瑠璃も、君のことを好きだった。私も、君のことを本当の息子のように感じている」

 真剣な表情は、怒りの表情と紙一重だ。先輩の父の目は涙ぐんでいる。怒っているのだとすれば、それは葉山くんにではなく医療や、何もできない自分自身に対してだろう。

「君には幸せになってもらいたいんだ。あの子はもう、君の恋人には戻れない。一生を棒に振る必要はないんだ。君は、まだ若いんだから」

 でも、と言いつのる葉山くんに、厳しい顔を向けるのは、愛情なのだ。父親にとっても辛いはずなのに。

 その日以来、葉山くんを病室で見かけることはなくなった。看護師が見つけ次第、お引き取り願っている。

「木下さんは、あの人に弱そうだから」

 という理由で、日勤の際はなるべく病棟をうろつかないよう、私は外来の診察室に立たされている。

 知らないうちに病棟にやってきては追い返される葉山くんを次に見かけたのは、十一月、晩秋にさしかかってからだった。

「あのね、葉山さん。いい加減にしてください」

 師長に怒られている背中は、完全にしょぼくれて丸くなっている。私はいそいそと近づいた。

「師長。私、ちゃんとお引き取りいただきますから」

「木下……」

 愛想笑いとともに、葉山くんの背を押して、病院の裏口に連れていく。表玄関で、話をするのはどうしても目立ってしまうから。

「ごめん、木下。俺」

 所在なさげに立ち尽くし、田舎にはそぐわない洒落たコートをぎゅっと握る手は、血管がくっきりと見えるほど、力が入っている。

 かっこ悪い。けれど、幻滅はしない。耳たぶを穴だらけにしてまで、恋人を一途に想い続ける彼のことを好きになったのだから、今さらだ。

 ふと見た彼の耳には、ひとつピアスが増えていた。十二個め。彼の誕生日は、十月だった。小さな一粒の赤い石。彼らしい色。隣の青の石とは、お互いに引き立て合って並んでいる。

 ――あおよりも、ピンクがすき。

 一心不乱に青のクレヨンを使いながら、矛盾したことを言う先輩のことを思い出して、ようやく合点がいった。藍色の石は、七つ。その他のピアスは五つだ。

「ねえ、葉山くん。明日って、空いてる?」




 翌日は、休みだった。午前中はやることがあったから、待ち合わせは午後になってから。場所は、いつだったかに入った喫茶店だ。

 今回は、私の方が先に席に着いていた。すぐにこちらを見つけて近づいてきた彼のオーダーは、ホットコーヒー。

「あれ?」

 葉山くんは、コーヒーを一口飲んですぐに気がついた。

「木下、その耳……」

 昨日までは空いていなかった、穴。ファーストピアスは敬意を表して、深くて濃い、青色の石を選んだ。

「葉山くんは、花岡先輩のことを愛しているから、ピアスを増やし続けてるのよね?」

「ああ」

 愛という単語に照れるほど、お互いに若くない。

 葉山くんの愛情は、会うことを禁止されているからといって、諦められるものではない。執念と言い換えてもいいかもしれない。恐ろしいほど、純で、一途で、強くて、それでいて儚くもある。

 私は、そんな風に誰かを愛することのできる彼だからこそ、好きなのだ。もちろん、その対象が私になれば、こんなにも嬉しいことはないけれど。

 私はいい年をした大人で、年相応にずる賢い。

「でも、十二個が限界でしょう。来年はどうするの」

「……軟骨にでも開けようかと思ってた」

 痛そう。午前中にピアッサーを使って開けたときの衝撃を思い出してしまって、自然と眉根が寄った。

「軟骨も全部開けたら? 鼻? 口? 舌っていう手もあるけれど」

 それ以上は、人体改造レベルになって、いくら美容師といえども、敬遠されるレベルだ。都会ならまだしも、ここは地方都市、平凡をこよなく愛する田舎だ。葉山くん自身、十分過ぎるほど理解していて、反論できずに黙っている。

「だから、私の耳を貸す。これで向こう十二年は安泰よ。よかったね」

「は?」

 何を言っているのかわからないという顔で、彼は固まった。

「石はこの色で統一して」

 勇気を出して、手を伸ばす。葉山くんの耳の最古参のピアスを引っ張った。深い藍色。ラピスラズリ――瑠璃、だ。

 ピンクが好きだと言った彼女は、頑なに青色のクレヨンを多用する。それは、自分の名前が「瑠璃」だからだ。

 自分の名前のついた石を、毎年毎年、恋人に贈り続ける。

 彼らは似た者同士。一途すぎて、馬鹿馬鹿しい。そして私も、同じくらい愚かだ。

「この石は、先輩のあなたへの愛情だもの」

 私から石の名前を聞き、葉山くんは絶句して俯いた。肩が細かく震えている。しばらく沈黙していた彼が次に顔を上げたとき、その目は赤かった。

「その、木下。ここまでしてくれても、俺は君に応えられるかどうか……」

 なんだ、わかってるじゃない。

 私はにっこりと笑ってみせた。

「打算よ。葉山くん、優しいもの」

 いつか、先輩への恋心を諦めなければならないときが、必ずくる。

 そのとき、彼は文字通り献身した私を無下に扱うことができるだろうか。

「看護師って、タフじゃないとダメなの。心も身体も」

 高校時代の私とは違うのだ。

 葉山くんは、目を瞬かせて私をじっと見つめると、最後に「……ありがとう」とだけ、呟いた。

「だから、打算だって言ってるじゃない」

 素直に礼を言われる義理はないのだと言っても、葉山くんは何度も何度も、頭を下げた。果ては涙声になる彼に、呆れつつも、「ああ、やっぱり好きだな」と、思うのだった。

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耳たぶの献身 葉咲透織 @hazaki_iroha

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