第四六話 目玉
しばらくして、ネズミ達が今か今かと式の終わりを待っていると、それに応えるかのように南の空から伸びる曇天が、村の頭上までその身を広げ始めていた。
「ふむ、今年はこれにて終了ですね」
成人に祝福の説法を説いていた香梨紅子は、片手を挙げて信者達に静聴を促した。
「さて、良い頃合いです。これにて今年の成人の儀を終了します。成人を迎えた人の子らよ、改めておめでとうございます」
ようやく終わりかと、ネズミもザクロも胸を撫で下ろし、膝を払って立ち上がる。後は神の背後に付き従って、村から退散するだけだ。
だが、そうはならなかった。
毎年行われる成人式、今年は平穏無事に返してはくれなかった。
「ぁあああ! 紅子様! 紅子様ぁ!」
信者の群れを掻き分けて、一人の女がまろび出た。
年は二十代前半、顔を悲痛に歪ませながら紅子の元まで這って進み、膝に必死に縋り付く。
「他者が憎いのです! 私より幸福な者が憎い! この醜い心の花を! どうか詰んでは頂けませんか!?」
帰り支度をしていたネズミも、姉妹達も動きを止めた。
紅子の着物に涙を染み込ませながら悲痛を訴える女性に、ただただ瞠目して固まった。
眉一つ動かせないでいるネズミ達とは対照的に、弾かれるように動いたのは周りの信者達だ。
「無礼だぞ! アヤメ! 下がれ!」「身分を弁えよ!」
「神に触れるなど! 恥を知れ!」「今すぐ紅子様から離れろ!」
途端に罵声が辺りを飛び交い、複数の手が女の着物を荒々しく掴んだ。村の恥部を神の前に晒してしまった、許してなるものかと憎悪を一斉に女にぶつけている。
しかし、引き剥がされそうになろうと、強く香梨紅子の着物を掴み、アヤメと呼ばれた女は懇願を止めることはなかった。
「苦しいのです! 辛いのです! なぜ皆が笑って過ごせるのか、わからぬのです! いくら自身と対話を行おうとも、私の
気の滅入る自虐を吐き散らし、
それを受けて、香梨紅子は女を見つめて微笑むと、信者達の罵声を片手で静止させた。それに伴い、信者達の手もゆっくりとアヤメの着物を解放してゆく。
「アヤメ、それは思い違いです。自身との対話により、心の花が育まれるのです。生まれた時点でどのような花が咲くか、確定するものではありませんよ?」
言うと、女の頬に手を添え、優しく撫で、包み込むように抱き締めた。
「もし、苦しいのであれば。他者の有り様に惑わされているのであれば、そうですね……」
女を両腕に収めながら、紅子がネズミに視線を移した。
なぜこちらに? そうネズミが戸惑い固まっていると、紅子は女の耳元に唇を寄せる。
「目玉を失う事で、自身との対話に集中できるでしょうね」
甘美な吐息が耳を撫で、女は途端に相貌を驚愕に染め上げる。
「……眼を……ッ? 紅子様、私は──」
「よい日和です。他者を羨む眼、今日はそれと離別する、よき縁を起こしましょう。村の中で最も幸福を感受している者は、どんな顔をしていますか?」
「ああ……
女は相貌を一気に明るくした。
「触れた者は一様に、幸福そうな顔をしている……目玉のないものは皆……」
「そうですね。自身との対話に多くを注げます。そうすることによって、思考の花の悦楽に浸ることができますから」
周りを取り囲んでいた信者達は、皆が深く頷いて神に賛同した。縋り付いていた女に羨望の眼差しを向ける者までいる。
理解できないのは傍で見ていたネズミ達だ。目の前で一体何が進んでいるのか。さも当然のように頷く者達に強い忌避感が湧き上がる。
しかし、ただ一人、姉妹の中で率先して動く者がいた。
「母上、こちらを」
「ありがとう、カリン」
末の娘カリンが進み出て、母にある物を手渡した。
ネズミにも見覚えがある、信者の目玉を抉れと握らされた白い匙だ。
「では、ネズミ。これを」
「──ッ」
嫌な予感はしていた。あまりの出来事にその恐怖を頭の隅に追いやっていた。
香梨紅子はネズミの前に歩み、頬を撫でつけて言う。
「あなたの役目ですからね」
「今度はしっかりお勤めなさいね」
足元が揺らぐ、背中が強張る。呼気が乱れて目眩がする。神に命じられたなら、黙って従えとネズミの花が耳打ちする。
心を静寂に染めて、神の意のままになれたらどんなに楽だろうか。ここではそうするのが当たり前だ。しかし自分にはそれがどうしたってできやしない。
「お、俺、俺は──」
「待てッ!」
匙を握ってネズミが立ちすくんでいると、近くで怒号が鳴り響いた。
「待て待て、待てぃ! どういう了見だこれは! どんな道理だッ!」
ザクロだ。怒りの形相を浮かべて、ネズミの手から強引に匙をむしり取った。
「何してる! 神の御前だぞ!」
「うるせー! 関係あるかそんなもん!」
カリンの叱責を打ち捨てて、取り上げた匙を地面に叩きつける。
目前で暴れるザクロに、香梨紅子は落ち着いた声音で尋ねる。
「ザクロ、どのようなつもりですか?」
「どのような、だぁ!? 目玉ほじくらせようとしてんだ、止めるのは──」
当然だ。当然のことだ。それを口にして、ザクロは驚き固まった。
母の前でその当然が出来ないから苦しんでいたのだ。腕の肉を削がれて義肢を取り付けられても、はっきりと怒りを伝えられなかった。母の前で頭を垂れ続ける自分が、花が、嫌で嫌でしょうがなかったのだ。
だが、それが今、出来てしまう。
「ネズミの役目です。アヤメ自身が望んだことです。貴方に邪魔をする権利があると?」
放たれる母の言葉に苛立てる、逆らえてしまう。
母の前で、背筋を伸ばして立っていられる。
「望んだ? 違うな! テメエがそう誘導したんだろうがッ!」
怒鳴ると胸に爽快感が湧いた。顔は怒りに染めながらも、痺れるほどの反抗の悦がザクロの腹の底を駆け上っていた。
今まで花に抑え込まれていたザクロの強い衝動が、濁流のように堰を切る。
「戒律に触れてないんだぞ!? 目玉くり抜く必要が何処にある! そもそも戒律に触れたって目玉なんか抜く必要ないんだよ!」
「本人が決断をしたのですよ? 人の美しき宿願を否定するのですか?」
「違うなッ!」
母から視線を切り、ザクロは女の前に蹲み込んだ。
「アヤメ良く聞け! 人は幸福になれる、誰でも幸せになれるんだ!」
女の肩を揺さぶって、しっかりその瞳を見据えて叫ぶ。
「目玉なんか抜かなくても、人を呪うほど妬んでたとしてもだ! 頼むッ考え直してくれ!」
願いだ。祈りだ。呆気に取られる女に、ひたすらに懇願する。
この女が幸福になるかどうか、正直どうでもいいことだ。
ただ今は、何事もなく帰路に立ちたいのだ。唯一できた友人の正気を守りたい。
今日、何事もなく共に走りたいだけなのだ。
そんな思いから、ザクロは女を急き立てるように言葉を重ね続ける。
「ただの思春期だお前は! 一旦帰って寝ちまえば──」
直後、言葉が切れた。
羽虫を払うような紅子の平手が、ザクロの頬に炸裂した。
「────────‼︎」
盛大に血を吹き、枝垂れ桜に紅が吹き付ける。
その威力は、ネズミの尻尾を両断したものと同様に凄まじいものだった。
吹き飛んだザクロは、その体で地面を削りながら桜の幹に衝突。
崩れるように倒れ伏した。
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