第2話

 配属されたのは、小児科だった。

 子どもは嫌いじゃない。好きだと言うには、彼らと触れ合いすぎてしまった。

「木下さん。精神科ってもう覚えた?」

 脳内に館内図を浮かべて、頷いた。医師が忘れていった書類を届けてほしいと言う。中途半端に電子化をするから、余計に忘れ物が増える。

 走らず歩かず、病棟へ。精神科は小児科と比べて静かで、病室の壁の中の人の息遣いまで、伝わってきそうだった。

 書類はナースステーションに預け、さっさと自分の持ち場に戻ろうと踵を返す。

 笑顔で見知らぬ老人に挨拶をしながら、階段を下りようとして、ふと人の気配を感じ、立ち止まった。

「……葉山くん?」

 車椅子を押す、派手な男性。思わず呟いた名前を、彼は聞き取り、振り向いた。

「え? 木下?」

 目をぱちくりと瞬きする。なんでここに、と雄弁に語っているので、「転職して、一週間前からここの小児科にいるの」と応じた。

「そっか……戻ってきてたんだ」

 葉山くんは一瞬、車椅子の相手を隠す素振りをする。だが、看護師である私なら、いくらでも情報を手に入れられるということに思い当たり、無駄だと悟った。

 車椅子の主は、同世代の女性だった。ゆるく波うつ髪は艶が失われている。

 彼女はうつろな目で、うさぎのぬいぐるみを抱き、親指を銜えている。見覚えのある顔に、私は思わず、「あっ」と、声を上げてしまった。

 葉山くんの言うところの、先輩だ。確か名前は、花岡はなおか……。

「花岡、瑠璃るりさん?」

 そうだ。花岡瑠璃だ。私たちよりも一学年上。何かと目立っていたのは、クールな美人だったから。憧れている子は、大勢いた。

 名前を呼ばれたことに気づき、先輩は私のことを認識した。とろんとした目つき、小首を傾げて、「だれ?」と、言う。

 咄嗟に屈んで、私は彼女と目を合わせた。前の病院でも、小児科にいた期間が長かったから、自然と身体が動いた。

「こんにちは、瑠璃……ちゃん。初めまして」

 看護師の格好に安心して、「こんにちは」と、微笑んだ彼女は、見た目は大人だが、あまりにも舌足らずで、幼かった。




 上の空で相手ができるほど、子どもたちはじっとしてくれない。勤務中は頭の片隅に追いやっていたが、更衣室で着替えているときに、ふたりのことがふっとよみがえってきた。

 明らかに長期入院中といった様子の、幼い彼女。車椅子を押す彼。仕事中で、あまり話すことができなかったのが、悔やまれる。

 院内の人間だから、花岡先輩の病状を知ろうと思えばできる。やらないけど。

「お疲れ様です」

 まだ更衣室にいる同僚たちに一礼して、外へ。スマホを出すのは、病院から出てからだ。 大抵は、なんとなく登録した店の宣伝だが、今日は違った。

「ん?」

 見知らぬ人から、フレンド申請が来ていた。何も見ずに拒否しそうになったけれど、「葉山」という名前に、踏みとどまる。

『木下、時間取って話せる?』

 一も二もなく返事をして、私は彼が指定する店へと向かった。高校時代はよく遊んでいた界隈の、あの頃にはなかったカフェだ。

 葉山くんは所在なさげにアイスコーヒーをストローでかき混ぜていた。私に気づくと、片手を上げる。

「わざわざごめん」

 私は首を横に振る。

「ううん。私も、葉山くんと話をしたかったから」

 小腹が空いたけれど、ケーキセットはぐっと我慢する。注文したアイスカフェオレが届いてから、葉山くんは、「びっくりしたろ?」と、静かに話を始めた。

 彼曰く、先輩は五年前に交通事故に遭い、脳に深いダメージを負った。直後は家族や恋人である葉山くんのこと、自分自身についてもある程度把握できていたけれど、時間が経つにつれて、記憶障害が表れ、今は幼児退行も進んでいる。

 恋人は家族ではなく、詳細は葉山くんも知らないし、彼の話だけで断じることができるほど、私は医療職の矜持を捨てていない。

 結果、しんみりと相づちを打つことしかできず、彼は居心地が悪そうに、忙しなく耳たぶを弄った。

 ふと思い出して、彼のピアスを確認する。 修学旅行で見せつけられた深い青の石は、変わらず左耳の一番いいところを占めている。同じ色のデザイン違いは、一、二……七つ。

 私の視線に気がついた彼は、耳を弄るのをやめた。恥ずかしそうに笑って、コーヒーを飲む。氷はもうほとんど残っていなかった。

「毎年ひとつずつ、先輩がくれるんだっけ?」

 驚いて手を止める。葉山くんは自分が惚気た内容までは忘れているようだ。

「瑠璃が事故に遭ってからは、自分で買ってるんだ」

「だからって、全部つける必要はないと思うけど」

「確かに」

 今はじめて思い当たったと目を丸くした葉山くんを見て、私は笑う。

 高校時代だって、こんな風に親しく話をしたことはない。当たり障りのない同級生。告白した/されたという事実は、お互いの胸に秘めていた。

 大人になった今、いい友人になれるかもしれないと思う反面、胸はズキズキと痛みを訴えている。

 いいなあ、と。葉山くんはずっと、葉山くんだった。

 見た目も言葉遣いも軽いのに、本当は誠実で、他人の気持ちを真正面から受け止めて返そうとする。そんな彼に、一生を捧げてもらえる先輩のことが、うらやましい。

 もちろん、そんなことはおくびにも出さない。笑って話をしながら、時折彼が触れるピアスを目に焼きつけるのだった。




 転職後一ヶ月経って、お互いの人となりもわかってきたところで、私があれこれとお遣いを頼まれたり、厄介ごとを振られる回数が減るわけでもなかった。

 それでも、小児科を管轄する師長に呼び出されるのは初めてだ。お説教か。心当たりはまるでなくても、そわそわする。

「訳ありの患者さんが転科してくるのよ」

「はぁ」

 適当な相づちを打って聞き始めたが、患者の名前を聞いた瞬間、納得した。確かに、おおいに「訳アリ」だ。

「花岡瑠璃さん。事故の後遺症のせいで、今は五歳児レベルの知能しかないの。最近は特に、癇癪を起こすことが頻発していて、あちらのスタッフのことも怖がるそうなの。小児科の方が扱いに慣れているだろうから、って」

 まさしく厄介者を押しつけられて不満だと、師長の口ぶりからうかがえた。

 小児科は、入院しているのが幼い子どもたちなので、内装からして、大人向けの病室とは違う。先輩も穏やかに過ごせるだろう。

「わかりました。私が中心になって担当します」

「悪いわね」

 ちっとも悪いと思っていない顔で、彼女は肩を叩いた。

 先輩のもとには、葉山くんが頻繁に見舞いに来る。だから、会う機会が増える。医療従事者にあるまじき不謹慎さを胸に、さっそく病室に向かった。

「瑠璃ちゃん、こんにちは。今日からよろしくね」

 大人ではなく、子どもに接するように挨拶をすると、彼女ははにかみながら、「よろしく」と、頷いてくれた。もともとが大人っぽい顔立ちの美しい人が、幼い仕草をすると、ギャップもあって、きゅんと来るものがある。

 私の思惑通り、葉山くんは週に二、三度は見舞いに来た。最初は私が担当になったことに驚いていたが、仕事ぶりを見ると、安心して、あれこれと話をするようになった。

「瑠璃ちゃん。お絵かき楽しい?」

「うん!」

 他の入院中の子どもたちとはあまり会わせないように、というのがご両親の希望のため、退屈そうにしていた。

 そこでスケッチブックとクレヨンを手渡すと、どんどん絵を描くようになった。こうなる前の彼女の画力を知らないが、五歳児にしては、写実的な印象の絵を描く。

「上手ね」

 花畑の中で笑っている女の子の絵だ。主人公はおそらく、先輩自身だろう。

 彼女の描く絵を微笑ましく見ていると、ある特徴に気づいたので、聞いてみた。

「瑠璃ちゃんって、青色が好き?」

 クレヨンは十二色入りの一般的なものだ。色とりどりの花も、女の子の洋服も、その多くは青が使われている。

 先輩は、私をきょとんと見上げて、首を横に振った。

「んーん。ピンク」

「そうなの?」

 けれど、今も手にしているのは青のクレヨンで、違和感を覚える。普通、好きな色を一番使いたいと思うはずなのに。

 一心不乱に絵を描く先輩を観察してから、私はそっと、病室を後にした。

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