死体と麻婆豆腐.2

 本来、学校にいなければいけない時間に歩く通学路は、いつもと同じ道なのに違って見えた。


 店前にトイレットペーパーが積まれたドラッグストアも、無職の人々がコインゲームをするために集うゲームセンターも静かで、精巧なミニチュアのようだった。

 すれ違う通行人が、何故この時間に学生がいるのだろうと私に視線を向ける。逃亡犯になった気分だ。



 四年前、母の遺体は見つからなかった。

 崖から落ちたバスの中はミキサーをかけたようになっていて、真夏で腐敗も激しかったから。

 犠牲者の欠片と黒魔術研究会の名簿と照らし合わせ、歯の治療痕があった下顎と結婚指輪をつけていた左手だけが母のものだとわかった。


 葬儀で父と兄は泣いたが、私は泣かなかった。母はどこかで生きている可能性もあると思ったからだ。

 顎と左手がないまま、四年かけて山から降りて、今日戻ってきたのかもしれない。

 最近、街では死人が生き返ったという噂もある。



 私は足を早め、角を曲がった。

 ブロック塀から黒い枝葉が突き出した我が家が見えた。庭とも言えない小さな空間に生えた木は、兄以外誰も手入れをしないので常に生い茂り、近所の中学生から「陰毛ハウス」と呼ばれている。


 侵入者だけでなく家人にも牙を剥く茂みの枝葉を押し退け、家の扉に鍵を挿して、開けた。



 玄関には埃と呼気の匂いが絡む澱んだ空気が篭っていた。カーテンを閉め切っているのか、家中がクリーム色の仄暗い翳りに満ちていた。


 何処からか水の音がする。蛇口が開けっ放しなのかもしれない。

 私はローファーを脱いで廊下に上がる。水音は台所から聞こえていた。衣擦れの音も混じって聞こえた。



 私は一歩ずつ進み、居間と台所を仕切る玉簾を押し退けた。

「母さん……?」


 麻婆豆腐の残りをぶち撒けたのかと思った。傷だらけのフローリングに赤い汁と、豆腐に似た白い塊が広がっていたからだ。


 女がふたりいた。

 床に寝転んだひとりに、もうひとりが覆い被さり、ディープキスをしているように見えた。唾液どころか身体中の体液を啜り尽くしているような音だった。


 下敷きにされている女は、頭がなかった。

 床に広がる血まみれの髪だけがあり、首があるはずの部分は陥没して、もうひとりの女がそこに顔を突っ込んでいた。

 そこでやっと、散らばっているのが麻婆豆腐ではなく、血と脳漿と頭蓋骨の欠片だと気づいた。


 真っ赤に染まったエプロンは猫の柄だった。志津だ。

 志津の首無し死体を貪っている女は、滝行の最中を激写した切り抜きと同じ、鬼の形相だった。

 私によく似た緩くウェーブした黒髪と、落ち窪んだ目と青白い肌。やっぱり生きていたんだ。



「母さん!」

 私は鞄を放り投げて駆け寄る。

 母がやっと顔を上げた。口元も腕も血まみれだが、顎も左手もちゃんとある。


「祭子?」

 母は幼い頃の私が夜中に目覚めて、隠れてドーナツを食べていたのを見けたときと同じ顔をして口元を拭った。

 そして、気まずそうに笑う。遺影のせいで忘れかけていた母の笑顔だった。


 母は外出から戻ってきたように、淡々と流しで口と手を洗い始めた。何もかもが記憶の中の母と同じだった。


「これ、お父さんの新しい嫁? もう食べちゃったけど、腐った麻婆豆腐を作る女なんかいらないでしょ」

 母はボトルソープを傾けながら、爪先で志津の死体を指す。家事をしながら何かを指示するときの母の癖だ。私は何度も頷いた。



 母は蛇口を捻って向き直ると、急に私の頬を両手で包んだ。死人のように冷たい手だった。


「育ち盛りなのに、こんなに痩せて。顔色も悪しい、ちゃんと食べてるの? 前髪だって伸びっぱなしで……もう、私がいないと何もしないんだから」

「母さんは、変わらないね」

「可愛いこと言って」


 母は呆れたように首を振る。偶に黒魔術の本を買っては牧場から牛の血をもらってきたり、火葬場から遺骨を盗んだりする以外は、普通の優しい母だった。



 母は改めて私を眺める。

「その制服、比良塚第一高校? あんた、受験よく頑張ったね」

「兄さんが勉強を教えてくれたよ」

「壇も大学生だもんね。まだ帰ってきてないの?」

「うん。でも、ゼミの発表が終わったら疲れて早く帰ってくるはずだよ」


 私は氷より冷たい母の手に自分の手を重ねた。

「母さん、おかえり」

「祭子もおかえり」



 それから、私たちは床を掃除した後、志津の両端を持って風呂場に運んだ。シャワーカーテンに赤い血糊が三条の筋を引いた。

「母さん、これどうするの?」

「後で食べるから置いといて。冬なら腐らないでしょ」


 母は洗面台の下を開け、百円ショップで買ったヘアゴムで髪を纏めた。

「あんた昼ご飯まだだよね? 夕飯と一緒に作っちゃうから待ってな。冷蔵庫に何があるかな。あの女がちゃんと買い置きしてればいいけど……」

 ぼやきながら、母は洗濯カゴから当然のように志津のカーディガンを取り、袖を通した。



 台所から懐かしい音たちが聞こえてくる。

 玉ねぎを刻む音、引き出しの中の鍋を探る音、湯を沸かす音。

 これからまた母との暮らしが始まると思うと嬉しかった。普通に家族四人で、普通に生きていける。



 椅子に腰掛け、先ほど届いた萌香からのメッセージに返信していると、兄が帰ってきた。


「空気澱んでるな。何でカーテン閉めてるんだよ……これ、誰の靴だ」

 さっそくぼやきが聞こえる。私は玄関に駆けて行き、兄を出迎えた。


「おかえり、兄さん」

「ああ、ただいま……誰か来てるのか?」

「母さんが帰ってきたよ」

 兄は怪訝な顔をする。

「志津さんはあんな靴持ってないだろ」

「志津さんは死んで、母さんが帰ってきた」

「自分で見るからいい」


 兄は更に眉間の皺を濃くすると、私を押し退けて廊下を進み出した。私は後を追う。


 玉暖簾の向こうから兄の悲鳴が聞こえた。

「お袋、何、何でいるんだよ!」

 兄は床にへたり込んでいた。顔面は蒼白で、口の端から唾液の泡が垂れていた。


「おかえり、大きくなったね。父さんよりデカいんじゃない?」

 母は兄に歩み寄り、顔を顰めた。

「臭っ、あんた煙草吸うの? 大人だから好きにきたらいいけど、祭子の前で吸ってないでしょうね」

「おかえりじゃねえよ。何で……お袋は死んだだろ……」


 兄は絶句し、私を見上げた。

 それから、意を決したように立ち上がり、息を吸った。

 私は兄の怒声が響く前に耳を塞いで、廊下に逃げた。


 指で塞いだ耳の穴に、兄と母が言い合う声が侵入してくる。これも、更年期の母と思春期の息子がいる普通の家庭らしくて嬉しくなった。



 しばらく経った頃、兄は台所から飛び出し、自分の部屋へと駆けていった。

 少し遅れてまた兄の悲鳴が聞こえた。


 母が玉暖簾から顔を覗かせる。

「そうだ、儀子よしこがいるの忘れてた」

「儀子って?」

 母はサプライズが成功したように、にやりと笑った。

「あんたたちの妹」



 兄はまた廊下にへたり込んでいた。

 何かに急き立てられるように、一歩ずつ這って後退っている。

 兄を追いかけるように、ジェルシールを無理やり剥がすときに似た、ペタペタとした足音が聞こえた。


 私の後ろで母が声を張り上げる。

「儀子、遊んでないでちゃんと挨拶しなさい」


 兄の部屋から肉色の塊が覗いた。そうとしか言えなかった。

 私の腰くらいの背の高さだった。何層も肉を固めた、縁日の屋台のケバブに似ていた。体表に少しだけ白くて柔らかそうな毛が生えて、風もないのに戦いでいる。


「妹ってことは、母さんの子?」

 私の問いに、兄が裏返った声を出す。

「妹? これが?」


 母は肉塊を抱き上げると、腕の中で一度重そうにバウンドさせた。

「儀子、六歳です。お兄ちゃんとお姉ちゃん、よろしくね」

 母は肉塊の代わりにそう言った。白い毛が一筋独りでに伸び、ぴろぴろと手を振るように揺れた。

 握手を求めているのかもしれない。


 私は手を伸ばし、白い毛に触れようとした。毛は素早く引っ込み、儀子は身体を捻った。

「いあ、いあ、とふるとぅ、くんが」

 小鳥の鳴き声のような高い声だった。母は儀子をあやすように何度も揺する。

「大丈夫だよ、怖くないよ」


 私は怖がられているらしい。最初はそんなものかもしれない。これから時間をかけて仲良くなればいいはずだ。



 母は夕飯ができたからと、儀子を抱えて居間に戻っていった。

 食卓には、玉子チャーハンと八宝菜と、冷凍の焼き餃子が湯気を立てていた。久しぶりの母の食事だ。


 私と兄は並んで座り、母と儀子に向かい合う。

「母さんは食べないの?」

「私と儀子は普通の食事は駄目。気にしないでちゃんと食べなさい。そんなに痩せてるんだから。親は自分が食べなくても子どもに食べさせたいの」


 私はいただきますと言って箸を取る。

 玉子チャーハンをひと匙掬い、口に運んだとき、兄が呟いた。

「志津さんは……」

「死体ならお風呂場にあるよ」

「どうすんだよ……」

「銭湯は五百円だけど、駅前のネットカフェなら三百円でシャワーが無料だって」

「そういうことじゃないんだよ」

 兄は頭を抱える。


 昼食には遅く、夕飯には遅いが、家族で食べる食事は楽しかった。

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