第3話
「――くそっ!」
傷だらけのフローリングに家の鍵を思いきり投げる。
チャリンと軽い音が狭い部屋に響いた。
今日はやけ酒を決めようと冷蔵庫を乱暴に開ける。先輩が置いていったチューハイが入っていたはずだと思ったが、中はがらんどうだった。
扉を叩きつけるように閉める。
「あー、くそ!」
髪を掻きむしり、足を踏み鳴らした。
「ポテトぐらいでガタガタ言ってんじゃねーよ!!」
理不尽な発言であることはわかっている。しかし腹の虫は収まらない。
ポテト一個のせいで店長にガミガミと説教をくらったし、おかげでクローズ作業も長引いた。途中で勝手に「退勤」のボタンを押されてしまったので、ポテト三個分タダ働きをしたことになる。
もう一度床を踏みつけた。
その時だった。
『……ねーんねん、ころりぃよお』
換気扇から、のんきな歌が聞こえてきた。
『おこーろーりぃよ』
は、と声が漏れた。
笑ったのではない。
『――ちゃんはいいこだ、ねんねしなあ』
「うるせーよ……」
換気扇を見上げる。
『ねんねの、おもりはぁ、どこいった……』
「……うるっせーんだよ、毎日毎日」
調子の外れた歌は止む気配が無い。
『あのやーま、こーえて、さとーいったぁ……』
――なんでババアの下手な歌なんか聞かなきゃいけねんだよ、毎日歌ってんのになんで上手くならねーんだよ、そもそもあれは本当に子どもなのかよ、おまえは本当に母親なのかよ……!?
「黙れよっ! 下手くそがーっ……!!」
歌が、ぴたりと止んだ。
はっと顔を上げると同時に、目の前でぼとと黒い液体が落ちた。
レンジフードから垂れた油がコンロを汚す。
『……じゃあ、』
それまで遠かったはずの女の声が、鼓膜を這うようにはっきりと聞こえてくる。
『おまえが、歌えよ』
「……え」
呆然と立ちつくしていると、ピンポン、とインターフォンが鳴った。
時刻は深夜十二時過ぎ。宅配業者かも、という希望は持てない。
来客者を確認するためのモニターも無い。
床を鳴らさないように、そろりそろりと玄関まで歩いた。足が
狭い
右目を玄関ドアののぞき穴に近づけていく。脇から汗が噴き出してくるのは、室温のせいではない。
「ひ」
悲鳴を上げかけ、必死に堪える。
ドアの向こうに立つ101号室の女がこちらをじっと見ていた。
見ていた、というよりは、のぞきこもうとしていた。外側からは何も映さないはずのレンズに、自分の目を押しつけるかのように。
……こんばんはぁ~。
すぐ向こうから、間延びした声が聞こえてくる。
ボロアパートの玄関ドアの薄さに、初めて意識が向いた。女でも蹴破れるほどの厚みしかない。
恐る恐る、ドアノブを回す。
「こんばんはぁ……」
べとついた夜を背負って女が立っていた。声はやけに明るいが、表情は無い。
ぼさぼさの黒い髪には何本もの白髪が混ざり、蛍光灯で光っている。太っているのに目元だけがやけに落ちくぼんでいた。汗ともまた異なる、すえたような体臭が鼻をつく。
肉付きのいい腕にはやはり、ぐるぐる巻きの赤ん坊。腕も足も見えていない。体を温めるため、というよりかは、隠すために布で覆われているように見えた。
女の唇の上で、薄い皮が蓋みたいにべろべろとめくれる。
「歌ってください、よ」
この至近距離で相手の声が聞き取れないはずはない。けれど俺は「歌、ですか……?」と訊き返していた。
「ええ、歌です。歌って、くださいよ」
女は瞬き一つせず、俺をじいっと見つめている。
「あ、あの」
声がひどく掠れていたが、咳払いすら許されない気がして、代わりに冷や汗をかき続けた。
「歌ってください、よ。早く」
「でも近所迷惑に」と言い返そうとした俺に、彼女は「歌ってくれるまで、帰りません、から!」と声を被せた。
もう一度、「歌って」と促された。
「……」
ごくんと喉を鳴らし、空気を吸い込む。
梅雨の湿気が口腔内をなぞった。
俺が選曲したのは、「ぞうさん」だった。理由なんて無い。玄関ドアに鍵をかけるためのフックが貼り付けてあって、モチーフが象だった、というだけだ。
歌の中で、象は誰かに「鼻が長い」と指摘される。「自分の母親も長いのだ」と答える。
喉は震え、酷い声になっていた。簡単な歌なのに、音程を何度も外した。
蝿は首をよじ上り、
やっと歌い終えたが「二番も」と命じられ、続ける。
「鼻が長い」と言われたその次に、「誰が好きなのか」と訊かれる。
象は答える。
象が好きなのは――。
歌い終えた。
しかし長い沈黙があった。
渇ききった口の中で
蝿はようやく唇まで戻って、どこかへ飛んでいった。行方を目で追う心の余裕は残されていなかった。
羽音が完全に消えたと同時に、
「あ、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は」
女が笑った。
目を見開き、子を腕に抱き、俺を真っ直ぐに見つめたまま。
「あ、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、は、……」
歌が下手だと、笑い方まで下手になるのだろうか。
そう思いながら、俺も「アハハ……」と呼応しようとする。
場を和ませ、やり過ごしたかった。作り笑いならバイト先でも散々やらされている。だから、本心を隠して楽しいふりをするなんて容易いことだ。
しかし、失敗した。上手く笑うことができない。この不気味な女をどうこう言えない程に。
笑えないどころか、口の周りがどんどんと強張っていく。
「じょーずな、お歌でしゅねえ!」
女はカクンと首を
「すてきな、お歌でちたねえっ!?」
母親の指が布にかけられる。爪は伸び、垢が溜まっていた。ハンバーガーの包み紙を剥くように、布がめくられる。
中身が露わになり、俺はギャアーッ!と悲鳴を上げた。
布の中身は、見てはいけないものだった。しかし一つはっきりしたことがある。
この女は正真正銘母親で、赤ん坊を育てていたのだ。
―― かつては。
部屋の中に逃げようとした俺の後ろで、声高らかな童謡が始まる。
選曲は「おかあさん」。
お母さんからは、良い匂いがする。
そういう歌だ。
「歌う隣人」 了
[短編]歌う隣人 ばやし せいず @bayashiseizu
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