2-7 水道橋の上にて①
いいところがあるとミュナさんに言われてのこのこ付いてきたのですが、まさかこんなところだなんて……!
そこは帝都の中心を貫くようにそびえた、優美なアーチを3つも積み上げた壮麗な橋でした。けれどその上を流れるのは人ではなく水。ここは帝都が誇る上水道を支える水道橋の上でした。
すたすたと先を行くミュナさんをなんとか追いかけますが、思い出したかのように吹くそよ風が恐怖をあおります。手汗で両手がしっとりとしてきたころ、ふいにミュナさんが座り込みました。
「座って。ここが私のお気に入りの場所」
や、やっと着きましたのね……!
おっかなびっくり隣に腰を下ろしてみると、眼下にはどこまでも広がる帝都の姿。日差しで温められた石のぬくもりをお尻に感じながら胸いっぱいに空気を吸い込むと、町のすべてが私に届きます。
水路のせせらぎに、車輪が石畳を転がる音。市場の陽気な喧騒に、スパイスや焼きたてのパンの香りが混じります。そばに見える円形闘技場のものものしい威容も、いまばかりは穏やかに感じられました。
気が付けば心は凪いで、呼吸は正常に、胸の鼓動は穏やかになっています。
「……来た甲斐がありましたわ」
ぽろりと言葉が出ると、ミュナさんは満足そうに微笑みます。
「この国は好きじゃないけど、この眺めは好き」
まったくもって同感です。私が共犯者っぽく笑い返すと、ミュナさんは遠くを見ながらぽつりぽつりと語りはじめました。
「私の両親は、戦火を逃れてセプティマリスの自由都市にたどり着いた難民だった」
大陸の西に広がる湖畔の国、セプティマリス。青い湖畔と緑の林を思い浮かべていると、そこに暗い影が差します。
「当時のアエテリスは今よりずっと侵略に積極的だった。私の住んでいた自由都市ヴェルディスカにも多くの難民たちが押し寄せて、ひどい有様だった」
目を伏せるミュナさん。けれど、すぐにその眼差しは何かから勇気を与えられたように力強くなります。
「そんなとき、私が出会ったのがまだ子供だった聖女さまだった。彼女の名前はルシア。私たちは彼女のことを『黄昏のルシア』と呼んでいた……」
ミュナさんは首からペンダントを外して私の手の上に乗せます。そして包み込むように私の手を握ると、頭の中に何かが浮かび上がります。
それは12、13歳くらいの女の子でした。限りなく黒に近い茶色の瞳に、同じ色合いのざんばら髪。肌の色は薄い褐色で、折れた前歯を恥じらいもせずに笑う姿はわんぱくな男の子のようです。
「こ、これは?」
「このペンダントは記憶を人に伝える魔道具」
私が見ているのはミュナさんの記憶で、この女の子こそが聖女ルシア。そう理解したときには五感のすべてが体から離れて、遠い日々の情景へと至ろうとしていました。
◆
「――へへっ。ざまぁねえぜ!」
生意気な悪態を残して商店から飛び出してきたのは、大きな穀物袋を肩に担いだルシアさん。
「こんのクソガキっ!」
それを追いかける店主さん。あとすこしで追いつかれるというとき、ルシアさんが不敵に笑います。
「お前らっ! 頼むっ!」
街角に隠れていた子供たちが指示に従ってロープを引っ張ります。足を取られた店主が派手に転がると、ルシアさんが声を張り上げました。
「いまだ、ミュナっ!」
雑踏をかき分けて現れたのは、まだ幼い三毛猫のような少女――ミュナさんです。彼女は倒れた店主の上に飛び乗ると、ナイフを巧みに使って腰元の袋を奪い取ります。あっというまの早業に、店主は身じろぎしかできません。
「お、お前ら、こんなことをしてどうなるか……!」
おまけとばかりにミュナさんが店主の頭を踏みつけて走り去ると、ルシアさんが穀物袋を店主の上に落としました。
「返しておくぜ! ――これに懲りたら阿漕な商売はやめるんだな!」
店主さんがよろよろと起き上がったときには、子供たちは忽然と姿を消しています。
「……見事ですわ。狙いは最初から店主さんの持っていたお金でしたのね」
私の呟きに、ミュナさんは誇らしげに尻尾を立てます。
「ルシアはいつも大胆で、それでいて賢かった。最小の努力で最大の成果をもぎ取る」
しかし店主さんからしたらたまったものではありません。苦虫をかみつぶしたかのような顔で、がっくりと肩を落としています。
気の毒な店主さんの背中を見ながら、私は隣のミュナさんを一瞥します。
「けれど、ミュナさんもルシアさんもおいたが過ぎましてよ」
ミュナさんは涼しい顔で反論します。
「天誅。この人は難民を食い物にする悪徳な商人だった」
言われてみれば、通りを行く難民の人々はみな冷ややかな目を小さくなった店主に向けています。中には痛快そうに口元を吊り上げる者すらいるところをみると、よっぽど嫌われているようですが。
「彼は何をしましたの?」
「食料品を買い占めて高騰させたり、難民の女をだまして娼館に売り飛ばしたり。冒険者くずれのごろつきとも付き合いがあった」
それなら仕方なく――はありませんわね。それはそれ、これはこれです。
「何か理由があるのでしょうけれど、ルシアさんとミュナさんはどうしてこんな義賊のようなことをなさっていましたの?」
「生きるため。大人たちも頑張っていたけれど、それでも足りなかった」
ミュナさんが一歩前に進むと、景色が次のシーンへと切り替わります。
そこは長い年月をかけて大木に取り込まれた石造りの廃墟のようでした。きちんと掃除が行き届いていて、テーブルセットや古い絨毯もあります。
「ここは……?」
「自由都市ヴェルディスカの郊外にある廃墟街。街の中はもういっぱいだったから、難民たちはここで暮らしてた」
かぼそい咳が部屋に響いたのはそのときでした。隅っこに転がっていた、ぼろ袋だと思っていたもの。それがもそりと動いて、咳を繰り返します。まだ3歳かそれ以下の子供たちが、石床の寒さに耐えるように身を寄せ合っていました。
「あの子たちは……」
「孤児。親が食べるに困って悪事に手を染めて処刑されたり、病死したり。珍しくもなかった」
なんと言っていいかわからずにいると、子供たちが何かに気付いてはっと顔を上げます。勢いよく扉が開いたかと思えば、10歳前後の子供たちがわらわらと入ってきました。
みな服というのもはばかれるぼろ布を体に巻き付けていて、靴も履いていません。大体のものが痩せていて、食べ物が足りていないのは明らかです。
けれど暗い顔をしている子供はひとりもいません。浅い呼吸を繰り返しながら顔を上気させて、最後に入ってきたルシアさんとミュナさんを熱い眼差しで見つめています。
「ねぇちゃ……!」
ぼろ布からよろよろと出てきた幼児を抱きかかえて、ルシアは満面の笑みを浮かべます。
「お前ら――最高だ! よくやってくれた!」
ルシアさんが店主さんから奪った袋を逆さにすると、そこから銀貨が雨のように降り注ぎます。その豪快な光景に、子供たちがわっと歓声を上げました。
「すげぇ……!? いったいいくらあるんだ!?」「これで妹に薬を買ってやれるぞ……!」「わ、私、白いパンが食べたい!」
まとわりつくように抱き着いてくる子供たちをめんどくさそうにいなすルシアさん。
「お、落ち着けって……! 大丈夫だ、いまからちゃんと分けるから……!」
けれどその顔はまんざらでもありません。
大人ミュナさんがその光景を見ながら懐かしそうに言います。
「危険な実行役はいつも私とルシアだったけれど、ルシアは自分の分け前を多くしたりは絶対にしなかった」
誇らしげに――いえ、陶酔するかのように語るミュナさん。しかし、その顔はすぐに暗いものへと変わります。
「誰かくる」
子供ミュナさんの両耳がぴくぴくと動いたかと思えば、ルシアさんが唇に人差し指を当ててささやきました。
「まさか……つけられていたのか!?」
子供たちの顔に緊張が走ったとき、扉の向こうから何かが砕けるような音が響きます。
「――ミュナっ! こいつらを連れて逃げろ!」
子供たちが幼児を抱きかかえて、奥の壁へと群がります。積まれた石をどんどん外していくと、やがて人が通れるほどの穴が開きます。
「脱出路!? ……良かった!」
私が安堵のため息をつくと、子供たちは次々に穴を抜けていきます。これなら全員、逃げ切ることができるでしょう。そう思ったときでした。
「くそっ!?」
ルシアさんの声。その緊迫した視線の先には、部屋の隅に転がった毛布があります。そこから小さな咳が聞こえたとたん、私の背筋にぞくりとしたものが走りました。
「――ルシア!?」
ミュナさんが叫んだときには、ルシアさんは駆けだしていました。誰かが部屋の扉を外から叩いています。頼りない
「ミュナっ! そいつを早く連れて行けっ!」
「で、でもっ……!」
「馬鹿っ……! チビどもの面倒を誰が見るんだっ!?」
その声は震えていて、ルシアさんの目じりには光るものがにじんでいます。大人ミュナさんが呼吸を早くしながら首を振りました。
「このときの私は、ルシアならなんとかするって、馬鹿みたいに信じていた……。まだ12歳の、弱い女の子だったのに」
ルシアさんの健気さとミュナさんの悔恨に胸が痛くなります。けれどこれは『事実』。変えられない過去なのです。
永遠にも感じられる数秒の後に、ミュナさんは小さくうなずきました。最後の子供を抱えて、飛び込むように穴へと入っていきます。
テーブルごとルシアさんを押しのけて、数人の男たちがなだれ込んできたのはその時でした。
「よお……。金を返してもらいにきたぞ」
にっこりと優しく笑うのは、先ほどの店主でした。その背後にいたのは――兵士ではなく、明らかにまともではない大人たち。ミュナさんが『冒険者くずれのごろつき』と言っていた者たちでしょうか。腕や顔にはいくつもの傷が刻まれていて、荒事に慣れ切った雰囲気です。
その一人がカギ爪のようなナイフを抜くと、ルシアさんの顔から血の気が失せました。そんな姿を楽しみながら、店主が低い声で言います。
「俺の商売は舐められちゃおしまいなんだ。『お前みたいなガキにも容赦しないやつだ』と、知らしめる必要があるのさ……」
じりじりと後ろへと下がるルシアさんの顔を蹴り上げると、店主さんはその胸倉をつかみあげました。
「やれるならやってみろよ……!」
店主さんの顔に血が混じった唾を吐きかけるルシアさん。ところが店主さんは動じることなく、子供たちが逃げていった壁の穴を見ながら肩をすくめました。
「――薄汚いネズミどもめ。お前の子分たちもきっちりカタにはめてやるからな」
ルシアさんの顔が一気に蒼白になりました。先ほどまでの気丈な態度はどこにもなく、かたかたと震えはじめます。
「や、やめてくれ……。あいつらには手を出すな……」
なぜか店主はごろつきから受け取ったナイフをルシアに握らせて、にんまりと笑います。
「そうだな、その通りだ。さすがにそれは大人げない。……お前にケジメをつけてもらおうか」
目元をとんとんと指します。
「二つあるんだ。ひとつくらい無くても生きていける。……それで、お前の可愛い子分たちは無罪放免だ。――出来るだろ?」
もう我慢できません。私はここが記憶の中であることも忘れて、男に掴みかかろうとしていました。
「――恥を知りなさい!」
けれど私の手は空しくも宙を切ります。よろけて床の上に座り込んだときには、ルシアさんは肩を上下させながらナイフを右目に寄せていました。
「ハァッ……ハァ……ッ。や、安いもんだ。これであいつらが助かるならっ……!!」
じわっとしたものがルシアさんの目元からあふれて、震える手に力が入ったときでした。
「うっ」とミュナさんが声をもらします。とたん、記憶の中の景色は遠のいて、私たちの意識は現在へと戻りはじめました。
◆
「だ、大丈夫ですの?」
私が狭い猫背をさすると、ミュナさんは弱々しくうなずきまそした。
「う、うん……」
続きが気になりましたが、またの機会にしたほうがいいかもしれません。そう思ったとき、ミュナさんは空を見上げながらつぶやきました。
「――次にルシアと会ったのは、1か月後だった。まるで昨日、一緒に遊んだばかりかのように、ルシアはルシアのままだった。……けれど、彼女のあの黒い瞳は――ひとつだけになっていた」
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