浪人、現る

 ――若狭小浜藩領内の宿場という宿場に、役人が充満した。縄間の宿場にも、検め方の者達が入り、虱潰しに旅籠を調査した。

 宿場町の住民や旅人達は、てんでに人垣を作り何事かと推移を見守った。すずも、その中にいた。彼女は、動揺を隠しつつ、町外れの廃屋まで駆けた。

 廃屋に入ると、無垢な顔で午睡する伊織と、その横に座る千鶴がいた。すずは早口に、


「千鶴様、この宿場にも役人が参っております」

「え……! どうしてこんなに速く。まさか、尾けられてる?」

「解りませんが、此処は危のうございます」

「……どうしよう。斬り込むのは容易いけど、伊織を抱えて逃げられるかどうか」


 千鶴は柳眉を顰めて唸った。暫く、頭の中で低回した。

 やがて、千鶴が手を叩き、


「そうだっ。舟を使おう。海だったら、役人の手も廻りきってはいないかも」

「舟ですか……。解りました。なるべく寂れた浜辺に行って参ります。少し、待っていてください」

「あたしが言い出したんだから、あたしが行くよ。すずにばかり、任せておけない」

「いいえ。こういう密やかな事は、すずにお任せください。それよりも伊織様を守っていてください。そちらの方が、肝要です」


 そう言い残し、すずは無音で素早く走っていった。


 ――夜も更けた。

 亥の刻になっても、縄間に派遣された捕方二十名は、眠らない。明々と篝火を燃やし、宵闇に沈んだ町の中、陣屋だけが、空に輝く綺羅星のようになっていた。

 捕方の頭は、同心・井上新兵衛である。篝火の近くで、床几の上に座り、報告を待つ彼の元に、一人の男がやって来た。


「お役人様に申し上げます」

「何だ」

「へい。先程、明日の漁の準備をしておりましたところ、北の浜辺にある岩の影に、小舟が一艘ありました。もう使っていないものではございますが、少しでも不審な点があれば申し上げよとの布令でしたので、一応」

「ふむ……調べる価値はあるな。案内せいっ」


 井上は腰を上げ、陣屋役人に留守居を命じた。その後、小浜城下から引き連れてきた二十名全員を連れて出立していった。


 その頃、すずは外の様子を見、すっかり静謐に沈んでいるのを確認すると、仮眠している千鶴を起こし、


「念の為、舟の様子を見て参ります。出発の準備をしておいてください。ですが、もし、半刻 (1時間)経っても戻らなければ、裏山に逃れてください」

「解った。すぐに準備する。伊織、起きて」


 少年は欠伸と共に起き上がると、くりくりとした紅い瞳を瞬いて、


「すず、気を付けてね。わたしは寂しくなんてないから」

「はい。行って参ります」


 敢えて、柔らかな笑みを残し、すずは廃屋の扉を閉めた。夜闇は、不気味なまでに静まりかえり、すずを待っているかのようであった。


 すずは、雑木林の茂った暗い道を迷いなく進み、磯馴れの松が並んだ浜辺に着いた。月は皎々こうこうと輝き渡り、青黒い海原が、彼方まで見渡せる。

 闇になれた忍びの目には、真昼も同然の明るさだ。幸い辺りに人影はない。警戒もせず、すずは小舟を繋留している岩陰に下りた。その時である。


「出合え!」


 怒号がした。小舟の苫から、男が飛び出してきた。井上である。夜の静寂を裂く呼子笛が鳴り響いた。

 反射的に、すずは跳んだ。巌の上に立った。後ろから、捕方二十名が走ってくる。退路を断つ動きだ。狼狽している内に、包囲された。忍びは、正面切って大勢と斬り合う術を習得していない。短刀を構えた。だが、背中を棒で打たれて倒れた。

 捕方の一人が、すずの襟首を引っ掴み、


「怪しい奴め。貴様の仲間は何処だ。白髪の小僧と女だっ。言え、言わぬかっ」

「……」

「小癪な! 言わぬと為にならぬぞっ」


 男は詰問し、何度も拳で打った。すずは、殴られる寸前に顔を背け、衝撃を緩和したが、逃れる術が思いつかない。

 千鶴様。何度も思い浮かべた。殴られる痛みは大事ないが、彼女を思うと、胸が張り裂けそうになった。

 殺されるのは怖ろしくない。しかし、千鶴を守り抜きたい。まだ死ねない。生きていたい。生きる。生きねばならない。


 不意に、殴打の手が止んだ。すずの身体は、砂に投げ出された。顔を上げると、彼女を掴んでいた男の死骸があった。その後ろに、黒縮緬の小袖を着流し、深編笠を被る浪人がいた。手には、三尺の業物を引っ提げている。

 「何奴だ!」と、井上らが誰何した。各々、棒を捨て、刀を抜き連れた。刃林に囲まれても、浪人は、動じない。


「……」


 明鏡止水という言葉すら足りぬほど、自若とした様子である。浪人が、深編笠を取った。その顔を見、すずも捕方共も唖然とした。

 笠を払ったその人は、漆黒の髪を低めの一本結びにし、玲瓏と言いたいくらいに白く、得も言われぬ秀麗な面貌を持つ青年であった。眉宇から鼻筋に掛けては凜として、口辺に虚無の影を佩いていた。

 歳は、二十半ばにも達していまい。敵も思わず彼に見とれ、斬り掛かるのも忘れていた。青年は、彼らを涼やかな流し目で睥睨し、悠然と、刀を中段に据えていた。


 短い沈黙があった。堪りかねた一人の捕方が、斬り掛かった。青年の刀が、煌めいた。捕方は、袈裟懸けに斬って斃された。


 途端に、青年を囲んでいた者達が動いた。二人。一度に斬り込んだ。青年はそれを躱し、一撃で彼らを斬った。その場で身体を廻した。敵が、後ろに回り込んでいた。腰を薙がれ、斃れ込んだ。

 青年の前から、刃が来た。彼はそれを弾き、相手を斬り下ろした。跳んだ。着地した。同時に、三人を斬り斃した。冴え渡った腕前に、井上達は狼狽えた。

 青年が、巌の上に駆ける。二人が構えている。だが、一瞬で足を斬り飛ばされた。また一人。彼の後を追い掛けた。青年が振り向いた。一人は、拝み打ちに斬り下げられた。

 最早、残る九人は逃げ腰である。震える手で刀を持ち、後ずさりした。一人が、すずの襟髪を掴んだ。


「おい! 小娘が」


 ―どうなっても良いのか。言い掛けた。

 既に、青年が目の前にいた。男の腕。宙に舞った。身体は血飛沫と一緒に倒れた。男は、喉を貫かれて死んだ。

 残った者達も、次々に斬られていき、井上以外は全滅した。青年は井上を睨んだ。その眼差しに、井上は満身を子鹿のように震わせ、頓狂な叫びを上げて斬り掛かった。


 青年は、下段に構えた。血を纏い、月の輝きを吸った青年の氷刃ひょうじんが、怪しく輝いた。転瞬、彼は地を蹴った。

 すれ違った。井上。二歩三歩行った。魂を抜かれたみたいに斃れた。深々と斬られた首筋から、滔々と血が噴き出している。


 青年は刀を拭って納め、何事もなかったように立ち去ろうとした。茫然としていたすずは、はッとした。

 慌てて立ち上がって走り、青年の前に拝跪した。そして、無言で自分を見下ろす彼に、


「どうか、どうかわたくし共をお助けください!」


 額を砂浜に擦りつけて懇願した。

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祠、壊しました(仮題) 洋麺 @edo3443

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