第五章
恵志と詩苑は結ばれました。
めでたしめでたし。とは、簡単にはならなかった。
『怪盗の恋』の舞台の成功のため、二人はしばらくの間、恋のままごとをすることになった。
恵志が気持ちを理解するため、感情を外に出す練習のためである。
言い訳のように聞こえるが、いったんはそういう形をとっているのだ。
当の恵志は大変満足な顔をして、あくる日食堂で詩苑と向かい合って昼食を取っていた。
若干の学生たちからの好奇の目にさらされながらも、端にある二人席の小さな机で真向かいにいる詩苑の顔を見ながら、日替わりトッピングの当たり食材であるから揚げが乗ったカレーライスをにこにこと頬張る。
「うまいな! 恋人同士で食べるランチって最高!」
恵志が喜んで食べている間、詩苑は彼の心底嬉しそうな顔とは裏腹に周りの視線に耐えかねてげんなりとしていた。
「目立つ君と食べる僕の肩身の狭さに気付いてほしい……というか堂々と恋人って言うのやめてほしいんだけど」
「怪盗だって、きっとこの状況を姫と過ごしていたら、そう言っただろうよ。ははは!」
「君のそういうあっけらかんなところ、好きだし嫌い……」
「その『好き』は舞台に使えるやつか?」
「さあね。来月再演の予定がなかったら、今、恵志との昼食付き合ってないからね」
「あはは、そう言いながらも向き合って食べてくれる詩苑のこと大好き~あと名前呼び最高~」
恵志は今の状況に大変満足していた。
目の前に好きな人がいるというだけで、詩苑の周りの照明が強く感じてしまう。
これが能動的に愛するということかもしれない、恋って最高かもしれない! と恵志はなぜ今までわからなかったのか疑問に思うほどだった。
最高のシチュエーション、最高のパートナー、もう他に言うこともなし。
恵志がにまにまとしている中、目の前の詩苑は、購買で買ってきたサンドイッチの入ったプラスチックの細長い箱を開けた。
そして、思い出したようにかばんから除菌シートを取り出して、自分の手を拭き、恵志にも一枚差し出した。
「はい」
「手、あとでつなぐもんな~ありがとう~」
「また君はそういうことを言う……。早く拭いてもらえる?」
「手、つなぎたくないの?」
「ノーコメント」
恵志の爛々とした瞳を受けた詩苑は、逃げるように手元にある長細いサンドイッチを小鳥がついばむくらいの小ささで口に入れ、何度も咀嚼した。
恋人っぽい。なんて恋人っぽいのだろうか……と感慨深く、詩苑からもらった手拭きで拭いていると、ふと、恵志は、先日図書室で恋の本にまみれていたときのことを思い出した。
「そういえば俺たちみたいに男同士で恋してる作品、図書室じゃあまり見つからなかったんだよな」
「匂わせるようなものなら、探してみれば古典でも結構あるよ。なに、気になっているの?」
「せっかくだし、どんな感じなんだろうなと」
「最近は結構メディア化が多くなっているよ。映画とか」
「映画! 今日見に行かないか? 大我先輩には詩苑と演技の勉強ってことを伝えてサークル休むからさ」
恵志の提案にサンドイッチをもそもそと食べ進めていた詩苑は手を止めて小さくうなずいた。
「勉強ということなら、まぁ……お供してもいいかもしれない」
「本当か! じゃあ初デートは映画鑑賞ってことで~」
「でっ……デートと改めて言われると……」
詩苑は慣れない「デート」という言葉の羅列に戸惑いつつも、映画鑑賞は賛成のようで「とりあえず、今やってる映画、調べてみよう」と言った。
詩苑がポケットからスマホを取り出し、恵志に見えるように机の上に置いて、近所の映画館の上映スケジュールを出す。
しかし残念ながら、近くの劇場では、男性同士の恋愛物語が上映されていることはなかった。
「タイミングが悪かったか~」
大げさに手を額に当てて悔しがる恵志を横目に、詩苑は仕方ない、という風に肩をすくめた。
「最近映画館で上映する期間も短くなっているからね。僕だって、今観ている映画はほぼサブスク配信で観てるし……」
「サブスク、確かになぁ……あっ!」
思い出したように恵志が派手な音を立てて椅子を引き、銀色のスプーンを高々と上げてから詩苑に提案した。
「俺の家に来る!? ちょうどいい部屋があったんだわ」
「家……家!?」
「おう!」
動揺する詩苑の思いなんて露知らず、恵志は純粋に良い案を思いついたように屈託なく笑ったのだった。
昼休憩のランチが終わり、その後の講義が恵志も詩苑もなかったので、さっそく恵志の家に行くことになった。
「俺、行く気満々だったけど、詩苑今日は何も用事はないよな?」
恵志の一応の問いかけに、詩苑は眼鏡のふちを押さえつつうなずいた。
「無いけど……。でも、恵志の家ってどこにあるんだ。電車とかで行くのか」
「迎え呼んだから大丈夫だぞ! 門の前にいるのは、俺の執事だ!」
「おおよそ、現実世界で聞かない言葉が聞こえたような……」
「おーい、佐原~! こいつが俺の恋人~」
「掴むな」
恵志が戸惑う詩苑の白い手を掴み、大きく上に振り回すと、艶のある黒いリムジンの前に立っていた、これまた黒いスーツの「佐原」と呼ばれた男性は、目を見開き、白い細身の手袋をつけた手のひらで口元を覆った。
「恵志坊ちゃんがついに……ご学友をお連れになるなんて……!? この佐原、大変感動してしまい……涙が止まりません……!」
「友達じゃないぞ、恋人だぞ」
恵志は訂正しながら、詩苑の手を強く握った。
佐原は、恵志の様子を見て慌てたように「そうでしたね。恋人でございました」と言いなおした。
「詩苑さま、お噂はかねがね。さぁさぁお入りください。恵志坊ちゃんも後部座席にご一緒にお座りになりますか」
「もちろん!」
きっちりと七三分けされた黒髪を乱さず、佐原は涙をぬぐってから、後部座席の扉をうやうやしく開けたのだった。
突然黒光りする車の登場にざわつく門の前を滑らかな運転音で通り過ぎ、恵志の家へ向かっていった。
「佐原さんって、思ったより僕たちと歳は変わらなそうな方?」
詩苑が恵志にこっそりと耳打ちすると、恵志は愉快そうに笑った。
「佐原、四十代だぞ」
「ええっ見えない……」
こそこそと話す二人の楽し気な様子がバックミラーから見えたのか、前で運転している佐原がくすりと笑った。
「それにしても真面目そうなお方で驚きました。恵志坊ちゃんに近づく方は大体お金目当ての方ばかりでしたので」
佐原の発言に、恵志は不思議そうに返す。
「そうか? みんなは良いやつだったけどな。でも、車に乗れたのは詩苑だけだな」
「どういうことなの」
「いやぁ、不思議なことにさぁ。たまに仲良くなりたいって子を家に誘ったこともあったんだけど、みんななぜか当日急用ができたり体調を崩したりで、誰も来れなかったんだよなぁ」
「そうですね。佐原も今回ばかりは手をくださずに済んで……おっと、信号が赤に」
にこりとバックミラーから見える佐原の含みのある微笑みは、明らかに今までの来れない理由に関係している気がした。
自分も、佐原さんの逆鱗に触れたら、もしかしたら何かあったかもしれない……と恐怖を隠しつつ、詩苑は窓越しの景色に目を逸らした。
だんだんと閑静な住宅街を抜けたところで、車はペースを落としていた。
無事に着いたのか、と思ったが、自分の背丈より大きい門を車越しに確認して、思わずたじろいでいた。
「いや、なに、ここ、町?」
「家だぞ。上に監視カメラがあるだろ。顔認証しないと中に入れないからセキュリティはばっちりだ!」
「どうなってるの」
詩苑が目を見張っている間に、恵志の顔を確認したのか重厚な門は開き、車は道なりをぐんぐんと進んでいった。
恵志の家は「家」と呼んでていいかわからないほど洗練された豪邸だった。
広大な敷地は町の一角を生み出しているようで、詩苑は入ってすぐに「とんでもない場所に来てしまったな……」と肩身が狭くなったが、恵志は詩苑の焦りも知らず、いつ詩苑と手がつなげるかな、なんて思いながら、初めて恋人が家に来たという事実に浮かれていた。
「別棟にシアター室があるから、そこまで連れていってもらおう。佐原~頼むな」
「お任せください。ポップコーンもジュースも用意しております。本日、シェフも詩苑さまがいらっしゃることを大層喜んでおりまして、特別にフルーツ盛り合わせも備え付けておりますので、ぜひご賞味くださいね」
「やった~!」
詩苑は規格外のおもてなしに、何も言えずに口元を上げることしかできなかった。
「それでは、またお時間になりましたらお呼びください。くれぐれも、良識の範囲内でお楽しみくださいね」
佐原は「信じておりますからね、詩苑さま」という言葉を残して詩苑の背筋を凍らせるような笑みをひとつ浮かべ、車で別棟を後にした。
「それじゃあ早速見に行くぞ~」
恵志が重みのある扉を開けて、黒い壁に囲まれた少し薄暗い室内の中に入ったので、詩苑もあとに続いた。
目の前には薄い布製のスクリーンが軽く波打っている。
やわらかな黒の絨毯を踏んで進んでいくと、スクリーンの目の前に革張りの大きなソファとガラスの机がひとつあった。
机の上には塩とキャラメル、チョコのポップコーンと、六種類ほどの飲み物がそれぞれ入ったピッチャー、ガラスのコップ二つとストローが並んでいる。
さらに、鮮やかに輝くいちごやキウイ、パイナップルにメロンなど、みずみずしいフルーツの盛り合わせが中央にどんと置いてあった。
さすがに自分の想像以上にものがあったのであろう恵志も歓迎の意を示すもので埋め尽くされた机に引いていた。
「いやぁ、これは使用人たちが盛り上がってるな……」
「そもそも恵志の家が豪邸なんて知らなかったんだけど……」
「え!? 驚かせたか!? 確かにちょっと大きいとは思うが」
「ちょっと……!? というか……来るだけで緊張したよ……」
へなへなとソファに座り込み、肩を落とした詩苑を見て焦った恵志は急いでピッチャーを手に取った。
「ジュース、なにか飲むか!? コーラとか?」
「炭酸が苦手で……アイスティーとか……オレンジジュースとか……」
「どっちもある!! とりあえず飲め飲め!!」
オレンジジュースとアイスティーを同時にグラスに注ぎ、恵志が差し出すと、弱々し気に受け取った詩苑は一口飲んでぽつりと「これじゃオレンジティーだな……」とぼやいた。
「映画見るだけと思ってきたのに、こんなことになるなんて思わなかったよ」
詩苑が落ち込んでいるのかと思った恵志は、申し訳なさそうに頭を掻いた。
「その……すまん、もしかしてだめだったか。俺調子に乗って張り切りすぎて、使用人全員に恋人が来るって行ったら、総出で喜んじゃって」
「そこ、なんだけど」
「そこ? どこだ」
「恋人っていう点、なんだけど」
「あっそういえばまだお試しだったから?」
「そういうこと、よりも……」
微かに冷房の音がする中、詩苑は小さくつぶやいた。
「恋人ってちゃんと紹介するんだと、思って……驚いた」
「そりゃするよ。詩苑は、俺の恋人だろ」
「そうだけど、そうなんだけど……」
「なんだ?」
「僕、男じゃないか」
ガラスのコップを握りしめた詩苑は不安そうに揺れる瞳をコップの底に映した。
「君は、照れとか恥ずかしさとか、ないのか? 食堂だって堂々とデートなんて言うし、人気者の君に、悪いうわさなんて立ったら……嫌だろ。使用人さんにも、佐原さんにも恋人って言っているし。友達で通してくれても良かったのに」
口を噤んだ詩苑の不安を拭いたくて、恵志は彼の隣に座り、黙って肩を寄せた。
それでも詩苑はまだ俯いたままだったので、「詩苑。こっち、向いて」と恵志が言うと、弱々しげに、詩苑は恵志に揺れる瞳を向けた。
「どうして、周りの気持ちを気にするんだ。付き合っているのは俺と詩苑で、俺たちの気持ちが一番だろ。誰が何を思っても、俺は構わないよ」
「でも……」
恵志は、詩苑の肩を引き寄せ、そのまま強く抱きしめた。
「俺は、好きな人を、ちゃんと『好きな人だ』って誰かに言えない方が、辛いよ。それは、おかしいことなのか?」
恵志は、そのまま詩苑の肩にもぐるように顔をうずめた。
「詩苑がそばにいない方が、俺はずっと傷つくよ」
「……ありがとう」
詩苑は、ささやくように言ってから、恵志の腰に手を回し、距離を詰めた。
恵志の手も、支えるように力が入る。
ぼんやりと灯る柔らかなスクリーンの光が、二人を包む。
二人はそのまま、しばらく互いのぬくもりと心臓の動きを感じていた。
ただ、愛する者同士が、静かに互いを受け止めていた。
恵志と詩苑はそのままソファに隣同士で座り、目的の映画を見た。
どれを見たら良いのかわからず、結局スマホからおすすめ映画を探し出し、一時間半くらいだし、ちょうどいいかもしれないという理由でイギリスが舞台の全寮制の男子学生同士の恋愛映画を見始めた。
同性愛が禁止されている全寮制の学内が舞台の物語の冒頭で、同性愛者だと知られた人物が首を吊って自殺し、隠れて愛し合う主人公たちは実社会で同性を好きなばかりに晒され不幸になる様子を見て、映画が終わる頃には恵志は呆気に取られてしまった。
「どうして好き同士なのにこんなに悲しい結末なんだ!? 詩苑が不安がるのも無理ないな!?」
「昔の洋画とか特に、幸せな結末を迎えることって少ないよ」
そう言いながら、詩苑は新しく注ぎなおしたアイスティーを口に含んだ。
時間が経ち、少し氷で薄まっていたが、良い茶葉を使っているのだろう、ほんのり甘い香りが漂い、詩苑の喉を心地よく潤した。
「俺、感情移入しすぎて勉強として見られなかった……」
「そのくらい自然体ってことでしょ。ある意味良い映画を見たってことになるじゃない」
恵志はまだ映画の結末に納得がいってないのか、腕を組みながら不服そうに頬を膨らませた。
「これからは幸せになることもあるって作品が増えてほしいよな、俺たちが道を作るしかないか……」
「まだ付き合ってほんの数日なのに恵志は自信満々だな」
「そりゃあ、俺たちの愛は超ビッグだからな」
誇らしげに手を腰に当て、胸を張って言い切る恵志は、本気で言っているようだった。
その様子を見た詩苑は、つい表情を緩めたが、同時に表情を引きしめ、「あのさ、恵志」と恐る恐る彼を呼んだ。
「今の恵志になら、話せることがあるんだけど」
「おう、なんだなんだ。詩苑の話なら何でも聞くぜ」
「……『怪盗の恋』の話なんだけど」
「怪盗の恋について!?」
詩苑が挙げた、演目の脚本についての話に興味津々の恵志を見てから、詩苑は秘密を打ち明けるようにゆっくりと話し出した。
「怪盗が奪おうとした恋する相手は、姫じゃなくて、本当は王子の予定だったんだ」
「王子……王子!?」
詩苑が静かに話し始めると、恵志は彼の言葉に引き込まれるように耳を傾けた。
「ずっと、誰にも言わなかったけれど、僕は、昔から同性に惹かれていた。でもある日抑えきれずに、物語としてなら伝えられるかもって、新人賞に応募した」
話し慣れていないのか、何度も膝の上で詩苑は手の指を組み替えながら緊張を和らげようとしているようだった。
「その作品は、書籍化も決まっていたんだよ。でも、改稿が条件で、譲れないことがあった」
「どんなことを言われたんだ」
「……王子を、姫に変えて異性の恋愛作品にしてほしいって」
詩苑は心の奥底にあった思いを吐き出すように、口に出したあと、ゆるく長いため息を吐いた。
彼の言葉は空気を重くし、恵志は、言葉を失ってしまう。
登場人物を変えてしまったら、それはもう、全く別物になってしまうことは明らかだった。
「担当の人から、『君は『そういう人』なんだろう? 同性愛の物語は奇抜だったから受賞したけど、もっと多くの人に読んでもらうために、普通の恋愛作品にしてほしい』って言われた」
詩苑の書く物語が否定されたように感じ、恵志は思わず彼の手を握りしめた。
「そんなひどい言葉を、黙って聞いてたのか?」
詩苑は、小刻みに肩を震わせながら、組んでいた指を食い込ませるように強く握りしめる。
「身動きができないくらい、ショックだったんだ。物珍しそうな視線を受けてから、自分を見る視線に敏感になってしまった。だから今日も……誰かの目を気にしてしまった。ごめん」
恵志は詩苑の手を優しくなでるように触れ、彼が少しでも落ち着けるよう願った。
「謝らないで。自分の気持ちを押し殺せ、なんて言葉を受けたら、辛いよ」
詩苑は静かにうなずき、視線を上げた。
「演劇サークルに出した脚本は、結局日の目を見なかった書き換えた方の、怪盗と姫の物語だ。王子という存在を気にしてしまうと、あの日のことを思い出して辛かったから最初から登場させるのも辞めた」
確かに、怪盗の恋の中でも、王子役は書いていなかった。
最初、恵志は、怪盗と姫に重点を置くのかなと思ったが、そんな理由があるとは思わなかった。
「でも、本当は、怪盗と王子の舞台が見たいんだろう?」
詩苑はしばらく黙り込み、目を伏せた。心の奥に秘めた思いが、今にも溢れ出しそうだったが、詩苑はその思いを飲み込んだ。
「……もう、いいんだ。僕は、この作品で恵志に会えたから。それだけで十分」
横並びに座っていた詩苑はふいに顔を上げて、恵志の瞳を見つめた。
淡いスクリーンの光が二人を照らす中、軽く恵志の頬に、詩苑は微かに震える唇を寄せた。
緊張と愛情が入り交じった、優しい口づけだった。
佐原の運転で、詩苑の住む住宅街の並びにある五階建てのマンションの手前で車が止まるまで、恵志と詩苑の手のひらはずっと繋がれたまま、詩苑も振り払うそぶりをしなかった。
やがて車が緩やかに止まり、佐原は詩苑に声を掛けた。
「着きましたよ」
「ありがとうございます、佐原さん」
佐原が、運転席を降りて、後部座席の扉を開けようとすると、恵志は「待って」と言って、佐原を止めた。
「俺が開けるから、佐原は中で待っていて」
恵志は自分から降り、詩苑側の扉を外から開けた。
「……ありがとう」
おずおずとお礼を言いながら、詩苑が降りたことを確認してから、恵志は扉を閉める。
車に背を向けてから、恵志は詩苑に真面目な表情を向けた。
「詩苑。不安になったら、いつでも言ってくれよ」
「うん」
「あと、怪盗の恋についても」
「その話は、もういいよ。恵志は今ある脚本を、全力で演じてほしい」
「……でも」
何か言いたげな恵志を遮るように、詩苑はゆっくり首を振って、「また明日ね」とひとつつぶやき、マンションに向かって歩き出した。
恵志は、徐々に小さくなる詩苑に手を振ることしか出来なかった。
助手席に戻ると、佐原は恵志をちらりと見た。
「キスの一つでもして帰ったら良かったのでは?」
「したかったよ、でも、佐原、隠し撮りとかして両親に見せるだろ」
「おや、なぜわかったのですか。隠し撮りなんてとんでもない。成長の記録でございます」
隣で細い目をさらに細くして、狐のように微笑む佐原は、そのままハンドルを握り、車をスムーズに進ませた。
「佐原はさ、俺が詩苑と付き合っていること、何か反対しようとかは思わなかったのか」
恵志は、つい気になって問いかけると、佐原は間髪入れずに言った。
「しませんよ。雇用主の息子さんの恋愛に口は挟めません」
「たまにおまえドライだよな……」
「まぁ送った分、今日は残業になったかな、くらいには思いますが、残業代は送る相手が男女どちらでも変わりませんし」
街灯の光が、恵志の頬をかすめていく。
恵志は、夜に染まっていく街を眺めながらつい内心思っていたことを口に出してしまった。
「俺と詩苑の恋は、そんなに陰で隠れてこそこそしなきゃいけないものなのか」
「どうなんでしょうね」
佐原は、恵志の質問に肯定も否定もせず、運転を続けた。
「ただ、あなたは恵まれているとは思いますよ。きっとこの先ずっと付き合い続けても、ご主人様や奥様、どちらもあなたのことを信用しております。きっとあなたのお人柄なら、周りも納得されるでしょうし、何か言われてもすぐ言い返せる度量もお持ちです」
「なんでそんなにわかるんだ」
「恵志坊ちゃんのことは、ずっと見てますからね」
確かに、恵志が生まれて間もない頃から、佐原は、この屋敷に仕えていた。
幼少期から忙しい親に代わって、ずっと隣にいた執事に言われてしまうと、恵志は何も言えずに苦笑いを浮かべた。
同時に不安が胸をよぎる。
「俺と付き合って、詩苑に不安な表情が増えるのは、嫌だな。どうしたらずっと笑顔でいてくれるかな」
信号が赤になり、ブレーキを踏んでから、恵志のいる助手席に佐原は視線を投げかけた。
「付き合い続けるというのは、同性異性に関わらず、一方的な考えだけでは続きません。お二人の思いが本当の意味で一緒になる日に、初めて結ばれたと言えるのではないでしょうか」
恵志は、一瞬言葉を失った。
「佐原って恋愛のスペシャリストだったりする?」
「あなたよりは何回も失敗して成功してますからね。恋を語れる人は、大体一度痛い目見た人ばかりですよ」
そう言って、佐原はハンドルを握っている左手の薬指に光る銀色のリングを軽く恵志に見せつけるように揺らした。その指輪が彼の過去を物語るようにも感じた。
「人間、最初の傷が癒えないと、本当の意味で前に進むことができませんよ。そのきっかけを与えるのは、これから詩苑さまとともに歩む予定の恵志さまではありませんか?」
信号が青になったことを確認し、その言葉を最後に、また運転に集中するように口を閉じた。
ゆっくりと車が直進していく中、恵志は考え事をまとめるように、窓に寄りかかる。
詩苑と乗り越えなければならない問題がある。
本当に彼が書きたかった物語を、恵志は知ってしまったから。
変えられた今の物語は、詩苑が本当に見たいもの、なのか。
詩苑が、舞台の成功を願っていることを、知っている。たくさんの人が納得する展開を、客席も望んでいる。
でも、愛する人が望む気持ちを、伝えきれずに舞台を終えても、演者として、本当に良いのだろうか。
それが本当の意味で、詩苑を支えることにつながるのかと。
話を聞いてから生まれた不安を、恵志はまだ拭えずにいたのだった。
スポットライト・ロマンス 矢神うた @8gamiuta
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