第四七話 花か、己か
「ざ、ザクロ!」
呆気に取られていたネズミは、慌ててザクロに駆け寄ろうとした。
だが、桜に手をつき、ゆっくりと立ち上がるザクロの顔が露わになった途端、ネズミは小さく悲鳴を上げる。
頬の肉は根こそぎ削り取られ、笑ってもいない少女の顔から血濡れの歯と歯肉が垣間見える。
残った皮膚の断面からだらだらと血が滴り落ちて、白い着物に赤い花を点々と咲かせる。
しかし、そんな無残な有様はすぐに正された。皮肉なことに、母が娘に施した回復力が、瞬時に火花を散らして柔らかそうな白肌を復元しはじめる。
「話の途中でビンタするとか……。母上こそ目玉引っこ抜いて、ご自身と対話された方がいいんじゃないですかねぇ? もっとも、その白布の下に目玉があるかはわかりませんが」
撒き散らした血はそのままに、美しい肌はやがて痣一つなく元通りにとなった。
「思考の花は成長するんだろ? なら、遠くで見守ったらどうですか? すぐに摘み取ろうとするなら離れろ。近寄るな」
「誤解をしているようですね。私は花に水を注ごうとしているのですよ?」
「じゃあ水もやるなッ、テメエの存在は花を枯らす猛毒だ!」
ザクロが叫んだ瞬間、バチっと何かが切れた音がした。
固唾を呑んで立ち尽くしていたネズミは見ていた。
香梨紅子の顔から稲妻のような血管が浮き上がるのを。
「過ぎた言葉こそ毒と知りなさい。いつまで羽虫の様に耳障りな音を奏でるつもりですか」
およそ母親が娘にかける言葉ではない。
この場にいる誰もが怖気で足を地に縫い留められた。
神の怒りだ。恩赦も容赦もなく、目の前にいる娘に本気の憎悪を向けている。
次第に、社の室内と同じ冷たい空気が香梨紅子の周囲に漂い始める。
──まずい。
ネズミは一瞬、助け舟を期待した。後ろに控えるリンゴ達に視線を移す──舞踊を踊っている時と同じ眼だ。神の傀儡に身を落としてしまっている。
ただ一人、ほくそ笑んで高みを決め込んでいる少女がいた──カリンだ。
ネズミは瞬時に察した。泣いて神に縋りついた女はカリンの仕込みだ。
人間を使役する能力を使って、今年の成人式を盛り上げたかったのか。
はたまた、ネズミを追い詰めなかったのか。
言及して、神の前に引っ張り出せば間に合うか? 否、もう手遅れだ。
「ああ、最高の気分だ。羽虫と罵られようと、血を流そうと、自分で自分を持てている。花ではない、自分がここいる感じだ」
感嘆を口にしたザクロが両手で顔を撫でつけた。全身に纏わり付いていた僅かな恐怖さえ振り落とし、身体に駆け上る愉悦に身を任せるように。
花か、己か。
間違いなく、今は己だ。抗うという覚悟を決めたとき、これほど心地良い高揚感に包まれるものかと、自然と口元が緩む。
今なら、今の自分であるなら、愛せそうだ。
「では母上、もう少し羽虫の奏でる羽音に耳を傾けてもらいましょうか!」
カチカチカチカチ
鳴った。鳴らしてしまった、戦いの警鐘を。
ザクロの喉の奥底から異音が響き、義手から六つの穴が開く。
「ダメだ! ザクロ!」
「来い、羽虫ども」
ネズミの制止を聞かず、ザクロは我が子を産み落とした。
白い、真っ白い甲殻のスズメバチが六匹、獰猛な羽音を立てながら勢い良く義手から飛び出し、ザクロの周りを旋回する。
「さあ、やろう、母上」
興奮をそのままに、ザクロは低く構えて笑いはじめる。
「ダメだ! やめて!」
喜び勇んでザクロが紅子に飛びかかる寸前、ネズミの足が動く。
弾かれるようにザクロの前へ飛び出して、必死に両手を突き出した。
「ザクロ! 冷静になってくれ!」
ネズミの悲痛な訴えに、ザクロは顔を盛大に顰める。
「どいてろ‼︎ ネズミィ!」
「ダメだ! 走るんでしょ!? 一緒に走るんだ!」
その言葉に、ザクロの瞳が一瞬、揺れた。
反抗の心地良さに水をかけられ、ザクロの思考がまともに回り始める。
「走る。ネズミと一緒に……」
ザクロが言葉を咀嚼するように繰り返すと、ネズミは大きく頷いた。
今自分は何をしようとした? 長年蓄積した鬱憤を晴らそうと、香梨紅子に飛びかかろうとした? 自分では敵うはずのない香梨紅子相手に?
焦るネズミの相貌を見て、次第にザクロは正気を取り戻す。
「私は、ああ……やっちまった……」
鋭く吊り上がった眉尻は、徐々に申し訳なさげに下がってゆく。
その様子にネズミは安堵の息を吐くが、もう、既に手遅れであった。
〝産んで〟しまったが最後だった。
ネズミの背後に立つ香梨紅子は、娘の醜態に嘆息して冷淡に告げる。
「母の前で、母に無断で産みましたね。成人式の最中は、鮮花を開くことを許可していない。それがどういうことか、知らなかったでは済まされないと言うのに」
神の娘が戒めに触れた。事もあろうに多くの信者の目の前で、不邪婬戒を犯してしまった。
鮮花の権能で生まれた羽虫、その小さな生命さえ、今日という日は許可なく産み落とせば戒律に違反してしまう。
「よき日和です。よき教訓をあなたに差し上げましょう。母がこの手で直接、腹を割いてあげましょうね」
紅子はそう言うと、青ざめるネズミに手を差し出した。
「ネズミ、刀をよこしなさい」
言われて思い出す、腰の得物。祭事用の太刀を自分は佩いている。なんでもこの刀は香梨紅子の愛刀だそうだ。自分の刀をよこせと言うのは当然のことだ。
「あ、あ──」
香梨紅子から発せられる異常な神圧に、ネズミは足をすくませた。
この刀を渡せばザクロが腹を割かれる。しかし、神からの命令に背けない。
「こ、これ……」
最早それは反射だった。石が頭にぶつかれば、反射的にその患部を手で押さえる。神に命じられたら、反射ですべてを差し出してしまう。自分の生命としての本能か、鮮花の促す羅刹としての本能か、ネズミは刀を差し出そうとした。
──ダメだ。
神の言葉に従えば、さぞ楽だろう。目の前でどのような事が起ころうと、神に従っただけだと自分を肯定できる。
それが当然、当然の判断だ。正しきことなのだ。
だが、自分はその当然ができないのだ。その正しさから目を背けてしまえるのだ。
「ネズミ? いかがしましたか?」
「な、な、なりません!!」
近づく香梨紅子から飛び退いて、ネズミは刀を両腕で庇うように抱く。
明確に、神意に沿わない意思表示だ。
「お、お、お話を! 御息女と対話を! もう少し対話をなさってください!」
「ほう、私を呆れさせるつもりでしょうか?」
「ち、ち、違います! きっと分かり合えます! 互いにもっと多くの言葉を重ねれば!」
ネズミの叫ぶような訴えへの返答は、地を揺らすような紅子の一歩だった。
どんッ、と紅子が踏みしめた地面が爆ぜて、土煙を巻き上がる。
『渡さないなら……』という鋭い殺気を受けて、ネズミはその場で膝を折って縮こまる。身体を丸め、その身で刀を包み込んでうずくまってしまった。
「ネズミ!」
ザクロは滑るように進み出て、ネズミの背中に手を当てた。
「ごめん……やっちまった。お前の気持ちを考えずに暴走した。母上に敵うはずないのに、怒りに任せて先走った。もう手遅れだ。刀を母上に渡せ。腹を割かれても、私は大丈夫だ」
ザクロが耳元で語りかけるも、ネズミは大きく首を横に振る。
香梨紅子の娘達は、傷を即座に回復できる。
だが、そうじゃない。そうはならない。頭を混乱させるネズミにもそれはわかる。腹を裂かれても大丈夫などと、ただの強がりだ。苦し紛れの気休めだ。
香梨紅子はネズミの尻尾やザクロの腕を切断した時のように、二度と戻らぬように損傷を加えられる。姉妹とネズミに施された回復力自体が、香梨紅子の能力の一部なのだから。
「ネズミ、二度言わせる気ですか? 刀を、こちらへ」
一歩、一歩と神が道を踏みしめる。
静かな怒りを身に纏い、ネズミとザクロに向かって歩み出す。
──渡して楽になりたい。一秒でもはやく、神から放たれる殺気から逃れたい。
だが、どうにも刀を手放せない。どうしてもこの場を譲ろうという気が起きない。早くこの圧から逃れたいというのに。
花と己、羅神と羅刹。渦巻く懊悩で頭を抱え、とうとうネズミの瞳から雫が流れ出した。
「うぅ……俺……わかりません……なんで親子で、こんな物が必要なんですか……」
大粒の涙が地面に落ちる。人間より目玉が大きいものだから、殊更大きな雫が地面を盛大に濡らしてゆく。
「戒律って……家族より大事なんですか……俺、俺は、そんなの……わかりません」
ザクロの声が聞こえる気がする。同情か、悲哀か、「ネズミ」と声をかけてくれている。
それが惨めで、悲しくて。自分が駄々をこねている子供のような気がして。
「俺はぁ、渡したくないんです……渡したくないって一瞬でも思っちゃったから。もう、嫌なんです……」
泣いた勢いで、まとまりのない言葉が溢れ出した。
言葉足らずで支離滅裂。吐いた言葉が、殊更に子供染みていて自分で自分が嫌になる。
頭を整理する暇もなく、目前の地面が再び爆ぜる。
「残念ですね、ネズミ」
香梨紅子の憤怒に滲む足音が、ネズミの心臓を跳ねさせ恐怖を植え付けた。
「本当に、残念です。渡さないのであれば──」
神から放たれる殺気が一層と増し、ネズミの全身の体毛が総毛立つ。
渡さないのであればなんなのか、言わなくともわかる。
それをわかっていてもなお、身体が動いてしまったのだ。だからこんな有様になっているのだ。惨めに身体を縮こめて、現実を見るのが怖くて瞼を閉じ切っているのだ。
「近づくなァッ!」
ザクロの咆哮が聞こえる。自分を庇って神を牽制してくれている。
羽虫が飛んだ音がしたが、ぽとりぽとりと地面に落ちる音もした。
今、二人で走り、逃げるべきか。否、カリンやモモがいる以上、足を止められてお終いだ。
そもそも恐怖で絡め取られた自分の足が動くか。動くはずがない。
「あ──」
悲壮を回していると、とうとう二人の間合いに香梨紅子が足を踏み入れた。
二歩分の距離で神は足を止めて、二人を冷たく見下ろしている。
「三度です。羅刹の顔も三度まで。ネズミ、刀を渡しなさい」
最後の警告だ。これが本当の最後の恩情だ。
「──はッ、はッ」
言葉が出てこない。恐怖のあまり、喉が締まって動かない。
唇が震えて、呼吸もおぼつかない。
自分が惨めで、悲惨で。心が擦り切れ、軋んでいる。
「──ガッ」
ザクロの小さな呻き声が、ネズミの耳を打った。
驚き振り仰げば、紅子は右手で娘の首を掴かみ、身体ごと宙に浮かせていた。
「はなッ……せッ……」
締め上げられている首をなんとか解放しようとザクロは踠くが、抵抗は虚しく、母の指がさらに首に深く食い込み、ひゅーっと虫の息が喉から抜ける。
「ああッ──ああッ──」
「ネズミ、刻限です。もうお終いですね」
神は告げて、空いた右手を振りかざす。尻尾を断ち切ったように、羽虫を払うように。
そのまま腕が払われれば、自分の首が断たれる角度だ。
終わりだ。いっそ腹が決まる。
最後は笑っていようか、泣いていようか。
チウチウチウ
鳴いているようだ。
花の羅刹〜記憶喪失だけど異能力(謎)があるので、最強の神様から逃げ出したい〜 再図参夏 @sizesango
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