この感情の名前は……

 翌日、朝から眩しいほどの晴天。

 地滑りの危険がなくなったところで、佳子と共に屋敷へと向かう。もしかしたら屋敷ごと流されているかもしれない、と心配したが、特に被害もなく、最初から地滑りなどなかったかのように同じ風景が広がっている。


「本当に、大したことなくてよかったわねぇ。この辺に住んでいて地滑りなんて今まで聞いたことないんだけど」

 佳子がそう口にした。

 それは、山の上、瀬織津姫せおりつひめが祀られている神社のおかげ。人柱としてあの地に縛り付けられている雪光のおかげなのだと、あずさは思っていた。

 もう、あの場所に神社はないけれど、それでもあそこには、神様がいるのだ。そして、雪光も……。


 ふと山の方を見上げると、山道に人影を見つける。

 その姿に、あずさの心臓がどくんと高鳴った。


「雪光っ?」

「え? なにか言った?」

「ううん、今、人影が……私、ちょっと行ってみる!」

 居ても立ってもいられず、叫ぶ。

「ちょっと、あずさ、まだ山は危ないわよ!」

「うん、今の人にそう言ってくるから!」

 そう言い残し、山に見えた人影を追う。チラッとしか見えなかったが、背格好は似ている。


 転ばないよう気を付けながらも、半ば走るように先を急ぐ。

 人影が、見えた。

 デニムにスニーカー。麻のジャケット。けれど、


「雪光!」

 あずさが叫ぶと、前を歩いていた人影がゆっくりと振り返る。その顔は、雪光に、とても似ていた。

「……あの、僕ですか?」

「……雪光」

「人違いですよ。僕の名前は雪光ではありません」

 困った顔をしてはにかむ青年。

「でも、」


 男は少し開けた場所を見遣り、言った。

「──人柱って、ご存じですか?」

「えっ?」

 急に核心に迫る話をされ、驚く。


「昔、この辺りの土地では人柱を立てる風習があったんだそうです。人柱にされた人間は、神となりこの地を護る。ちょうどこの辺りに神社があったんだそうです」

 あずさの心臓が、ドクンドクンと脈打つ。


「時々、人柱は幽霊のようにふらっと現れるそうですが……」

 くるり、とあずさを見る。

「とても魅力的な姿をしているのだそうです。同情すると、連れて行かれてしまうんだと聞いたことがあります。あなたも、気を付けないと駄目ですよ?」

 そう言って、にっこり笑った。


「雪……み、つ」

 あずさはそこに立つ男にゆっくりと歩み寄った。


「僕の名前は我妻義夜あがつまよしや。実は、この地で人柱になったとされる一族の者です。……あなたの知る誰かに、似ていますか?」

 雪光に、似ていると思ったのは血筋だから?

 義夜の顔を見て、あずさは戸惑いながらも、頷く。

「そうでしたか。そんな偶然もあるんですね」


「一族っていうのは、どういう……?」

 気になって訊ねてみる。


「私の先祖……私の祖父の、祖父くらい昔でしょうか。我妻家に双子が生まれたそうです。そしてその双子の兄が、神社に人柱として献上された。私は生き延びた弟の方の血筋ということです。この辺りは代々一族が住んでいた土地なんです。もう神社はありませんが、時々この山に足を向けて、祈りを捧げるんですよ。私がこうして生きているのは、彼のおかげですからね」

 そう言って手を合わせた。


「……それはそうと、」

 歩み寄ってきたあずさの顔を見つめ、言った。


「昨日地滑りがあったばかりです。まだここらは危ない。戻った方がいいですよ?」

「でも、あなたは?」

「僕ももう戻ります。少し様子を見に来ただけなので」

「様子を見に?」

「はい。地滑りなど、今まで起きたことがなかったので気になりまして。でももう、用は済みました。どうやら大丈夫のようだ」

 何もない空間を一瞥し、そう言うと、あずさの手を取った。

「さ、下りるまでの間、危ないので失礼しますね」

 あずさは目の前の義夜を見上げる。


 雪光……ではないのだろうか? 

 瀬織津姫に、雪光を自由にしてほしいと願った、その願いが叶ったのではないのだろうか? 

 今ここにいる、義夜と名乗る男は雪光が人になった姿なのでは……?


 それは願望。

 あずさの望む、身勝手な願望だ。


「さぁ、行きましょう」

 ふわふわする気持ちを持て余しながら、あずさは義也に手を引かれ、山を下りる。

 空は晴れ渡り、昨日までの長雨を忘れさせてくれるような眩しい光に満ちていた……。

 


 二人の姿が見えなくなると、そこにしゅるりと人影が現れた。

 無造作に後ろで結んだ髪。

 絣の着物。

 ほんのわずか、口元を動かしたように見える。


 それが笑顔だったのか泣き顔だったのかは、誰も知らない。


◇◇◇


 ――あの夏を、今でも覚えている。


 風に揺れる葉と踊る木漏れ日。セミの鳴き声につられて迷い込んだ山道。

 山間の開けた場所に突如現れた古びた鳥居と、そこに貼られた半分掠れて見えなくなっているお札。

 切れかかったしめ縄は垂れさがったままゆらゆらと宙を揺蕩い、辺りを不思議な空気が包み込んでいた。

 確かに、彼は、そこにいたのだ……。


 以降、どんなに願っても、あずさが雪光に会うことはなかったのである。



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名前のないその感情に愛を込めて にわ冬莉 @niwa-touri

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