ふらふらと社を後にし、ねぐらにしている街外れの小屋に戻ったコウは、一晩中、まんじりともせずに考え続けた。やしろの主はもう寄進は不要だとはっきりとそう告げた。だが、その容姿に変化はあったが、社は相変わらず朽ちかけているし、コウ以外に社を訪れる者もないままだ。

 コウは右手を持ち上げて手のひらを見る。五指の先、小さな切り傷や擦り傷まで、すべてがくっきりと目に映る――まだ。

 あらゆるものに触れ、その感触を確かめることで世界のありようを知ってきた。今、こうして見える目を手に入れてもそれは変わらない。だから、この目をまた失うとしても、大きな違いはないだろう。元のぼんやりとした世界に戻るだけ。


 ——本当にそうだろうか。


 四方を飾る四色の要。斜方を封じる楓の芯材の柱。四蹟が社殿を取り囲む神庭。厳重に封じたそれらが綻びている。そう言っていたのに、いずれの修復をも望みもせず、求めたのはささやかな寄進のみ。

 得たものといえば、コウが摘んで飾った花々と清らかな水。あとは、人から分け与えられた菓子。高価なものなど一つもなく、野や街にある何の変哲もない、自然と人の営みの中にあるものだけ。

 代わりにコウが得たのは、はるか遠くさえも見通せ、鮮やかな色彩を感じられる日々。この世のものではない美貌と星を宿したような瞳に見つめられ、さりとて他愛ない会話ばかりをかわして過ごす穏やかな時間は何ものにも替え難いものではなかったか。

 封じが解かれることを望んではいない——とは言っていなかった。ただ、封じが解けた時に、荒魂に飲み込まれることを懸念していた。ならば、荒魂に飲み込まれないだけの力を取り戻した後なら封じが解かれることは望み通りであったのだろうか。


 不意にドォンと唐突に突き上げるような衝撃が走った。ぐらりと視界全体が揺れ、小屋の壁がみしみしと鳴る。コウは布団の中で縮こまったが揺れは大きくなるばかりで一向に止む気配がない。このまま揺れ続ければこんな小屋など崩れ落ちてしまうだろう。ふと、コウは直観する。

 唐突に現れた、千年の昔に封じられた神。わずかな寄進だけを求め、朽ちかけた社の復興を望むでもなく、ただ、荒魂に飲み込まれることだけを懸念していた——それは。


 ぐらぐらと地面が揺れ続ける中、コウは跳ね起きるようにして小屋を飛び出した。神を封じた、戦火にも焼かれることのなかった社を守る森へ。

 森の木々が風もないのにゆさゆさと揺れている。ざわめく森の中で、普段はうるさく騒ぎ立てる朝鳴き鳥たちの影も形もない。じっと木陰に隠れているのか、あるいはとうに危険を察知してこの地から去ったものか。

 生き物の気配のない森の中を駆け抜け、コウが目にしたのは、今にも崩れ落ちようとする古い社の姿だった。

「千晶様!」

 コウがその名を呼んだのは初めてだった。地鳴りとともに傾ぎ揺らいでいた社がほんのわずか、その動きを止めたような気がした。コウはなりふり構わず境内に駆け込み、社殿の奥を目指す。神の座す、最奥の間へ。


「寄進は昨日までと告げたはず」

 色とりどりの花咲く着物を身にまとった神は、祭壇の前でいやに静かな面持ちで座り込んでいた。地の揺らぎも、みしみしと今にも崩れ落ちそうな柱や梁の不穏な音も何も気にした様子もない。まるで子供が自慢の玩具を見せびらかすように、コウが捧げた寄進の木皿を自分を囲むように並べ、どうだとばかりに微笑んでいる。どの皿の花もいまだに鮮やかに色づいて枯れたものは一つとてない。その理由をコウはもうわかっていた。

 封じるにせよ、まつるにせよ、そこには神を知り、畏れ敬う者が必要だ。そうでなければ忘れられ風化して消えていく。

「ここは崩れます、早く外へ」

 そう言って手を差し出したが、相手はふうわりと笑うばかりだ。コウは思わず声を荒らげる。

「知っていたんですか? 今日この日にこんな大きな地揺れが起きることを!?」

「そもそもの始まりだ。一度起きたものならまたいつかは起きるのだろうとは思っていたが、千年とはなかなか気の長い話ではあったな」

「のんきなことを言っている場合ですか! おやしろが崩れればあなたとて無事には済まない。どうか——」

 一歩奥へと踏み込んで、叫ぶようにそう告げたコウに、座した神は不思議そうに首を傾げた。それから、ああ、といつかのように何かに合点したかのように頷いた。

「契りは果たされた。そなたから奪われるものは何もない」

「そんなことを言っているんじゃありません!」

 今度こそ叫んだコウに、相手はきょとんと目を見開いた。まるで初めて叱られてわけがわからないという子供のように。それから、ふと立ち上がりコウの頬に手を伸ばしてきた。初めて触れた時と同じような、温かな、人でしかあり得ないような柔らかな手で。

「たとえひととき、そなたのように寄進をし、ここを支えようというものが現れたとしても、それは永遠に続きはしない」

「それはそうですが——」

 コウの抗議を遮って、封じられていた神はひどく優しく温かく笑う。何よりも、確信と自信に満ちた眼差しで。

「一千年の昔、何があったのか、わたしを畏れ封じた者たちが何をしたのか、そなたに聞かせるつもりはない。だが、そなたのような者たちのおかげでわたしはこまだこうして『わたし』でいられるのだ」

 緩やかに笑って、そっとコウの胸元を押した。出てゆけ、と明確に告げて。

「社が滅びた後、均衡が崩れたこの身が災厄をもたらすのは本意ではなかった」

 そなたのおかげだ、と崩れ始めた社の中で、淡々と言葉を継ぐ。

「どんな社もいつかは滅びる。それでもこれが、決して揺らがぬ最後の構えだ」

 自分の胸元で拳を握り、花がほころぶように笑う。幾重にも組まれた封じよりも遥かに確かに彼女を——その奥に潜む破壊の荒神さえをも縛るもの。

 彼女を慕い、社を直し、祝い事のたびにここを訪れた。それが絶えても降り積もった想いは消えることなく、コウが捧げた供物でさらにその記憶を鮮やかにする。


「このまま消えるおつもりですか? おれはいやです!」

「いずれにせよ、この身に残された力はわずかなもの。祈りも怨嗟も届かぬ今、わたしという存在は遠からず消えていく」

「ならば怨めばいい。あなたは言われなき罪で千年もの間この地に封じられた。あなたにはそうするだけの理がある」

「そうして多くの人に害を為せと?」

「あなたが望まないなら、おれがすべて引き受けます。あなたの怨嗟も呪いもおれがこの身で受け止めます。この目も、耳も声も、あなたに奪われてかまわない! おれひとりで足りないのなら、末代まであなたのために捧げましょう」


 一息に言い切ったコウに、神は呆れたように彼を見つめる。大きな揺れがまた一つ、ドォンと響く。梁がみしりと不穏な音を立て、ぱらぱらと埃が舞い落ちる。


わたしの前で安易な誓いなど立てるものではない。己で支払いきれない代償を賭けるなどもってのほか。ましてや荒神でもいいから残れとは」

 ふわりとその身から淡い光が溢れ出す。神の前で誓った言葉は取り消せない。それが勢いに任せたものであったとしても。

「後悔するぞ」

「しません」

「そなたがせずとも子々孫々に恨まれる」

「おれが申し伝えましょう」

「なにゆえそこまで……」

 それは問いのように見えて、そうではない。それほどに聡く慈しみ深いが故に、ここまで長く封じられてきたのだから。

「預けた石は持っているな?」

 深いため息の後、そう尋ねた声は頑是ない子供を宥める親のようだった。コウは胸元に下げた巾着を握りしめながら頷く。

「ならば祠を作りそれを納めよ。正しく我が身を封じる社が再び造られるときを、気長に待つとしよう。それまでは、足りぬ器はそなたが構えだ――覚悟せよ」

 一際大きな揺れが襲った。柱がばきりと音を立てて折れ、梁が崩れ落ちてくる。呆然と見上げていたのはほんの一瞬。波のように揺れる地面に耐えきれず、膝をついたところでコウの視界は轟音と闇に閉ざされた。


 千年に一度と言われるほどの大きな地揺れに襲われたその日、けれど近くの街はわずかに家のものが倒れる程度で、ほとんどなんの被害もなかった。まるで何かに守られてでもいたかのように。

 一方で、訪れる者とてない神の森、そこにあったはずの社は跡形もないほどに崩れ落ちていたという。

 後には小さな祠が建てられた。南に緋百合、東に竜胆、西に雪白花、北には黒檀桜。四方に花が彫り込まれたその祠を建てた青年は、社の再建のために寄進を募ったが、縁起も知らぬ神のために私財を捧げようという者はほとんどいなかった。わずかに自身と知己とが四季折々の花を供物として捧げていたが、いつしかそれも絶えていった。


 その祠は二百年の時を重ねた今でもそこにある。近隣の人々はその存在を知らぬではなかったが、さりとて訪れる人はほとんどない。ただ、あたりで大きな災害が起きることはほとんどなかったという。


 コウとその子孫がどうなったのかは、さだかではない。

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やがて花と散るとも 橘 紀里 @kiri_tachibana

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