生ハムの原木.2

 ぴぎぃぃぃ、と悲鳴とも異音とも呼べない叫びが鳴り響いた。

 落下防止の柵で囲まれた昇降機の中からだ。


 ボンレスハムのように腐肉を締めつけられた生ハムの原木が、身体を揺さぶって叫んでいた。脂ぎった髪らしきものを振り乱している。

 頭が大きく揺れた表紙に、後頭部に貼り付けられていたと思われる画用紙が、生ハムの原木の顔を覆った。

 紙には五重の円が描かれ、そこかしこに血が染みていた。



 萌香もかが手を叩いて呼びかける。

「みんな、ダーツの時間だよ!」

 再び酔いでふわふわとした歓声がフロアに満ちた。


 萌香はオレンジ色の四角い銃のようなものを取り出す。発射口にベタベタとガムテープを貼ったそれは、日曜大工に使うネイルガンだった。


 萌香と彼氏は肩を寄せ合う。

「指怪我しないようにね」

「平気だって、キィくんと違ってノーコンじゃないもん」



 萌香は西部劇のアウトローのようにネイルガンを構え、引鉄を引いた。


 ばつん、と空気を切る音と風圧が私の頰を掠め、射出された釘が画用紙の円の隅に突き刺さった。生ハムの原木の頬の辺りだろう。赤茶けた紙にドス黒いシミが広がる。

 ぴぃぎぃと、先程より悲痛な鳴き声が響き渡り、周囲から笑いが起こった。


 女どうしで氷を口移しし合っていた少女の片方が立ち上がる。

「じゃあ、次は私」


 少女は言うなり、ブリキのバケツに刺さっていたナイフを一本取って投擲した。

 ナイフは昇降機の柵にぶつかって弧を描き、生ハムの原木の太腿に突き刺さった。青黴だらけのチーズのような足から粘質の水が噴き出し、蛆らしきものが這い出る。


「下手くそ!」

 周囲からブーイングが聞こえた。


 萌香は人々の間を堂々と進み、生ハムの原木に歩み寄ると、脚に刺さったナイフの柄を握った。

 缶切りで蓋を開けるようにギコギコと柄を左右させるたび、廃油色の血が流れ落ちる。昇降機の段差を乗り越えて流れ出した黒い水が、私の足元まで辿り着いた。

 萌香は腐肉ごとナイフを抉り取る。一番甲高い悲鳴が鳴り響いた。



 萌香はべらりとした肉を提げ、私の前に差し出した。

「はい、これ。祭子さいこちゃんママに」

 私は持ってきたゴミ袋で肉を受け取る。べしゃりと冷たく柔らかい感触がビニール越しに伝わった。魚の切り身のようだった。


「ありがとう。でも、いいの?」

「何が? あんなんで生きてるのが人間な訳ないじゃん。どれだけ切っても捕まんないよ」

 萌香の瞳は薄暗い蛍光灯を反射して何重にも渦巻いて見えた。

「それに、萌香にはこうする権利があるから」



 私はそれ以上何も聞かなかった。

 確かに、あれはゴミ捨て場で見たのと同じ生きる死人だろう。死人なら死なないから殺しても罪に問われない。

 それに、萌香は何かの権利を持っているらしい。競馬に馬主がいるように、ゾンビにもゾンビ主がいて、好きにしていいのかもしれない。

 何より、母のための屍肉が手に入らなくなったら困る。


 十六年間の人生で学んだことは、わからないことは黙って見ているに限るということだ。


 少年少女が次々と凶器を手にダーツを始めても、私は黙っていた。

 萌香は踊りながらナイフを振りかぶり、また悲鳴が上がる。誰かが電飾を巻きつけた矢を投げ始め、皆が続いた。生ハムの原木はクリスマスツリーのようだった。



 私の隣に座る嬰司えいじはダーツに参加せず、冷めた目で喧騒を眺めていた。

 横顔を見上げていると、嬰司が急にこちらを向き、私の言葉を待つように首を傾げる。私は何か言おうとした訳ではないので顔を背けた。


 萌香の彼氏と目が合い、私に手招きした。

「祭子ちゃん、だっけ? さっき酒飲んだとき何か口から出してなかった?」

 私は首を横に振った。

「胃液しか吐いてないです」

「本当? もっかい飲んでみてよ」

 赤のカラーコンタクトを入れた目が面白そうに私を見つめ、酒缶を突き出す。


 どうしよう、と思ったとき、横から嬰司の浅黒い腕が伸びた。

「酒ってまだあるのか?」

 萌香の彼氏が目を丸くする。

「買ってこないとないよ。ここにあるのは全部飲みかけ」

「じゃあ、これ俺がもらっていいか?」


 嬰司は薔薇を描いた酒缶を奪い、一気に煽った。

 喉仏が別の生き物のように動く。彼は空の酒缶を机に置くと、私に歯を見せて笑った。



 時刻は深夜零時を回り、ライブハウスの廃墟は更に騒がしくなった。

 赤い顔をした萌香は彼氏にのしかかって管を巻いている。ふたりの少女が嬰司の肩を突くと、彼は二、三言交わして席を立った。

 私はその隙に、腐肉が詰まったビニール袋を抱えて退散した。



 日付を超えて歩く街は、寝る前に眺める窓の外とは違って見えた。

 友人との夜遊びを経験したからだろうか。路地を行き交う酔客に隠れて歩くのは、普通の女子高生になったようで嬉しかった。


 翌朝、母に腐肉を渡すと、何処で手に入れたのか散々問い詰められた。私は同じ境遇の友人に譲ってもらったと嘘をつく。


 母は怪訝な顔をしていたが、これ以上怒る体力がないとばかりに布団に倒れ込むと、腐肉の入ったビニール袋を揺すった。

「私は飢えるよりも、あんたが危ない目に遭う方が辛いからね」


 母はぼやきつつ、腐肉の血を啜り、儀子を抱きしめて眠る。儀子の身体を覆う肉襞が微かに上下して、乳児らしく見えた。

 冷蔵庫には、いつの間にか帰っていた兄が作り置きした惣菜がたくさん入っていた。



 夜の廃墟に侵入してゾンビを虐待しても、ごく普通の月曜日が訪れる。


 萌香は休み時間に私を女子トイレに連れて行き、鏡の前で囁いた。

「祭子ちゃんママ、元気になった?」

「うん、ありがとう。ちゃんと食べてたよ」

「よかった。また分けてあげるからね」


 満足げな萌香は鏡に向かい、前髪にスプレーを吹きかけた。

「そういえば、嬰司くんとはどうなったの?」

「どうもなってないよ」

「えー、いい雰囲気だったのに」

 ピンク色の唇が小さく尖る。


「嬰司くんが自分からあんなに女の子に話しかけるなんて珍しいんだよ。超モテるから」

「そうなんだ」

「セフレはたくさんいるけど彼女は作ってないんだって。祭子ちゃんいけるんじゃない」

「何処に?」

 萌香は声を上げて笑った。私はやっと意味を理解する。


「私は無理だよ」

「そんなことないよ。祭子ちゃん色白美人だし、隠れ巨乳じゃん」

 私の肌が白いのは最高血圧が五十もないせいで、胸が迫り出して見えるのは、他人の一・五倍肋骨が太くて、肺も左右に四つあるせいだが、黙っておいた。


「萌香ちゃんのがずっと可愛いよ」

「もー、祭子ちゃん大好き」



 そのとき、濡れた床のタイルを踏む冷たい足音が響いた。

 女子トイレの入り口を塞ぐように、女子生徒が立っていた。リボンの色が赤だから三年生だ。広い額を出した、気が強そうな女だった。


「ちょっとごめんね。君たち一年何組?」

 萌香が前髪を弄る手を止める。

「三組ですけど」

「私の妹、二組なんだけど知ってる? はらって言うんだけど」

「知りませんけど、どうしたんですか?」


 三年生は考え込む仕草をしてから、かぶりを振った。

「先々週から家に帰ってこないの。同じクラスの子に聞いたけど誰も知らなくて」

「ごめんなさい、わかんないです」

「そう、ありがとう」

 彼女はまだ訝しげに私たちを見比べてから去っていった。


「何あれ、キモっ」

 萌香が舌を出す。あの三年生は何処かで見た顔だと思った。



 女子トイレを出て階段を下ると、ちょうど先程の三年生が保健室に入っていくところだった。

 養護教諭の玖谷くたにが彼女を出迎える。

「妹さん、まだ見つかってないんだね」

 三年生は項垂れるように頷いた。

「今が耐えどきだ。元気をなくしたら駄目だよ。入りなさい」


 玖谷が戸を閉め、ふたりの姿が消える。

 白い引き戸には、先週までなかった貼り紙が貼られていた。

 描かれているのは、奇妙な図形だった。四角い囲いの中に楕円を頂点につけた三角形のようなモチーフだ。



 萌香が首を捻る。

「何これ、古墳? 日本史の教材?」

 確証がある訳でもないのに、この絵は門と鍵だと直感した。

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屍臓冥迷ファミリーユース 木古おうみ @kipplemaker

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