第四五話 成人式

「ネズミ、大丈夫か? さっきからしんどそうだ」


「ああ……その……大丈夫」


 ネズミは隣に座るザクロに、ぼんやりとした虚勢で答える。

 空に茜色が差し掛かった頃、成人式も終わりに近付き、神の祝辞の時間を迎えていた。


「よき日和、よき縁起です。皆、成人の儀、お疲れ様です。十五を迎えた人の子に、私から言の葉を送りましょう」


 枝垂れ桜が彩る村の広間で、香梨紅子が言葉を紡いでいる。

 信者すべてが顔を上げて傾聴し、後ろに控える姉妹も頭を上げて母の言葉に耳を傾けている。


 しかし、ネズミはただ一人だけ、頭を上げずに地面を一点に見つめていた。

 頭を上げれば見えてしまう。目玉を失くした者達が。

 それが視界に入る度、ネズミは努めて視線を伏せる。これから逃げ出そうとしている自分が強く咎められているような気がしたからだ。


「こうして無数に舞い散る桜と同様に、人の子は多くの煩悩を、自身の身に降り積もらせる」


 ネズミが懊悩の渦に身を沈めている一方で、粛々と香梨紅子の祝辞が続いてゆく。


「されど、いくら手を伸ばしても、受け止められるのは一枚だけ」


 紅子は頭上から舞い落ちる桜の花弁を一枚手で受け止め、慈しむように摘んで見せた。

 小さな生命の欠片さえ気遣うその所作に、すべての信者が息を呑んでいる。


「湧き上がる自責の念と、他者を責める心の闘争。憎悪、悲嘆、嫉妬、あらゆる思考の花との対話を行おうと、その時々、受け止められる花も一つだけ。落とせる答えも一つだけ」   


 紅子がゆっくりと首を動かし、人々の相貌を見つめ、口元に笑みを浮かべる。


「それで良い。誰も器用ではございません。誰もが花のように多くを落とせるわけでも、実らせられるわけでもございません。人間の生命の意味は自身との対話にあります。十五を迎えた人の子よ、苦しみもがき、糸を辿りなさい。自分が何を祈るのか、何を欲してやまないかを」


 言って、紅子が桜の花弁をゆっくり両手で包むと──。

 バチバチと、バキバキと、手から火花と破裂音が鳴り響いた。


「そして、その対話の過程でさえ神である、この香梨紅子が愛しましょう。貴方達の思考の花を存分に愛でて上げましょう。どのような悩みや煩悩も、美しき花となりえます」


 手を開き、聴衆達にその奇跡を見せる。

 一枚きりの桜の花弁が、一輪の紅色の蓮華に変化していた。


「おおッ。やはり紅子様は……生命を司る神に他らない」

「なんという権能、なんという奇跡……」

「ああ、なんと美しい……神の御業」


 信者達が色めき立って感嘆の声を口々に漏らすと、紅子は小さな子供に送るような微笑みを皆に送った。


「貴方達にとっての大事な一つのはなを手に入れられるように、私が変わらず皆と共に在り続け、支え続けます。人心の極点を目指し、精進なさってください」


 言って、紅子は手に乗せた紅蓮にフウっと息を吹きかける。

 すると、紅蓮が、青蓮に。青蓮が、白蓮に。次々と色を変化させながら風に乗って舞い踊った。


「ああッ、なんという愛のお言葉」


「飢餓にも病にも見舞われないこの村に生まれて、我々は幸福でございます!」


「奇跡ッ、我等はここに奇跡を見ている!」


 我先にと信者達が舞い散る花に手を伸ばし、神を称え、神への愛を咆哮する。

 その称賛の嵐を薄目で見つめ、ザクロが「おえッ」と小さくえづいた。


「はぁ……きっしょ……」


「ザクロ、静かに。気持ちはわかるけど……」


「ごめん」


 ミカンに嗜められて、小言を言われる前に素直に謝罪。

 しかし、本人が反省した直後に、リンゴ達が便乗してきてしまった。


「思春期な乙女が五人もおってんで? 全員黙ってんのも奇跡やんな? なあ? モモ」


「あぁ? なんちゃコラ。私に振っとるがか? 馴れ馴れしくすんなや」


「あんたネズミはんに負けてから随分と大人しない? 気色悪いわぁ」


「誰が負けたかが! キサン、目ん玉ついとろうかぁ? ああんッ!?」


「騒々しい……こんな喧しい者たちが僕の姉であるなんて、うんざりする」


 口火を切ったが最後だ。周りが騒がしいことを良いことに、リンゴにモモ、カリンまでもが好き勝手に喋り出した。


「みんな静かにッ、あと少しでしょ!」


 ミカンが声を潜めて叱りつけるも、リンゴは肩をすくめて呑気に言う。


「真面目やなぁ。こんだけの騒ぎやから、話しててもバレやせんやろ?」


「そうかもしれないけど。あれ……? 去年って──」


 こんなんだっけ? とミカンは不意に首を傾げる。

 何が『こんなん』なのか、言ったミカンも判然としない様子だ。

 問われたリンゴも、傍で聞いていた姉妹一同も、徐々に口を閉ざしてゆく。 


「ああ……やっぱり凄いんだな」


 姉妹の首を傾げる様子に、ザクロは感嘆を漏らす。

 こういった行事のとき、皆で決まって一言も発さずに行儀良く鎮座していたというのに、今年は気が緩んで私語が飛び交った。香梨紅子が神として聴衆の前に立つときは、決まって皆が神に付き従う傀儡に徹していたというのに。


 舞踊を舞ったときは確かにそうだった。神の威厳を高める飾りとして、一糸乱れぬ所作と濁りのない静寂に身を沈められていた。自分達の鮮花の本能に従っていれば、迷いなく神を彩る花として、傀儡としてそこに存在できた。


 しかし、今はどうだ。

 皆が自然と、ネズミの方に視線を移している。背を丸めて地面を見つめるその姿に、どうにも視線を吸い寄せられるようだ。

 姉妹の中でも何人かは察していた、ネズミの特異性に。それが今、徐々に皆が確かな感触として腑に落とそうとしているのだ。

 その様子を見て、ザクロは誇らしく笑みを溢していると、


「あっちに、走るんだよね?」


 ネズミが地面から視線引き剥がして空を振り仰いでいた。

 南の空から曇天が登り、茜色の空を覆い始めている。


「ああ、そうだ。あっちに走ろう」


 頷いたザクロを見て、曇ったネズミの表情が徐々に和らいでゆく。そして輝く瞳でまた空を一点に見つめた。


「走る……あっちに走る。あの楽しい時間がやってくるんだ。また地を這って、帰る羽目になるかもしれない……。でも、走っている間だけは魂が解放される。逃げ切れなくても良い、今はただ走りたい」


 うわ言のようにネズミが呟くと、ザクロは堪らず吹き出した。


「ははッ」


 ネズミが眼を爛々とさせるものだから、ザクロは嬉しくてしょうがない。

 コイツは本当に楽しそうに走る。楽しそうにしているコイツといると、なんでもうまくいっている気がしてくる。

 きっと今回は三里先まで走れる。そんな予感がする。外の世界できっと楽しいことが待っている。思い悩む日々から、逃げ出せそうな気がするのだ。

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