笑顔の瞳に映るもの

雪珠

笑顔の瞳に映るもの

 私にはとっても素敵な年上の旦那様がいる。


 優しくて、温かくて、かっこいい。


 でも、最初は怖い人だった。なんなら出会いも最悪。

 だってあの人、会社で私の後輩泣かせてたのだ。


 後輩はとっても良い子だった。いつもニコニコ笑ってくれていて、気も利く優しい子だった。だから正直その場面を見て、「何やってくれてんだ」と思った。いや、言ってやったかもしれない。ちゃんと言葉はオブラートに包んだけど。


 でもその時の彼は何も言わなかった。もとから無口ということもあるけれど。ただじっと私を見る彼の目はとても鋭くて、少し怖いと思った。


 けれど、よく見ると私を映すその瞳はどこか心配そうに揺れていて。その後すぐに、彼は視線を反らして、自分の仕事机の方へ戻ってしまったので、当時の私は気のせいかと片付けてしまっていた。


 でもそれは気のせいではなかった。

 彼は給湯室でこそこそと私の悪口を言う後輩から守ろうとしてくれていたのだ。


 どうやら、良かれと思って少量しか荷の重い仕事を後輩に流さなかったことが彼女は不満だったようだ。しかも申し訳ないことにその時の私は頻繁に仕事業務から離れることもあったため、そのしわ寄せが彼女にいってしまったことも多くあったのだ。彼女も積もり積もった思いを爆発しなければやっていられなかったのだろう。


 ただそれを目撃した彼が悪口を言うことについて諫め、怖がった後輩が泣いてしまった。


 私は2人に対してとても申し訳なく思った。別に彼女の成長を止めようとしたつもりは一切ない。けれど後輩を大切に育てようとしたあまり、彼女の成長を身勝手に止めたにも関わらず、結局は自分のせいで迷惑をかけるなど、先輩として不出来すぎだ。しかも、私は彼にひどいことを言ってしまった。


 私はすぐ彼にアポをとって、謝りに行った。

 けれど彼はそんな私をしばらくじっと見てから一言、「大丈夫だよ、君なら」と言ったのだ。

 それを聞いた私はただただ驚いた。まるで私の心の中を見透かしたかのような発言だったから。きっと彼は、私なら「先輩としてあるべき指導をおこなうことができる」という意味で言ったのだろうけど、当時の私は別の意味にも当てはまると感じていたから。


 それから私は彼に興味を持つようになった。無表情で口数も少ないこの人を、どうにか笑顔にさせたいと願ってしまったのだ。

 思い立ったが吉日。それからというもの、私は毎日のように猛アタックをしまくった。もちろん、後輩指導も力を入れて行いつつ。


 その甲斐あってか、最初と比べ彼との距離は近づき、無表情だった彼の顔は、呆れ顔をするようになった。そんな小さな変化でも嬉しい。

 でも、まだ笑顔が見られるのはほど遠そう…。


 私は思い切って水族館や映画館、遊園地など、世間一般ではデートスポットと呼ばれるような場所に誘い出したりもした。ただ一心に彼を楽しませるのに必死になっていたのだ。もはや意地だ。

 けれど結局どこへ行っても彼は呆れ顔以外の新しい顔をしてはくれなかった。


 一緒に出掛ける場所の案も出し尽くし、一周回って呆れ顔すらも無表情と同じように見えてきたころ、私は彼に尋ねてみた事もあった。「いつも誘いには乗ってくれますけど、私と一緒にいて楽しいですか?」と。

 もうやけくそだった。


 一方の彼はしばらく私を見つめ2,3度瞬きをした後、小首を傾げた。


「どうしてそんなこと聞くんだ?」

「だって、私あなたの笑った顔見たことないんですもん」


 彼は珍しく目を見開いた。


「そうか…?」

「ちなみに笑顔って何かはわかりますよね?」

「…こうか?」

「まぁ。悪だくみしてる人の笑み。…そうですね、もう少し目をこう、三日月にするみたいに、ニコーッと」

「こうか」

「んー…、やっぱり今のなしでお願いします」


 さすが日頃無表情で過ごすだけあって、表情筋がなかなか働かない彼。少し動かしただけなのに、頬が痛くなってきたのかさすり始める姿がどこか可笑しくて、私は思わず笑ってしまった。


 そんな時、視界にオレンジ色の花が見えた。駆け寄ってみると私の好きなマリーゴールドの花。やや沈みかけた太陽の光に照らされて、とてもきれいだった。

 私は花に自分の鼻を近づける。自然と笑みも浮かんだ。やはりこの花は格別だ。


「見てください、私の好きな」


 顔を彼に向けながら「花」と続けようとした時、カシャッと写真音がなった。突然のことに驚き目を見開くと、いつの間にやら彼がスマホを構え写真を撮っていたのだ。そして彼はしばらく撮れた一枚の写真を眺める。


「君はいつも素敵な笑顔をする」


 そう言って小さく自然な笑みをこぼした彼の姿に、自身に感じたグッと詰まるような胸の疼きは今でもはっきり覚えている。多分、あの時が本当の意味で彼に落ちた瞬間だろう。







 それから数年のうち――


 私たちは夫婦になり、しばらくの間仕事から離れ、自然の多い場所で安い一軒家を買って二人で過ごしていた。

 子供は恵まれなかったけれど、二人で過ごした時間はとても充実していて、時々見せてくれるようになった笑顔は、私にとってかけがえのない時間だった。


 私たちの家には小さいけど庭があって、その一帯を座って見渡せる縁側があった。私は彼の隣に座り、所々に咲く花を静かに眺める。


「君は少し自分勝手だ」

「あら、今気づいたんですか?」

「あんなに人を振り回しておいて、俺の最初の求婚に答えてくれなかったんだから」

「ふふっ、すみません」

「でも、そんな君の傍にいたいと思った俺も自分勝手だ」

「そんなことないですよ。あなたは心の底から優しい人だわ」


 私は立ち上がって、庭の景色を視界から隠すように彼の前に立ってみます。

 けれど、その瞳には――


 もう私の姿は


 それを切なく思いつつ、私は部屋の奥にある小さな木の建造物を見やる。


 そこにはまだあげたばかりの線香と、小さな花が一凛、瓶の中に生けられていた――そう。私の仏壇。


 私は幼い時から身体が弱い子だった。もともと免疫機能が一般の人よりも弱く、病院で過ごすことが多い人生だったのだ。一時期は病院での治療のおかげで、普通の人と同様に生活できるようになっていたのだが、ある違和感から病院に受診してみると、詳細不明の疾患が見つかってしまった。

 どうやら徐々に内蔵機能が衰退していってしまう疾患らしく、治療方法はまだ見つかっていないものだという。子供の頃の経験があってか、私はそれを聞いてもあまり驚かず、不思議とどこか「とうとうか」という気持ちだった。


 けれど、彼と出会ってしまって、たくさんの願い事もできてしまってからは、生きたいという思いが芽生えてしまった。


 初めて求婚されたとき、とても嬉しかった。けれど、いつ身体が動かなくなるかわからない私の世話などさせたくはなくて、断るしかなかった。


 なのに彼は意外にも引き下がらなかった。

 それまでの私の行動と彼の行動が、それを機に逆転してしまったかのようだった。


 嬉しいような、離れて欲しいような複雑な気持ちのなか、私は彼にすべてを話した。けれど彼は受け入れてくれた。変わらず傍にいると、そう言ってくれたことが、素直にとても嬉しかった。


 彼はその言葉の通り、最後まで私の手を握り傍にいてくれた。今になっても、その感覚が手に残っているかのようだ。決して忘れたくない、私の大切な思い出。


 私はそっと彼の頬に手を伸ばし、自分の額を彼のそれと合わせる。そして目を閉じ静かに彼を感じていた。


惺花さとか


 ふと彼が私の名前を呼ぶ声が聞こえ、私は静かに「はい」と答える。


「俺は今日も笑うよ。だから安心してくれ」


 そして、今ではもう慣れた小さな笑みを浮かべて言う。


「いつまでも、君の事を想っている」


 感覚などもうあるはずがないのに、鼻と目の奥がギュッとする。私は彼の額から顔を離しつつ、もう一度「はい」と答えた。その声は少し震えてしまっていた。けれどこの言葉を私もあなたに伝えたい。


「私も、あなたをずっと愛しています」


 彼の瞳には何も映らない。けれど、不思議と目が合っているように感じた。



〈完〉


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