野良犬脊髄剣

 朝起きると、味噌汁の匂いがした。

 夢じゃなかった。本当に母が帰ってきたんだと改めて思う。

 兄は私と同じように「夢じゃなかった」と呟いていた。風呂場にある志津の死体も変わらなかった。



 私は卵かけご飯と味噌汁を食べ、母は台所で志津の右手首をスナック菓子のように齧っていた。

「母さん、人間しか食べないの?」

「人間っていうか、死んだ人間だけね」

「じゃあ、志津さんを食べ終わったらどうするの」

「あんたは心配しなくていいの。この街なら死体なんてどこでも見つかるからね」

 母は苦笑し、歯に挟まった付け爪をシンクに吐き出す。



 家を出る前、志津の部屋だった和室を覗くと、ブランケットをかけた儀子が眠っていた。目も口もないから確証はないが、クマ模様のフリースの布地が微かに上下しているから寝息を立てているはずだ。

 肉の繭の襞から粉ミルクの匂いがした。



 母が作ってくれた弁当を持って家を出ると、門の前で兄が煙草を吸っていた。

「兄さん、朝ご飯食べなくて大丈夫? あんまり寝てないみたいだし」

「お前はよくあの家で寝たり食ったりできるよな」

 兄は殴られたように青黒い目の下を擦る。


「祭子、お袋が死んで化け物みたいな妹を連れ帰ったんだぞ。何とも思わないのかよ」

 私は少し考え、窓の近くに母がいないか確かめてから言った。

「母さん、浮気してたのかな」

「何だって?」

「儀子が六歳なら、バス事故でいなくなる前に生まれてたってことだし」


 兄は大きく溜息を吐く。

「人間を食い殺した死人が今更浮気してたかなんて今更どうでもいいだろ!」

「でも……」

「不倫は民事だけど殺人は刑事事件だぞ!」

 兄は怒鳴りつけると、重そうなリュックを抱えて家を出た。

 法律には詳しくないが、不倫が大した問題じゃないならいいかと思った。第一、父も母が死んですぐ志津と再婚したからおあいこだ。


 私は忘れないように「不倫は民事、殺人は刑事」と唱えながら学校へ向かった。



 昇降口で上履きに履き替えていると、担任の岡野先生と出会した。先生は私を見るなり駆け寄ってくる。

「上井戸さん、昨日大丈夫だったの?」

 私は何を言うべきか迷い、曖昧に頷く。

「妹ができました」

 心底不安そうだった先生は途端に顔を綻ばせた。


「そうだったの! おうちで不幸があったのかと心配しちゃった。おめでとう」

「ありがとうございます」

「そうそう、健康診断だけどね。養護教諭の玖谷くたに先生が特別に保健室でやってくれるっていうから、昼休みに受けてきちゃって」

 途端に嫌な気持ちになった。上手くサボれたと思ったのに。


 昼休み、私はジャージに着替えて保健室に向かった。正午の光が満たす廊下は、窓の埃の影を移して水面のように輝いていた。


 保健室に行くのは初めてだ。

 玖谷先生が前任の養護教諭は、保健室の身長計で首を吊って死んだらしい。

 校内が大騒ぎになり、長い間封鎖され、春にやるはずの健康診断が晩秋の今まで延期されたのもそのせいだ。

 身長計が養護教諭を襲って殺した訳ではないのだから、気にせず使えばいいのにと思った。



 私は保健室の戸をノックしてから開く。

 スツールに白衣の女が腰掛けていた。養護教諭らしくない、影のあるひとだと思った。

 茶色に染めた髪を耳にかけ、スカートのスリットから覗く脚を組んで、本を読んでいる。


 私に気づくと、玖谷先生は微笑を浮かべた。

「上井戸祭子さんだね。話は聞いてるよ。座って」

 玖谷先生は立ち上がり、私の肩を押して座らせる。

 体温が残るビニールの皮が生温かかった。


 玖谷先生は私をしげしげと眺めるだけで、体重も身長も測らない。

「あの……」

 呟きかけたとき、玖谷先生が私の額に触れた。指先は冷たく、香水の匂いが仄かに漂った。


「この角みたいなコブはいつからあるの?」

「生まれたときからです」

「年々大きくなってる?」

「少し……」


 玖谷先生は私の後ろに回り、肩甲骨の形を確かめるように肩に触れると、背筋をそっと撫でた。柔らかい生き物が背中を通り抜けたようだった。

「脊椎が多いし、曲がってるね。医者に何か言われたことは?」

「内臓が多いとか、血液に犬にしかいない寄生虫がいたとか、肺も他人の一・五倍あるとか……」


 湿った笑い声が背後から漏れた。

 玖谷先生は再び私の前に立つと、白衣を探る。ポケットから折り畳み式のナイフが現れた。


「これ、本当に健康診断ですよね」

「勿論。採血するから指を出して」

 玖谷先生は有無を言わさず、私の手を取り、鈍く光るナイフの先端を押し当てた。


 指の皮が突っ張り、刃を拒んだ後、微かな痛みが走った。私の指に沈み込んだナイフの先端から、玉のような赤い雫がぷつりと浮かんで零れ落ちる。


 玖谷は銀色の器で血を受け止めると、白い頰に笑みを浮かべた。

「ありがとう。診断書には全部問題なしと書いておくよ」


 私の血液を小瓶に移しながら、玖谷先生は独り言のように言った。

「君の身体は異常が多いね。でも、悪いことじゃないよ。寧ろいいことだ。他のひとにはないものを持ってる」

「私は普通がいいです」

「若いうちはそう思うかもしれないね。不安なことがあったら相談しにおいで。私も君と同じくらいの息子がいるから、思春期の悩みはわかるよ」


 私は思わず聞き返す。

「本当ですか。二十代かと思っていました」

「ありがとう」

 玖谷先生は切長の目を細めた。


 消毒を受け、傷口に絆創膏を貼ってもらいながら、こんな健康診断は初めてだと思う。随分と楽に済んだ。毎年これでいいのに。



 ジャージの教室に戻り、弁当箱を開くと、萌香が私の向かいの机に座った。

 机の持ち主の眼鏡をかけた男子は一瞬、萌香に咎めるような視線を向けたが、何も言わずに去っていった。


 萌香はクリームパンを齧りながら、私の机に頬杖をつく。

「今日はお弁当捨てないの?」

「うん。本当のお母さんが作ってくれたから」

 私は母が生き返ったこと、志津を食い殺したこと、肉の繭のような妹の儀子ができたことを正直に話す。


 萌香は黒く長い爪で私を指した。

「祭子ちゃん、ヤバいおクスリやってる?」

「飲んでないよ。私、薬はあまり効かないから。もしかして、信じてない?」

「信じるよ。親友だもん」


 萌香は楽しそうに笑う。

「でもさあ、祭子ちゃんママって死体しか食べられなくなっちゃったんでしょ? 大変じゃない?」

「大変だと思う。志津さんを食べ終わったらどうしようかと思って」

 私はふと昨日の朝、通学路で見た死体を思い出した。まだ見つからずに残っているかもしれない。



 放課後、萌香と共に夕暮れの通学路を歩きながら、私は死体を探した。

 ソープランドの前で客引きの男が電子タバコを吸い、首輪のない犬が吠える。


 向かいの歩道で、白装束の集団がメガホンで何かを怒鳴っていた。

「萌香ちゃん、あれ何だろう」

門鍵教もんけんきょうじゃない? 最近流行りの新興宗教。死んだひとが生き返るとか、神の国に行けるとか言ってる奴ら」

「じゃあ、母さんも門鍵教のお陰で生き返ったのかな」

「知らない。でも、ヤバいカルトっぽいよ。前の保険の先生が自殺したのも門鍵教のせいだって」



 私と萌香は路地裏に入る。

 饐えた匂いと、居酒屋の換気扇から吐き出される濁った湯気が満ちていた。


「ここなんだけど……」

 ゴミ溜めの傍の側溝を指す。ベニヤ板は私が外したままになっていた。


 私は黒い水が澱んだ側溝を覗き込む。萌香が短いスカートを押さえながら身を屈めた。

「死体、ないね」

「昨日はあったのに」

「警察が見つけたんじゃない?」

 こんなことなら、側溝をベニヤ板で隠しておけばよかった。



 諦めて立ち上がったとき、近くのゴミ山がどさどさと崩れ落ちた。破れたビニールから魚の頭や汚れたティッシュが溢れ出す。

 萌香が小さな悲鳴を上げた。


 ゴミ山の中で全裸の少年が蹲っていた。

 尻や背中は薄紫の死斑が浮いていた。手首と足首にくしゃくしゃのストッキングが巻き付いている。


 少年は必死で何かを貪っていた。口元に茶色い短い毛と血がついていた。

 ゴミに埋もれるように、先程私に吠えた野良犬が倒れていた。腹は魚の開きのように赤い肉と肋骨を顕にしている。

 昨日の母が志津を食べたように、犬を食べているんだ。


「あれ、昨日私が見つけた死体……」

「生きてるじゃん!」


 少年が頭を振るう。半分になった犬の死体が私の足元に飛んで、べしゃりと落下した。


 少年は卵白じみた濁った目で私を睨むと、獣のように両手足を地面につけ、こちらへ駆けてきた。



 萌香が私に縋りつく。

「マジでキモい! ヤバいよ、逃げよう!」

「そうだね」


 後退ろうと思った矢先、ふくらはぎが万力で挟まれたように動かなくなった。

 足元を見下ろすと、半分になった野良犬が私の脚に噛み付いている。下顎がないから力は弱いが、絡みついて離れない。

 少年は唾を飛ばして接近している。


 萌香が泣きそうな声で叫んだ。

「祭子ちゃん、何とかして!」


 私は仕方なく犬の頭を掴み、力を込めた。

 煮崩れたシチューの肉のように犬の身体が崩れ、頭蓋と脊髄だけが残る。

 私はそれを剣のように構え、少年に振り下ろした。


 ごりっと、硬いものを削る音と振動が両手に走り、少年が仰向けに倒れる。

 袈裟斬りに切り裂いた傷からは一滴も血が出ていなかった。


 犬も少年も動かないのを確かめ、私は萌香に向き直った。

「たぶんもう大丈夫。死体を持って帰ろう」

 萌香は私に抱きついたまま、首を横に振った。


 路地裏の向こうが暗く陰っている。

 白装束の集団、門鍵教の信徒たちが全員で私たちを見つめていた。


 私は犬の脊髄で作った剣を投げ捨て、彼らに言う。

「正当防衛です」

 信徒は何も言わずにこちらを見ていた。



 私は仕方なく、萌香を連れて路地裏を出た。

 せっかく死体を見つけたのに、もったいなかった。

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