生ハムの原木.1
一週間が平穏に過ぎた頃、母は志津の死体をすっかり食べ終えてしまった。
母は顔色が悪くなり、目も虚で、爪でガリガリと削った机の木材を口に含んだりする。
兄はあれからあまり家に帰ってこなくなった。私が頑張らないといけない。
母は風邪を引いたときも私に弁当を作ってくれた。今度は私が食事を作る番だ。
私は毎日登下校の際に死体を探したが、見つからなかった。
学校でも死体のことばかり考えている。
今日は金曜日だ。土日休みは死体探しに使おう。
門鍵教という教団は死人を生き返らせるらしいから、内部に死体があるかもしれない。話を聞いてみようか。
鞄に教科書を詰め、帰り支度をしていると、萌香が言った。
「元気ないね?」
「死体が見つからなくて、母さんのご飯がないんだ」
萌香は耳朶を埋め尽くしたピアスを弄り、しばらく考え込んで唸る。
「祭子ちゃんは萌香が何してても嫌いにならない?」
「ならない」
「ほんとにほんと?」
「ならないよ」
私が頷くと、萌香は舌のピアスを覗かせて笑った。
「じゃあ、萌香の秘密教えてあげる」
「嬉しいけど、今は死体の在処を知りたいんだ」
「両方わかるよ。今日の夜、お洒落してきてね」
萌香との約束の時間は夜九時だ。家に帰ってもまだ余裕がある。こんな時間に出かけるのは初めてだ。
私はスーパーマーケットに行き、青白いスーパーマーケットの精肉コーナーで、できるだけ発泡スチロールに血が染みている牛肉を選んで買った。母曰く、血を呑めるだけでもマシになるらしい。
台所で牛肉から血を搾っていると、触手でフローリングを掴みながらよたよたと儀子が歩いてきた。
肉の塊をぷるんと揺らし、擦り寄ってくる。
私は両手が塞がっているので肘で撫でた。
「今、母さんのご飯を作ってるからね」
「いあ、いあ……」
儀子が身体を震わせる。
「嫌なの?」
廊下から母が顔を覗かせた。
「嫌じゃないよ、呼んでるだけ」
肌はほとんど死人の色だ。志津の部屋で寝ていたらしく、寝癖と皮脂でベタついた髪が毛糸のようだった。
「何してんの?」
「血を搾ってる」
母は私の手元の発泡スチロールと牛肉を見てふっと笑った。
「それはドリップ。血じゃなくて肉汁だよ」
血じゃないなら効果がないかもしれない。私は諦め、母からもらった黒いワンピースにドリップがつかないよう手を洗う。
「あんたどうしたの。そんなにお洒落して」
「友だちの家に遊びに行くの」
「だったら、こんなことしてちゃ駄目でしょ。おいで、髪結んであげるから」
母は私を座らせ、左肩に髪を編み始めた。青白い指が首筋に触れて心地よかった。
「母さん、死体……」
「あんたは心配しなくていいの。勉強して、友だちと遊んで、彼氏でも彼女でも作って楽しく生きなさい」
「そうじゃなくて、死体が手に入るかも」
「何? 危ないことするんじゃないよ。親は子どもに先立たれるより悲しいことなんかないんだからね」
私は母と儀子の体温を感じながら俯いた。
こんな夜に遊びに行くのは初めてだった。
飲み屋街には怒鳴り声に似た笑い声が響き渡り、半袖の店員が腕に鳥肌を立てながらビールケースを運んでいる。
路地から黄色いジャンパーを着た大人たちが歩いてきた。中には岡野先生も混じっていた。
最近、治安が悪いから、夜に見回りをしていると聞いたことがある。
私は蹲るように顔を隠して逃げた。
先生のようなひとたちは悪いひとから弱いひとを守るのだ。私は弱くないし、これから死体をもらいに行くから犯罪者になる。先生たちにとっては捕まえるべき悪いひとだ。
萌香との約束の場所は、去年廃業した、雑居ビルのライブハウスだった。
鉄柵の向こうには廃材や折れた看板、真っ二つのアンプ、女性用下着が散らばっていた。
ロックが壊れた南京錠と錆びたチェーンを外し、傾いた扉を押す。
熱気と甘い匂いを煮詰めたような、思い空気が押し寄せた。
ライブハウスの中は、ズタボロの布が暗幕のように幾重も垂れ下がっていた。
床に積み上がる木材とゴミの間に、ウレタンの飛び出たソファがいくつもあり、私と同じくらいの年の子が犇めいている。
カーテンの先で折り重なる男女や、一本の煙草を回し吸いする少年ふたりや、氷を口移しで齧り合う少女ふたりがいた。
入り口で立ち尽くしていると、聞き慣れた声が響いた。
「こっちこっち!」
最奥のソファに萌香がいた。肩が大きく開いた赤のレースのワンピースはいつもより大人びて見えた。隣にはおかっぱみたいな髪を銀色に染めた、中性的な少年がいた。
私は澱んだ目で酩酊する少年少女の間を縫っても萌香に駆け寄る。
「祭子ちゃん、お洒落して来てくれたんだね」
「萌香ちゃんも今日大人っぽいね」
「ほんと、嬉しい! 聞いた、キィくん? 最近全然褒めてくれないじゃん」
萌香が銀髪の少年を小突く。少年は苦笑した。
「可愛いよ」
「何か義務的!」
笑いながら、萌香は私に少年を押し出して見せた。
「紹介するね、彼氏のキィくん」
少年はよろしくと微笑し、電子タバコを吸ってガムのような香りの煙を吐いた。
廃墟のライブハウスをどろりとした煙が流れ、全てが蜃気楼のように見える。今の萌香は私の友だちじゃなく、ここの見知らぬ一員になっていた。
ひどく場違いな気分だ。
独りきりで言葉の通じない外国に放り込まれたようだった。
棒立ちの私に、萌香がテーブルの缶の山を指す。
「何か呑む?」
私は緊張を紛らわすため、薔薇の絵のピンク色の缶を掴んだ。プルトップを引いて一気に煽った。
「それお酒だけど平気?」
萌香の声がトンネルの中で反響したように聞こえた。
全身の血が逆流する音が聞こえる。身体が熱く、目の前に波状の光が走った。喉奥を何かが全速力で駆け上がり、私の口から飛び出た。
身を折った私の爪先に雫が跳ねる。
透明な胃液の中に赤と緑の目玉がひとつずつ浮かび、私をぎょろりと睨んだ。
萌香が私の背中を摩る。
「祭子ちゃん! 大丈夫?」
「だ、大丈夫」
私は咄嗟に目玉を靴底で隠して目玉を踏み潰す。緑の方は寒天のように崩れたが、赤い方は転がっていってしまった。
私は壁に手をついて目玉を追いかけた。七色の波が視界を歪ませる。
中二階の錆びた階段を踏み締める靴音が近づいてきた。脳がガンガンと揺れる。
黒革の靴先が視界の隅から伸び、ささくれた床に転がる眼球を蹴った。
「……目玉か?」
大人の男の声だと思った。
重い頭を上げる。色黒な男が私を見下ろしていた。
波打つ視界で、彼だけはっきりと浮き出していた。
シャツの襟を心臓の辺りまで開けて、痩せた胸の肋骨の窪みまでよく見えた。
夜の海に似た目が私を見下ろしていた。
私は慌てて目玉を踏み潰す。
「目玉じゃないです。これは、タピオカです。タピオカを飲んでたんです」
「タピオカで酔ったのかよ」
男は掻き上げ、唇の端を上げて笑った。余分な脂肪が一切ない、肉食獣のような顔立ちだった。
「危ないから座ってな。今すぐひっくり返りそうだ」
男は私の腕を掴み、空いていたソファに座らせる。兄とは違う、骨張った熱い手だった。
男が当然のように私の隣に腰を下ろす。周囲の目が全て私に向けられていた。
ビール片手に萌香が手を振った。
「
色黒な男が答える。
「たぶんな。誰かさんがまたバットで殴らなければ」
「萌香のせいじゃないもん」
私が男を見上げると、萌香が指をさした。
「嬰司くんだよ。高二だから萌香たちの一個上。こんな不良だけど進学校行ってるの」
嬰司が肩を竦めた。
「嬰司くん、その子が祭子ちゃんだよ。萌香の親友だから手出さないでね」
私は脳味噌が二ミリずれたようにぐらつく頭を下げた。
「サイコ? ヒッチコックみたいだな」
「モーテルやってないです」
「知ってるねえ」
嬰司は喉を鳴らして笑う。私とひとつ違いにはとても見えなかった。
突き刺すような視線が徐々に薄くなり、廃墟に喧騒が戻ってきた。
萌香は空のビール缶を投げ捨て、勢いよくソファから立ち上がる。
「みんな、エレベーター直ったって! 今日もやる?」
気怠い歓声が起こった。
私が辺りを見回していると、萌香が瞳孔を歪めて笑った。
「死体、ほしいんでしょ?」
萌香はかつてステージだったであろう歪な台を踏み越え、壁に取り付けられた赤いボタンを押した。
ライブハウス全体が緩やかに振動し、奥の真っ暗な空間に錆びついた滑車とリールが降りてくる。
機材搬入用のエレベーターだ。
どすんと音を立て、昇降機が着地する。
黄色と黒の柵に遮られた函の中で、何かが蠢いていた。
かろうじて人型に見える。
何日も風雨に晒した不法投棄のカーペットのように身体中が青黒く変色して、ささくれ立っていた。
鎖らしきもので何重にも巻かれてもがいているようにも見える。
古い映画のゾンビに似ていた。
「何これ……」
「これね、生ハムの原木」
萌香が指したものは、腐乱して膨れきった少女の死体に見えた。
屍臓冥迷ファミリーユース 木古おうみ @kipplemaker
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