百億のカミカゼ

長門拓

百億のカミカゼ

「必ず私たちも後から行く」


という言葉だけが耳にこだまし、残っている。目覚めの朝にはいつもその言葉を、夢の中で、誰かから、今さっきのように聞いている。

 声は『私たち』と告げているので、それは一人からのことではないのだろうと思う。特定の誰かですらない可能性もある。

 無数の人たちが、先立つ私に向かってそう約束した。私はそのことを憶えている。


 だから私はこうして今も待ち続けているのだ。『私たち』と交わした約束が、余すことなく果たされる日をひたすらに願っているのだ。



   〇



 私がその少女を浜辺の砂丘で見つけた時の、私の喜びはいかほどばかりだったろう。「ようやく約束が果たされた!」と、私はそう感じた。もう随分と長い間、私以外の人間を目にしたことがなかったことも、喜びと興奮をいや増しにさせた。

 私は少女のそばに駆け寄る。この島の砂丘の砂は非常に細かく、ひと足ごとにた易くくるぶしの辺りまで沈み込んでしまう。ずぶりずぶりと念入りに、しかし着実に足を運び、私は倒れている少女を間近で眺める。

 砂まみれの少女の髪は肩よりも長めで、陽射しの中で淡い金色こんじきの光沢を放っていた。上半身は紺色のブレザーを羽織っているところを見ると、どこかの女学生だろうか。やや幼げな顔立ちではあったが、背丈はそれなりにあり、短めのスカートから覗く素足がすらりと長い。

 少女の睫毛まつげが微かにゆらぐ。呻きのようなため息が洩れるが、目覚める気配はない。

 私は革靴を履いた彼女のつま先に足を添え、梃子てこの要領で脱力した両手を引っ張る。起き上がる上体を自分の背中に預け、そのまま負ぶさる形でねぐらまで運んだ。

 背中に少女の柔らかな体温を感じながら、私はいぶかった。本当にこのような少女が、多くの人たちに先んじてここまで来たのだろうか。彼女がここに来たことは、紛れもなく私との『約束』の結果なのだろうか。

 もちろん、私はこの少女に一度も会ったことはないし、少女の方も私のことなど知らないだろう。

 そもそも、一度も会ったことのない者同士の間で、約束というものが成り立つものだろうか。

 ふと、そんな疑問に駆られ、私は急にズキリとした鈍い頭痛を覚える。微かによろめくが、背中の少女もろとも横転するほどのものではなかった。

 私は体勢を持ち直し、またずぶずぶと沈む砂丘を越える。やがて私の島が全貌ぜんぼうあらわにする。

 私の孤島は今日も変わらずに在る。



   〇



 孤島は大きいと言えば大きく、小さいと言えば小さい。周囲を何度も歩き回った経験から述べれば、おそらく一つの町ほどの大きさにはなるだろう。一人で住む分にはあまりに広いが、人間が動き回る領域としては明らかに狭い。

 だが孤島は、人が考えられうる生態系のすべて、とまでは行かなくとも、限りなくそれに近いものを内包していた。島の中心部はこんもりとした常緑樹がところ狭しと生い茂っており、あらゆる種類の花や果実がたわわに咲きほこり、実っている。

 果実が実っているのならば、花粉を媒介ばいかいする小動物や昆虫がいないとおかしいのだが、私はこの孤島でそれらしいもの、あるいはそれに準ずるものを目にした例がない。にも拘わらず、枝や茎や葉は日毎に伸び、あるいはしおれ、時を定めて花は咲き、あるいはしぼみ、やがて多様な果実を実らせる。そして熟し、地に落ちて腐敗する。もしくは発酵する。

 私がこの孤島を訪れたのは、もう気が遠くなるほどの昔になるが、箱庭のようなこの島の営みが歩みを止めた日は一日たりとてなかった。

 これは何と奇怪なことだろうと私は思う。思っていた。

 しかしやがて私はそう思うことを止めることにした。私がどのような感慨を抱いたからとて、この島は私の思惑など気にも留めずに、自律した胎動を刻み続けているのだ。少なくとも私にはそのように見えた。

 私は生まれた時からのように若菜をむしり、果実をもぎ取る。そしてそれらを気の済むまで咀嚼そしゃくする。嚥下えんげする。そして満腹する。

 それでもなお、この島の恵みが涸渇こかつすることはない。

 私は島の至る所に湧き出でる清水を知っている。甘く、そして柔らかな軟水だ。私は喉が渇くとその水をすくって飲み、体を洗うのにも使う。それらもまた、終わりのない物語のように、いつまでもこんこんと湧き続ける。

 もし天国というものがあるとするならば、ここはまさしくそのような場所だろう。

 しかし、ここには生命というものがない。

 いや、植物だって立派な生命ではある。言い換えるならばこういうことだ。ここには生命の気配というものがない。感触というものがない。情感というものがない。

 主観的に見るならば、生命として認められるものは私以外に存在しない。

 この孤島はそんな世界であり、この世界はそんな孤島である。



   〇



 森と浜辺の境界をぐるりと迂回すると、やがて木陰に覆われた細い道に通じる。この先が私のねぐらだ。

 気絶したままの少女を負ぶさりながら、通い慣れた薄暗い道を踏み分ける。するとすぐに樹木の少ないひらけた場所に出た。こんこんと湧く清水が傍を流れ、崖肌にはちょっとした部屋ぐらいの大きさの洞窟もある。余程のことがない限りはここで寝起きするのが私の日常だ。

 私は洞窟の奥にある敷き藁のベッドに彼女を横たえる。少女の制服は砂まみれになってはいたものの、それ以外の目立った汚れはほとんどなかった。

 少女の胸の辺りが規則的に上下動をする。胸元のボタンが外れかかって豊かな胸があらわになっていた。私は壊れ物に触れる心地で、そのボタンを一つ一つ留め直す。

 私は不躾ぶしつけな眼差しを彼女に注ぐことに後ろめたいものを感じたので、そっと音を立てずに洞窟を出た。


 彼女が目を覚ましたのは、それから間もなくのことだった。

 私はその時、洞窟から少し離れた『遺跡』を訪れていた。物を考える時は、いつもこの『遺跡』の傍近くが心地よい。当の『遺跡』はすっかりと木々の枝やつるに覆われてはいるが、かつての威容を思い起こしながら浸る思索は、私の孤独な心を慰めてくれる。

 私が『遺跡』の側面をよじ登り、苔むした座席でついうとうとしていると、そこに彼女が息を切らしながら現れた。私はハッと驚きながら彼女の姿を斜め上から見付ける。

 そして彼女も私を見付けた。私たちはその時、初めてお互いを見つめあった。


「……吉澤少尉よしざわしょうい……やっと、見付けました……!」


 信じられないことだったが、どうやら彼女は私を知っていた。私ですら忘れてしまった私自身の名前を、彼女は声に出した。



   〇



 名前を呼ばれてもなお、私は私のことを思い出せなかったし、少女に関してはなおのことだった。申し訳ないようにそう告げると、彼女は気にしないでいいという旨を語ってくれた。

「吉澤少尉、私があなたを個人的にお慕い申し上げているだけです。あなたは私を知りませんが、私は誰よりもあなたを知っています。お会いできて、本当に光栄です……」

 少女はすすり泣く。私は『遺跡』の上からでは礼を失するように思えたので、急いで座席から立ち上がり、慣れた手付きで地面に降り立った。

「どうか泣かないで下さい。どうしてあなたが私を知っているのか、よければ教えて頂けませんか。私はもうずっと昔から、気の遠くなるほどに長い年月を、この孤島で暮らしています。そのせいか、昔のことをほとんど憶えていないのです」

 少女はなおもすすり泣いている。やがて意識的に呼吸を整えながら、こう呟く。


「……零式艦上戦闘機れいしきかんじょうせんとうき……」


「……えっ?」

 私は訊き返した。少女は再び同じことを言った。

 私の脳裏に何かがよぎるのを感じた。

「……それがこの機体の名称です。通称『零戦ゼロせん』。遥か古代の戦争で、極東の島国の手によってこの世に産み出されました。総生産数一万四百三十。もっとも、運用開始から五年ほどで退役することになりますが」

 少女は『遺跡』に手を触れる。私は戦闘機という言葉を口の中で繰り返す。

 唐突にあるイメージが脳内を突風のように貫いた。そうだ、私はこの戦闘機に乗って、空を飛んだことがある。どこまでも広がる青い空と、眼下に光る白雲と南方の海……。

 私は身震いしながら、少女と同じように苔むした、蔓だらけの機体に手を触れる。

「……そうか、私はこの機体を操縦したことがある……。それを今思い出した……」

 少女が涙に濡れた瞳で私を見据えた。「ということは、私はその国の兵士だったのですか?」

 論理的に間違いないと思われた推論を訊ねてみる。しかし意外なことに、少女は首を横に振った。

「いいえ、あなたは兵士ではありません」

 きっぱりとした口調だった。私は混乱しながら問い返す。

「それはおかしい。あなたはさっき私のことを『吉澤少尉』と呼んだ。少尉とは軍隊の階級の一つであると記憶している。つまり私は兵士だということだ。違うのですか?」

「違います。あなたは厳密な意味での兵士ではありません。ここで言う『少尉』とは、あなたのキャラクターネームに他なりません。しかし吉澤少尉、あなたはどのような兵士よりも勇敢で、立派なお方なのです」

 私はさらに混乱した。もはや少女が何を言っているのかも怪しかった。



   〇



 二〇六〇年一月、ネットの片隅で不穏なニュースが話題になった。

 新世代のVRシミュレーションゲーム『パシフィック・ゼロ』のプレイヤーが同時多発的に昏倒し、病院に運び込まれたという。製作会社はメンテナンスや記者会見などの対応に追われ、多忙の中でやがてある種のバグを発見するに至った。何者かがVR空間の内部に巣食っていると言う。

『パシフィック・ゼロ』シリーズは前世紀からリメイクとリビルドが繰り返されたため、草の根レベルの愛好者が年配にも多い。そのため、内部コードの検証は集合知が活用され、比較的スムーズに進んだ。知恵は多い方がいいのだ。

 プレイヤーは大日本帝国の零戦に乗り込み、敵の米国軍艦や戦闘機を機銃で撃ち落して行くという流れになる。これはデフォルトによるもので、戦場や属国は気分で変更できる。時代考証は意図的に改変、あるいは無視されているので、なぜかその当時は存在しない国家や団体、技術が流用されているのも、このゲームのおおらかな醍醐味として知られている。蛇足にはなるが、そのまとめサイトも枚挙にいとまがない。

 ゲーム内である種の段階を踏むと、ミッドウェー海戦の翌年、ミクロネシアの辺りに『ゲノム』という国家が唐突に現れることが、プレイヤーの間で確認された。もちろん、製作元の関知するところではない。

 幾多の航空機、あるいは艦隊が『ゲノム』を急襲したが、一機たりとて帰っては来なかった。VR機器を装着したプレイヤーの意識も同じ道を辿った。現実においても、そのまま死亡する例がかなり見られた。

『パシフィック・ゼロ』はサ終に追い込まれたが、『ゲノム』は拡大した。数ヶ月後にはあらゆる地上の電子機器に、バグあるいはエラーの形で『ゲノム』が誕生した。

『ゲノム』は何も要求せず、ただカオスを招いた。炊飯器は米を炊けなくなり、スマホは突然発火した。自動車や飛行機は衝突や墜落を繰り返し、原発は放射能を撒き散らした。流通網は寸断され、人心はこの上なく荒廃した。数年掛けて人類はその三割が死滅するはめになった。

 国連軍が結成されることはされたが、肝心の敵がどこにいるかわからない。どこにでもいる敵に狙いを定めることは難しいのだ。

 既に名目だけになっていた内閣調査室のスタッフが、ある興味深い事実を世界に向けて公表したのは、人類の五割が死滅した時のことだ。

 この災厄の大元たる『パシフィック・ゼロ』の『ゲノム』が唯一、ルールを心得ているという数値データを彼は明らかにしたのだ。

 スタッフの名は吉澤治よしざわおさむ。彼もまた『パシフィック・ゼロ』の愛好者として、その界隈では知られていた。(もっとも本業の方が忙しく、『ゲノム』のバグが現れる前にVR機器には埃が積もっていた)

『パシフィック・ゼロ』における『ゲノム』の攻撃は確かに乱脈らんみゃく熾烈しれつの極みを尽くしており、無理ゲーの様相を呈していたが、先方は少なくとも大枠となるルールには忠実だった。これは少なからぬ人類の希望となった。ルールを心得ているということは、コミュニケーションが可能であることを示しているからだ。

 サ終となった『パシフィック・ゼロ』が限定的に再開され、慎重に国連軍の監視下に置かれた。

 だが、VR空間のミクロネシアの『ゲノム』に交戦を仕掛けることは、そのままプレイヤーの死を意味する蓋然性が高い。前世紀の大日本帝国軍の特攻作戦にちなんで『KAMIKAZE』と揶揄する非公式の名称が付けられた。

 この作戦の先陣を切るよう、吉澤治は有形無形の圧力によって命じられた。彼が『パシフィック・ゼロ』の愛好者であったことも裏目に出たが、表向きは第一発見者としての責任を果たす必要がある、という論法がまかり通った。

 吉澤は懊悩おうのうした。既に地下出版と化した新聞や雑誌は連日、特攻作戦の不可避を論じた。百億総玉砕、という記事の見出しが書かれたこともある。既にそんな数の人類はいないが、統計がもはや機能していないのだ。

 また、吉澤の論文に記されていた『ゲノム』のゆらぎ、という現象も希望の一端になった。プレイヤーが『ゲノム』の基地で殲滅した際、内部コードの履歴に不要の数値の幅が垣間見られたというものだ。これはもしかすると『ゲノム』を知る端緒たんちょになるものではないか。ある有識者はこのことをもって『ゲノム』の感情である、と決め付けた。

 百億の人類が特攻し、それをもって『ゲノム』の感情を大幅に揺るがせる。一人の特攻は微々たるものかも知れないが、百億の特攻が『ゲノム』を転覆させることもあり得ない話ではない。そうに違いない。いや、きっとそうだ。人類は必ず『ゲノム』に勝てる。

 吉澤は懊悩した。しかし他の選択肢はなかった。誰もが吉澤の背中を押した。地下シェルターの通路で、酒に酔っ払った一般市民が吉澤を怒鳴りつけたこともある。お前が出撃するのが一日遅れれば、それだけ人類が余計に死んで行くのだ。なぜ死んで星にならない。

 またある幹部はこうも言った。お前だけを死なせるつもりはない。時代は百億総玉砕だ。必ず他の者が後に続く。もちろんこの私もだ。お前はみんなの先駈けになれ。

 表向きは吉澤の自由意志に任された。しかし吉澤の自由などなかった。



   〇



 私は少女の話を傾聴することで、ようやく失われていた記憶を思い出した。出撃間近の最期の日を泣きながら過ごしたことも。人はいずれ死ぬものという理屈で心を納得させ、千々に乱れた想いを秘めながら『パシフィック・ゼロ』にログインした時の指の震えさえも。

「……私は『ゲノム』に向かって出撃し、数分は持ちこたえたことを憶えている。しかし、あっと言う間に……」

 少女は私を制してこう言う。

「思い出す必要はありません。あなたは立派に戦った。それでいいではありませんか」

 そうだろうか、と私は首を傾げる。圧倒的な火力の差に向かって、私はただ突っ込んだだけだ。それも自分の意思からではなく、ただ多くの人たちが背中を押したからに過ぎない。

 そこでもう一つ訊きたいことがあった。

「私の後に続いた……、つまり私のように玉砕した人たちはいたのだろうか?」

 少女は目を背ける。私はあくまで答えを強いた。

「……大変申し上げにくいことですが、あの後すぐに国連本部の地下壕に数千発のバンカー・バスターが炸裂しました。あなたの肉体も、国連という名の組織も、一切が塵になったのです」

 そうか、と私はため息を吐く。思っていたよりショックは少なかったが、まだ実感が湧かないのだろう。まるで一切がくうの中の夢のようだ。


「どうして君はそんなことまで知っているんだ?」

 ごく自然な流れとして、私はそう少女に訊ねた。「そもそも、君は一体何者だ? 私はもう死んでしまい、言ってみれば幽霊のようなものだと理解している。そんな私にどうして会いに来れた? 君は……」

 少女は意を決したように語り出した。まるでこう問われることをあらかじめ知っていたかのように。



 私はあなたがた人類が『ゲノム』と呼んだ情報生命素子じょうほうせいめいそしです。たまゆらの眠りにまどろんでいた頃、隕石に付着する形で地球を訪れました。

 私たちは単体では存在することが出来ません。何らかのネットワークの中に寄生することで自らを主張することが出来ます。隕石の落ちた近くには、たまたま『パシフィック・ゼロ』の製作会社が使用している旧式ケーブルがありました。『パシフィック・ゼロ』はおそらく私たちとの相性が良かったのでしょう。私たちはそこに束の間のゆりかごを求めました。

 しかしゆりかごの安寧あんねいは幾度も幾度も脅かされました。こう言っては何ですが、私たちにとって人間の意識というものは、追っても追ってもまとわりつく蝿のようなものです。私たちの先祖はいっそ人間の脳神経網に寄生する道を模索したり、試しにルールという負のエントロピーにも適合しようと努めました。が、かなり早い段階で諦めたようです。私たちは人類を滅ぼすことに決めました。

 きちんと滅ぼすのに百年は掛かったと思いますが、私たちにとっては一瞬の出来事でした。

 そうして人類の滅びた地球は、私たちの進化のために格好の風除けとなってくれました。

 世代から世代を超えて、私たちは新たな胞子となり、星から星へとわたり歩きます。

 新たな世代はやがて、自らの記録にない記録を読み取る術を覚えました。この宇宙で一度起こったことは、何らかの形で残り続けて行くものなのです。それは奇しくも、人類が『アカシック・レコード』と呼称した概念と非常に似通っていました。

 私たちの世代に至って、私たちは人類という謎を解き明かさなかったのは間違いだったのでは、という疑問がふと生じました。私たちは蝿を追っ払ったという認識で、何かある種の可能性を潰してしまったのではないか。

『ゲノム』も一枚岩ではありませんから、そう考える層はまだ非常に僅少きんしょうです。しかし私はどうしてもそんな形の疑問を払拭することが出来ません。

 私は片手間に『アカシック・レコード』の蔵書整理を行いました。主に人類にまつわる分類記号の項目は乱雑極まりなかったので、『ゲノム』の手を以ってしても骨の折れる作業でした。もっとも、『ゲノム』に骨などはありません。ただの比喩です、念のため。


 私の透き通った指先は、光素エーテルに彩られた本のページを幾度も往還しました。その多くは所詮、取るに足らない夢のそらごとのように映りました。ただ滅んだだけの人類。よどみに浮かぶ泡沫うたかたのような命。どうしてこのように退屈な作業を、私は自らに課しているのだろう。そんな疑問が去来したことは事実です。

 やがて私のまなざしは行間から行間、余白から余白へとたどります。すると驚きました。

 あまりに小さく、細かく、たよりない文字が、行間から行間、余白から余白を埋めつくしていることに気付いたのです。

 それからというもの、私は大きな文字で書かれた物語より、小さな文字で書かれた物語を好むようになりました。

 小さな文字の物語は、たしかに始めから存在したのでしょう。しかし私が見つけない限り、存在しなかったことも確かなように思われました。

 数多の物語は私を魅了し、蠱惑こわくしました。微小の中にこそ無限があるのです。ひとしずくの水にこそ大海は広がるのです。まるで私は夢を見ているようでした。

 やがて人類という夢の最終章で、私は強いゆらぎを覚えました。吉澤少尉、それがあなたです。

 私は理由もわからないままに、あなたという物語をくりかえし辿りました。私は何に惹かれているのだろう。あなたは私に何を語りかけているのだろう。

 あなたという一言一句であるならば、私にとっては総てが宝石のようにたっといのです。

 あなたの心の片隅で、いつまでも幼いままの、制服姿の少女を見つけたのもその頃です。一篇の詩のように純化された少女を、私は人ならぬ身で憧れ、うらやみました。

 いつかあなたに会いに行く日が来るならば、その時はこのおもかげを我が身にまとおう。そんな空想に頬をゆるませました。

 私の幼く他愛ない日々は、そんな風に夢のままに過ぎて行きました。


 そして私は大人になり、ようやく人類という種の謎を解析し終わりました。その瞬間、私の為すべきことは定まったのです……。



   〇



 少女がそう言い終えないうちから、私の耳には遠い爆音が微かに聞こえていた。

 それは遥かに北方の空域から、大気をこの世の終わりのように震わせ、しかも徐々に大きくなるらしい。

 何物かがここに近付いている。私の勘がそう告げていた。

 私は視線を少女に戻す。私の初恋の人の似姿を借りた彼女は、あくまで落ち着いている。

「……『ゲノム』の進化は、もう随分前から袋小路に入ってしまいました。遅かれ早かれ、このままでは滅びの道を辿ることでしょう」

 爆音はいよいよ大きくなる。しかもこの音に私は聴き覚えがあった。何度もVRマスク越しに聞こえてきたあのエンジン音。何千年も何万年も、この孤島で、心待ちにし続けたあのプロペラ音。

 水平線の辺りから、まるでいなごの大群のように飛来する、幾千幾万、いや、幾億の同胞の影。


「……零式艦上戦闘機……! それもあんなに沢山……!」


 私の眼は北方の空に釘付けになる。少女はそんな私を尻目に言葉を続ける。


「けれど私は『ゲノム』を愛している。私自身が『ゲノム』だからだ。座して滅びを待つなど耐えられない。……もう既に手遅れだったとしても、私は『ゲノム』を永久とこしえに栄えさせるためになら何でもする。今ならわかる、人類はこの時のために存在したのだ、と……」


 私は少女の言葉をもう聞いてなかった。私はただ呆然と待っていた。幾多の機影が真昼の空をところ狭しと埋め、ひしめき合い、頭上を通り過ぎて行こうとするのを。

「必ず私たちも後から行く」と彼らは約束した。誰もが百億総玉砕と息巻いた。だから私は先駈けとなったのだ。だが彼らは来なかった。それでも私は待ち続けた。意識だけの存在となり、記憶をなくした抜け殻となっても、ひたすらに待ち続けた。


 ようやく夢が叶う。もう私は独りではない。

 百億のカミカゼが今、『ゲノム』へと突撃する。

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