屍臓冥迷ファミリーユース

木古おうみ

死体と麻婆豆腐.1

 健康診断は受けたくない。


 小学校に入って初めて受けたときは、レントゲンを撮れるのが楽しみだった。保険医には撮るとき目を瞑れと言われたけど、ラジウムを見てみたくて、しっかり目を開いていたくらいだ。

 その直後、私の身体から人間には存在しない未知の臓器が見つかった。


 医者は生まれてくる予定だった双子の身体の一部がくっついてしまったのだろうと結論づけ、悪影響がないなら放置していいと言った。

 そのときから、私のあだ名は「化け物」になった。


 クラスには左手の小指が生まれつきない子がいて、その子は先生からも同級生からも大事にされていた。何故、身体の一部が少ないのはよくて、多いのは駄目なのかわからない。

 高校生になった今でも、健康診断は嫌いだ。



「兄さん、今日学校休みたい。健康診断があるから」

 制服のリボンを結びながら言うと、兄は眉間に皺を寄せた。フィールドワークで日に焼けた顔が逆光で余計に黒く見えた。

 いつもすぐ怒るけど、今週は大学のゼミの発表が控えているせいで余計に気が立っている。


 兄は民俗学の資料が詰まったリュックサックを机に叩きつけた。鈍器で殴ったような音がした。

祭子さいこ、いい加減にしろよ。お前はただでさえ頭がおかしいんだから、学校の行事くらい普通にこなせ」

「だって、また変な臓器が見つかったり、犬にしか寄生しない虫が血管から見つかったらどうするの」

「知るかよ、病院に行けばいいだろ」



 台所の方からスリッパをパタパタと鳴らす足音が聞こえた。

 兄は声を潜めて私に言う。

志津しずさんのことも考えろよ。親父が留守の間家を守って、血も繋がってない俺たちの面倒を見てくれてるってのに、これ以上迷惑をかけられないだろ」

「コブ付きの男と結婚した本人の責任だよ」

「クズが」


 兄は素早く私の額を叩くと、リュックを背負い、朱色の玉暖簾を押し退けて居間から出ていった。

 叩いたときに私の額から角のように飛び出た骨の部分で痛めたらしく、手の平をジーンズの太腿に擦り付けていた。

「自分だってまだお母さんって呼ばないくせに……」



 そう呟いたとき、志津が居間に入ってきた。クラスメイトがSNSで眺めている港区のOLのような女のひとだと毎日思う。猫の柄のエプロンと両手に提げたお弁当箱が似合わない。

だんくんは?」

「兄さんは今出かけました」

「残念、お見送りしたかったのに」


 志津は猫のような目を細めて笑った。

「はい、祭子ちゃんのお弁当。今日は麻婆豆腐ね」

「いつもありがとうございます」


 私は弁当を鞄にしまう。

 視線を上げると、仏壇に飾られた母の遺影が見えた。鬼の形相をしながら白装束で滝に打たれている姿だ。

 母は写真が嫌いで生前一枚も撮らせなかったから、母が一時期はまっていた新興宗教の様子を激写した週刊誌の切り抜きを額に入れている。

 最近、母を思い出そうとしても、この顔しか浮かばなくなった。



 家を出て、通学路を歩きながら、今日はどこに弁当の中身を捨てようか迷う。

 父が家にいない間、志津が私に作る弁当は腐っていたり、卵の殻や海老の尻尾がそのまま入っていたりする。私は内臓が多いから、そういうものも消化できると思われているかもしれない。


 辺りを見回しても、通学路と思えない風俗店や居酒屋が並ぶばかりだ。町内会の老人と子どもがパンジーを植えた花壇に、酒瓶と避妊具が落ちている。


 結局、いつもの場所に捨てることにした。

 半月ほど粗大ゴミが放置されている路地裏だ。



 吐瀉物の中のトマトを啄むカラスの横をすり抜け、ベニヤ板で蓋をされた側溝に屈み込む。

 弁当箱を取り出してから板を退けると、土で汚れた踵が現れた。青白い足は、泥を吸った荒縄で縛られていた。


 私は側溝を覗き込む。

 全裸の少年が黒い水に身体を浸して横たわっていた。窪んだ腹とアーチのような肋の先に、血の気のない顔があった。猿轡代わりに口に突っ込まれたストッキングに血が滲んでいた。長い睫毛が微風にそよいでいる。


 少年の死体は側溝をピッタリと塞いでいた。これでは弁当を捨てられない。


 私は諦めて路地裏を出た。通報しようかと思ったが、そんなことをしていたら遅刻して、また兄に叱られる。

 それに、まだ息があったら救急車を呼ぶべきだが、死んでいるなら急いでも仕方がない。せめて、見つけやすいようにベニヤ板は退けたままにしておいた。



 再び弁当の捨て場所を探して歩いてあると、背後から甲高い声が聞こえた。

「祭子ちゃん!」

 私に挨拶してくれる友人はひとりだけだから、振り返らなくてもわかる。


 案の定、萌香もかがピンク色のカーディガンの長い袖を振りながら駆け寄ってきた。ふたつ結びの黒髪が朝日を反射して輝いていた。


「萌香ちゃん、おはよう」

「おはよう、祭子ちゃんは今日も暗いね」

「健康診断だから」

「えー、健康診断って好きだけどな。クラスで萌香が一番体重軽いってわかるもん」

 萌香は黒いマスクを下ろし、ハート型の舌ピアスを覗かせた。


「ピアス新しいやつ? 可愛いね」

「気づいてくれたの? 嬉しい。祭子ちゃん、だんだん人間の真似上手くなってるよ」

 萌香は私の肩を叩き、厚底の靴を鳴らして一緒に歩き出した。


「祭子ちゃん、聞いてよ。朝から最悪」

「どうしたの?」

「バ先の友だちの裏垢見つけちゃった。あの女、萌香のことパパ活してるとか嘘ばっかり書いてるの」

「最悪だね」

「ほんと復讐してやりたい。祭子ちゃん、いい考えない? お母さんも黒魔術やってたんだから詳しいでしょ」


 そう言ってから、萌香はハッとしたように俯いた。

「ごめんね、嫌なこと思い出させちゃった」

「何で?」

「だって、祭子ちゃんのお母さん、黒魔術研究会の慰安旅行の帰りに、バスの滑落事故で死んじゃったんでしょ」

「うん。行きじゃなくて帰りでよかったよ。たくさん思い出作って楽しいまま死ねたと思う」


 私のローファーに濡れた紙がまとわりついた。

 アスファルトの凹凸をなぞるように、地面に大量のビラが落ちていた。最近、この街に来た教団の信者が配っていたものだ。


 萌香が眉を顰める。

「治安悪っ」

「でも、裏バイトとか強盗のニュースはあんまりないよね。死体が動き出したとか変な怪談は聞くけれど」

「元々治安悪いから大して変わらないのかな」

「歯が全部抜けてたら虫歯にならないようなものだね」



 錆びた歩道橋が造る影を潜ると、学校が見えてきた。公立らしく質素で古びた比良塚高校は、刑務所のようだ。

 青緑のフェンスの下に煙草の吸い殻がたくさん落ちていた。結局、弁当を捨てられないまま辿り着いてしまった。


 私は萌香の目の下の涙袋を眺める。

「バイト先の子に復讐したいんだっけ」

「何かいい考え浮かんだ?」

「黒魔術じゃないけどね」



 早朝の昇降口は無人で、時が止まったように静かだった。

 窓ガラスの色を吸った光の帯が細く差し込み、舞い散る埃の粒まで輝いて見えた。


 萌香は復讐相手の下駄箱を指す。

 私は顔も知らない女子生徒の上履きを引き摺り出し、変色した麻婆豆腐をなみなみと注いだ。赤い汁が溢れて、血のように掌を汚す。


 萌香はカラーコンタクトが光の輪を作る瞳で私を見つめた。

「祭子ちゃん、大好き」

「私はあんまり自分が好きじゃないな」

「萌香のことは?」

「代わりに復讐してあげるくらい好き」

 抱きついてきた萌香の身体は嘘のように軽かった。



 教室に入ると、クラスメイトの何人かは既にジャージに着替えていた。健康診断の準備だ。


 憂鬱な気分で席に座っていると、チャイムが鳴った。

 担任の岡野おかの先生が教室に駆け込んでくる。慌てていたらしく、ブラウスの裾がスカートが飛び出ていた。


「ごめんね、教材を印刷してたらギリギリになっちゃった。あ、もう着替えてるの? 先生と違ってしっかりしてるわ」

 教室から笑いが起こる。先生は髪を結びなおしながら微笑んだ。

「一年生の診断は午後だから、それまでにみんな着替えておいてね」


 私は麻婆豆腐を少し残しておけばよかったと思う。ジャージを汚して誰かにやられたと言えば、健康診断を受けずに済んだかもしれない。

 いっそ仮病を使おうか。

 悶々としているうちに、午前の授業が進んでいく。



 黒板に貼られたビザンツ帝国の遺跡の写真を眺めていると、教室の扉が開き、岡野先生が顔を覗かせた。

「授業中にすみません。上井戸うえいどさん、ちょっといい?」

 先生は気まずそうに手招きして私を呼んだ。クラスメイトの視線が突き刺さる。


 麻婆豆腐の件がもうバレたんだろうか。それとも、死体を見つけて通報しなかったことかもしれない。私が犯人だと思われていたらどうしよう。

 私は仕方なく席を立ち、教室を出た。



 廊下は静まり返り、授業を進める教師の声だけが響いていた。別世界のようで居心地が悪い。

 私は俯いて先生に向き合った。

「何でしょうか」

「ごめんね、上井戸さんのお母さんから電話があって、すぐ帰ってきてほしいって。先生には言えられないことみたいなの」

 やはり死体の件だ。警察から家に連絡が行ったんだ。


「志津さんから電話ですか……」

 私が呟くと、先生は不思議そうな顔をした。

「いいえ、式子しきこさんという方だったけれど」

 私は息を呑む。死んだ母の名前だった。


 先生は私を覗き込むと、心底不安げな声で言った。

「……さっきの電話のひと、本当にお母さんだよね?」

「本当にというか、それが本当のお母さんです」

「嘘ついてない?」

 先生は私の肩を掴み、じっと目を見つめた。

「上井戸さん、いつも何かに悩んでるみたいだから心配なの。力になれることがあったら言って?」

「大丈夫です。今日は早退します」


 ひとまず直近の悩みはなくなった。健康診断を受けなくて済む。

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