2-8 水道橋の上にて②

 どこかで犬が鳴いています。どこか物悲しいその声は、まるでいまの私たちを代弁するかのよう。しかしミュナさんは少しばかり笑顔を取り戻して言葉を紡ぎました。


「でも、悪いことばかりじゃない。自由都市ヴェルディスカの難民たちの生活は、聖女様のおかげで少しずつ豊かになっていった」


「聖女さまというと、7つある自由都市にひとりずついる主導者のことでしょう?」


「そう。ヴェルディスカの聖女さまは、他の自由都市から援助を引き出したり、私財を投げうったりして、難民の救済に尽力された」


「立派な方ですのね……」


 私の言葉にミュナさんは満足そうにうなずいて続けます。


「最低限の生活ができるようになると、私たちは前ほどには悪事を働かなくなった。そのかわり、町の神殿によく行くようになった。最初は配給をもらうためだったけど、すぐに聖女さまに会うためになった」


 ペンダントを握った手を差し出すミュナさん。私はそこにそっと手を重ねて、目を瞑ります。





 聖女さまは、もう70を超えているのではないかという老女でした。真っ白な髪は薄く、透ける頭皮が目立って、顔は深いシワだらけ。背筋はひどく曲がっていて、まるで聖女というより悪い魔女のよう。けれど眼差しだけは、きらきらと少女のように輝いていました。


「聖女さまは何を……?」


 私がたずねると、聖女さまの背中を懐かしそうに見つめていたミュナさんが答えます。


「神殿の花壇をくずして、そこに芋を植えてる」


 わざわざ聖女さまが? そう疑問に思う私の前で、聖女さまは古びた鍬を振るいます。ざっくざっくと手際よく掘り返された土に、苗を植えるのはルシアさんとミュナさんでした。


 ルシアさんは黒い眼帯から垂れた汗を拭いながらぶうたれます。

 

「……なぁばあさん。前から気になってたんだけどさ、ばあさんは聖女なんだろ。神さまの奇跡であっというまに大きくしてくれよ。こう、どかんって!」


 万歳するように両手を上げるルシアさん。芋の大木をイメージしているのでしょうか? 年齢相応なそのしぐさに思わず笑ってしまいました。


 聖女さまは小姑のようにルシアさんをぎろりと睨みつけ、大きなため息をつきました。


「あたしに指図したければ、それ相応の言葉遣いを身に着けるんだね。そんなんじゃ聞く気も失せちまうよ」


「良く言うぜ! ばあさんだってそんな口調じゃねーか」


 聖女さまは鍬を立てて、まるで聖剣を足元に突き立てた勇者のようになります。


「私はいいんだよ、冒険者だったんだから」


 ルシアさんがちぇっと舌打ちして作業に戻ると、私は首をかしげながらミュナさんに尋ねました。


「冒険者とはなんですの?」


「セプティマリスの7つの自由都市の地下には、『ダンジョン』と言われる空間がある。そこを探索して、資源や財宝を持って帰るのが冒険者」


 私は『ピコピコ』をしたことがないので詳しくは知らないのですが、勇者や魔法使いが冒険するあのダンジョンのことのようです。そんなものがあるのですかと目を丸くしていると、聖女さまが手を止めます。


「いいかい、ルシアに、それからミュナも」


 ふたりの視線が集まると聖女さまは咳ばらいをして、まるで別人のように穏やかなトーンで言いました。


「――言葉はあなたの考えを決める大事なもの。汚れた言葉からは汚れた考えしか出てきません。それを忘れないように」


 私を形作るものは思考で、思考は言葉に依存しています。聖女さまの心の深いところに迫った言葉に共感したのは私だけではありませんでした。


 普段、誰とも目を合わせたがらないミュナさんが、ルシアさんを正面から見つめます。


「わ、私もルシアはきれいな言葉を使った方がいいと思う」


「な、なんだよミュナまで……」


 ミュナさんは視線をさまよわせたあと、意を決したように言いました。


「ルシアは綺麗だから。まるで黄昏の空に鳴く鴉みたい」


 一見すると男の子にしか見えませんが、たしかにルシアさんは磨けば輝きそうな容姿をしていました。特に闇に浸した絹のような髪と、健康的な肌の色が相まってエキゾチックな印象です。


「や、やめろよ! 俺をからかうな!」


 ルシアさんが赤くなった顔を背けたときでした。最後の一振りを終えた聖女さまがふらりと倒れて、すとんと畑の上に座ってしまいます。


「――聖女さま!?」


 物影で控えていた神官さまが駆け寄って、聖女さまを抱え起こします。聖女さまはミュナさんたちの心配そうな視線に支えられて、どうにか立ち上がると、気弱な笑みを浮かべました。


「年をとるってのは、嫌なもんだね……。もう大丈夫」


 神官さまを下がらせた聖女さまは、ルシアさんたちの手を借りて神殿へと入っていきます。その曲がった背中を見つめているとミュナさんがぽつりと言いました。


「聖女さまは若いころ、有名な冒険者だった。ダンジョンの奥深くまで行ったこともあるから、その体はダンジョンの毒に侵されていた」


 罠の毒矢や、漂う瘴気のことでしょうか。気になりましたが、すでに情景は次の場面へと移り変わっています。


 そこは小さな部屋でした。質素だけれど清潔なシーツがかかったベッドに、小さな窓には十字の格子。あとは背のひくい調度品がいくつかあるくらいです。


「聖女さま……!?」


 ベッドの上に横たわるやせ細った老人を見て、私は思わず息を呑みます。ひどくやせ細った顔には生気がなく、骨に張り付いた血管が陰鬱な青さを放っています。そのときがすぐそこまで迫っていることは明らかでした。


 聖女さまは目だけを動かして、少し大きくなったミュナさんに声をかけます。


「今日もルシアは来ないんだね……。最近、あまり姿を見ないようだけれど、元気にしているのかい?」


 葬列に並ぶかのように目を伏したまま、ミュナさんは答えます。


「ル、ルシアはいま……」


 歯切れ悪く口ごもったとき、扉が勢いよく開きました。転がりむように入ってきたのは、ぐっと背が伸びたルシアさんです。


「まだ死んでねぇだろうな!?」


 姿が変われどやはりルシアさんでした。どかどかとブーツを鳴らしたかと思うと、腰に下げていた長剣を壁に立てかけます。それを見ていた聖女さまがかすれた声を出しました。


「ルシア……その恰好……!?」


 鉢金のようなバンダナに、磨き抜かれた銀色の鎧。左の籠手には一体化した小さな盾がありました。


「わりぃな、勝手に借りたぜ」


 聖女さまは何かを言おうと上半身を起こそうとしましたが、顔をしかめてぐったりと横になります。


「聖女さま……!」


 かしずくミュナさんを制して、ルシアさんは腰のポーチから何かを取り出します。


「へへっ、1カ月もかかっちまった……。ついに見つけたぜ。どんな病気も立ちどころに治るっていうキュアポーションだ」


 美術品のように洗練された小瓶には、金色の粒子がただよう液体が入っています。そのふたを開けようとするルシアさんの手を、聖女さまがそっと握ります。


「――それはお前さんがとっておきな」


 ルシアさんは気の強そうな眉を吊り上げて聞き返します。


「な、なんでだよ!? 俺はあんたに――」


 ゆっくりとかぶりをふる聖女さま。


「ありがとう……。でもダンジョンの毒に治療法はないのさ……」


 小瓶が床をころりと転がると、ルシアさんは隠そうともせず子供のようにわんわんと泣いていました。


「なんでだよ! あんたは聖女じゃないのか!? ダンジョンの毒くらい自分でなんとかしてみせろよ!」


 力なくベッドの端に拳を振り下ろすルシアさん。聖女さまはそんな彼女の頭を、針金細工のような手でいとおしそうに撫でます。


 ルシアさんは肩を上下させながら、嗚咽の合間をぬって声を絞り出します。


「なにか俺にできることはねぇのかよ……?」


 そんなルシアさんのほおに手を当てて、聖女さまは黒い瞳をじっと見つめます。


「――ルシア。私はあなたに託したいと思います」


 そのときの聖女さまの顔を、私は忘れることができません。長き流浪の果てに神性を得た予見者のごとく凛々しいものでした。


「た、託すって、なにをだよ……」


「次の『聖女』を。あなたにはその素質がある」


 ルシアさんはあんぐりと口を開いて、のけぞるようにしながら首を振りました。


「お、俺が聖女だなんて……! 知ってるだろ、俺は片目を失っても改心しなかった。いまだってただのコソ泥だ」


 聖女さまはゆっくりと体を起こして、ミュナさんに支えられながら厳かに言います。


「罪に手を染める弱さと、自己を捧げる強さの両立。悪でありながら正義を求めるその在り方は、多くの人々に勇気を与えるものです。あなたの周りにはいつも多くの人々が集まり、硬く団結しています。――ほら、今も」


 目くばせを受けたミュナさんが勢いよく扉を開けます。すると、まるでドミノ倒しのように、かつての子分たちが部屋へとなだれ込んできました。どうやら話を盗み聞きしていたようです。


「お、お前ら……!? 外で待ってろって言っただろ!」


 ルシアさんが目を三角にすると、年長の男が両手を合わせてぺこぺこと頭を下げます。


「す、すまん! どうしても気になって……!」


 その後ろからひょっこりと顔を出した獣人の女が、早口にまくしたてます。


「そうにゃ! そのポーションだって、あたしたちの協力がなかったら手にはいらなかったにゃ! 聞く権利があるにゃ!」


 そうだそうだと子分たちが声を上げると、聖女さまはルシアさんの手を握りながら言いました。


「あなたが悪事に手を染めたのは、より多くの人々を助けたかったから。もしあなたが聖女になれば、より多くの人を救うことができるでしょう」


 ルシアさんは戸惑いながらも言葉を絞りだします。


「お、俺に……そんなことが……」


 若いミュナさんが手を重ねました。


「私も救われた。――ルシアならできる」


 ミュナさんがうなずいて見せると、仲間たちもそろってうなずき返します。期待と励ましの視線が集まる中で、ルシアは唇をふるわせます。


「俺が……聖女に……」


 その重みを受け止めるようにぶるっと震えたときには、すでに悪童じみた不敵な笑みが宿っていました。


「へへっ。悪くねぇな。――やってやろうじゃねぇか!」


 歓声のなかで聖女さまが瞳を閉じると、大人のミュナさんは静かにつぶやきました。


「聖女さまが息を引きとったのは3カ月後だった……。けれど、ルシアには悲しむ暇はなかった。『黄昏の聖女』として、人々を救済する日々が始まった」


 聖女さまの部屋から出ていくミュナさんの背中を追いかけて廊下へと出ると、神殿の大聖堂のなかへと場面が移り変わります。


 普段なら厳かな雰囲気に包まれているであろうそこは、いまは多くの人々でごったがえしています。樽や木箱をせっせと聖堂のなかに運び入れる人々を見ながら、私はミュナさんにたずねました。


「この荷物はいったいなんですの?」


「食料品や衣類」


 こんなに大量に用意して何に使うのでしょうか。そう疑問に思っていると、誰かが目の前に大きな樽を置きました。


 それは宵の空のような深い灰色のローブを纏った美しい女でした。この神殿の高官でしょうか? 汗とほこりにまみれながら荷物を運び終わると、彼女は顔を上げて人々に指示を飛ばします。


「その木箱は入口の近くに! 搬入が終わったら、外にいるギルドマスターに数を確認してもらってください!」


 その声にまさかと横顔を見ると、そこにはあの黒い眼帯。私は目を疑いました。ぼさぼさだった髪は美しく梳かれて、痣や小傷が絶えなかった小麦色の肌も、太陽の香りを放つかのように生まれ変わっています。


 なにより驚かされたのはその所作でした。かつてのがさつさはどこにもなく、どこを切り取っても威厳ある聖女そのもの。


「この人が……ルシアさん!?」


 思わず口をついて出た私の言葉に、ミュナさんがうなずきます。


「そう。この3年でルシアは変わった。そして自由都市ヴェルディスカも」


 ミュナさんは積まれた木箱の上に手を置きます。


「この町には『ギルド』という組合がある。ギルドは冒険者たちがダンジョンから持ち帰った財宝を買い取って、人々の生活を支えていた」


 そのとき、聞き覚えのある悲鳴が大聖堂に響きました。


「にゃっ……!? さ、避けるにゃ!」


 大きな木箱を抱えた獣人さんが誰かにぶつかって、中身を派手にぶちまけてしまいます。ミュナさんは散乱した小瓶や服を見つめながら続けます。


「ギルドからの税金はお金で支払うのが通例だったけれど、ルシアは食品や必需品に限って物納を認めた。それがこれ」


 ルシアさんが指さす木箱をのぞきこむと、そこには塩漬けの肉や穀物がぎっしりと詰まっています。


「もしかして……難民への救援物資?」


「当たり。ルシアの援助のおかげで、難民のほとんどはヴェルディスカの市民として受け入れられていた。でも、」


 ミュナさんが大聖堂の入口を厳しい目つきで見つめます。そこから駆け込んできたのは――


「ルシアさま!」


 血相を変えて飛び込んできたのは、銀色の鎧に身を包んだミュナさんと、子分たちを率いていたあの年長の男です。


「――ど、どうしたのですか!?」


 ぜいぜいと肩で息をしながらルシアの前に立つと、すっかり大人になっていたミュナさんは他の人々を見回してから声を潜めました。


「じ、自由都市ドゥナガルから、アエテリスの軍勢に包囲されているという報せが……!」


 片耳のミュナさんは、うなだれるように肩を落とします。


「ドゥナガルはアエテリスに一番近い自由都市で、『氷床の聖女さま』の手元にあった。氷床の聖女さまは有志の冒険者たちを率いて先陣に立ったけれど、アエテリスの電撃的なやり方には3日と持たなかった……」

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異世界剣闘士〜悪鬼と呼ばれた少女〜 十文子 @nanactan

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