第29話

「そう、斎宮椥辻ときみやなぎつじの、制限時間。どうして、と言いたそうだが、みなまで言う必要はあるかね」

「ないさ。理由はわかる。お前、話し始めに真面目くさって『奇跡の仲』だなんて嘯いてたけど、つまり、ここに辿り着くための伏線だったってことか」

「そうでもないさ。心よりの親愛表現だよ。斎宮椥辻という親友に宛ててのわかりやすい前提提示だ」

 見透かした笑顔でにんまりと笑みを返す黎海山らいかいさんの唇からは、長い牙が覗く。

 しかしここまでレールの上に載せられていたのでは、椥辻は舌打ちしながらその合理性に頷くしかない。

 あの時『君の方が死にそうだから早く行ってこい』なんて言われたって、椥辻は必死になって調査できなかっただろう。

『自分は死んでもいいから囀子を』

 言い兼ねない、愚かな台詞だ。しかも口に出していないだけで、内心では発している。

 だから黎海山は、最初から動機のすり替えを行っておいた。

『この調査は、解決は、全て囀子の為である』と見せかけた。

 他でもない、椥辻の為だけに。

「さぞ楽しかったろうな。独り芝居してる姿を見るのは」

「はっはっは。否定できようもない。最高の劇だった。見るものによっては悲劇トラジティにも喜劇コモディティにもなっただろう。そして私からは、普段あれほどつっけんどんな君が、血の繋がらない家族の為には自腹を切って差し出せることを識れたいい機会だった。血の繋がった家族のことは、異常なほどに無関心だというのに。私も君ほど若い頃は、婦女の為に飛び回ったものだ。やはり性の魔力には抗えない」

「余計なお世話だ。それに囀子をそういう目で見たことはない。言葉の綾、単純に女体が好きとかは男として当然あるけれど、ラッキーでそのまま手籠めにしちまおうなんて、思ったこともねえよ。願ってるのは、あの子が自由に生きられることだけだ。今までずっと抑えつけられてきたんだ。折角の高校生活だぜ、あんなに可愛くて賢くて人気者なのに、それなのに囀子は人との関わりを出来るだけ持たないように気を付けてる。自分の生い立ちのせいだろうな。でも、せめて一年くらい、なんの考えもなしに生きられていいはずだ。少なくとも、自分はそう思うよ」

「だが、椥辻――それは君が、出来なかったことを押し付けているだけではないかね? それこそ誰もが持ち得る似我蜂への一歩だ。人は未熟な人間に、無限の価値を求めすぎるきらいがある。その人間だって限界の中で生きている、矮躯わいくの棺だというのに」

「……まったく、そうだと思うよ。俺が似我蜂に誘われたのも、そういう傾向を捉えられたからだと思う」

 そうだ――斎宮椥辻は、散ってしまった花を、憶えている。

 綺麗な川を汚しながら目の前で流れていった鮮やかな絵の具を、憶えている。

 春の終わりのあの日の中に、消えてしまったあの子を憶えている。

 そうだとも。囀子を救うのも、阿波礼の為に奔走したのも。

 全て、取り逃がした自分の愚かさに、手を伸ばさなかった自分の歯痒さに、慣れたくなかったからだった。

 いつまでも少年が赦さない。そんな愚かに付き合っているだけだ。

「だんまりか、快ではないな。決して心地よくない。しかしながら、まあ、それが答えなのだろう。話題を変えよう。椥辻、それで君は蜂を閉じ込めた後、物部の娘が飛び入ってきたと言っていたが、詳しく聞いていない。教えてくれたまえ」

「……結論から言うと、母親の蜂を人形に閉じ込めて、そこからは阿波礼に助けて貰ったんだ。どうも公園まで送ってから、近くで車止めて待ってたらしい。あんまり遅いんで心配になって公園行ったら、俺が変な動きしてたんだと。それで後をけていって、家に入ったタイミングで警察呼んだらしい。で、後は頃合い見計らって突入――すぐに母親は逮捕、こっちも事情聴取されたけど、事実だけ話したら返してくれた」

「幸運だったな。それで戻りが深夜になったわけか」

「そういうこと。聴取中も囀子が心配でそれどころじゃなかった」

「私は君に全幅の信頼を置いているというのにつれないな。私が信じられなかったというのかい」

「白々しいな――それとこれとは関係ない。治ったって言っても、囀子、完全じゃないんだろ」

 むう、と唸る黎海山。鋭い切り返しに、しばしの間隙が出来る。再び煙管に火を点けて、黎海山は誤魔化すように煙を吐いた。煙に巻こうとした。

「完全でない、まあ、実際彼女の常識は穴だらけ。そういう言い方も出来るだろう。しかし、私として推奨する表現は違う」

「推奨する表現?」

「ああ。彼女は、今まで身を蝕んできた毒のような常識――即ち悪性の腫瘍のような異常識を精神から排したというような、つまり、という表現がしっくり来るだろう。彼女の欠けた常識は、そのままこれから学んでいくべきことだ。そして常識というものを学ぶのは……言わずもがな、家族や友人のフリから見て学び取っていくわけだ」

 常識を、学んでいく。

 囀子の常識は、今から再び編纂されていく。

 欠けた部分を埋めて、広がっていく。

「それを、マイナスと呼ぶな、と言いたいんだな」

「そうだ。たしか……人はそれを、と呼ぶのではなかったかな? そしてその成長を守る存在ことを、と呼ぶんじゃなかったかな? どちらも、これまでの彼女の人生には欠けていたものと、不肖ながらも推察させていただく」

 推察じゃないだろう。こんなに人を食った――芯を食ったことを言っておいて、それはアドバイスと言うのだ。目の前の、この椥辻への。

 ただ、ムカつくことに、この異常識の言っていることは、極めてセオリーで、常識的だった。

 異常識とは思えないほどの、常識的発言。

 だから、やはりムカつくけれど、かなりムカつくけれど、斎宮椥辻は同意する。

 一応、友人として。世話になった姉の、保護者として。

 頭を、下げる。

「そうだな。だから、これからは斎宮椥辻がの波羅場囀子を守る。ありがとうございました。黎海山新石――吸血鬼であり、夜であり、神仙を包じた二つの異常識。対価は、そちらの提示する代価を支払います」

「はは。畏まらなくてもいい。こそばゆいとも、おもばゆいとも。それに今の私には、持ち上げられる程の力はない。なんせ――目の前の、ただの冴えない人間一人に封じられたのだから」

 黎海山は満足したように、机の上へ置きっぱなしにされた『子』の人形ひとがたを持ち上げた。それは閉じ込めた似我蜂の異常識であり、人形という仮初めの器に閉じ込めた異常そのものである。

 人形を指でつまみ上げた黎海山は、大口を開けた。その中には、吸血鬼の牙が、人狼の牙が、人の恐れる獣の姿、刺す虫の口、汚れた人の口、死者の口、闇を生きる人の知らぬ生き物の口、その全てを内包するような暗闇が蠢きながら広がっていた。紳士然とした暴力性、全てを飲み込む『闇』という存在。闇という、混沌という、人には大きすぎて理解できないだけで理路整然とした『力』の中に、人形は吸い込まれて落ちていた。

 そして、もしゃもしゃと音を立てて、咀嚼する。

「うむ。たいそう美味だ。小ぶりではあるものの、極めて滋味に溢れ時折悪意というスパイスが鼻に抜ける。ふほほ、こういうお門違いな人間の馬鹿な愛情は極めて味が良い! 素晴らしすぎる。舌に触れた触感は張りのある乳房のようだ――このままむしゃぶりつくしたい程の美味である。まったく、小さいのが本当に、玉に瑕、だ」

 ごくん、と飲み込んだ黎海山の姿からは、先程の壮大なおぞましさが消えていた。口元を拭いた彼は、柔和な笑みで椥辻を見て、礼を告げた。

「さて、満足した。此度の礼はこれで受け取っておくことにする」

 ……唖然。椥辻は数百万ふんだくられると覚悟していたのに。

「おいおい、蜂一匹だぞ」

 普段ならまだまだ満足しないのに、今日に限っては本当に満足した顔をしている。たった一匹の小さな蜂程度でこんなに弛緩した黎海山は見たことがない。

 そもとして、力を封じられた黎海山は、異常識を食うことでその力を取り戻していく。しかもその捕食は、異常識でないといけない。彼にとっては極上の味覚の楽しみでもあるようだから、それで上機嫌になることはあるのだが……それにしたってこれほど満足した黎海山を見たのは、もっと大物の異常識を仕留めた頃以来だ。普段ならこれほど上機嫌になることはない。異常な気前の良さに何か裏がありそうで、聞かなくてもいいのに椥辻は聞いた。

「いいのか? 二言はないぞ」

「いいとも。その分で、君の家族とやらをもてなしてやれ。今日はもうあがりなさい。明日からは繰り上げていた調査を再開しよう――天牛てんぎゅうを交えてな」

「うっアイツ、ですか」

 苦い顔をする椥辻に、黎海山は眉を上げる。天牛というのは、新しいバイトとして目されている高校生――そういえば、囀子とも面識があるとか聞いた――である。正直言って、得意なタイプではない。だが、言い返せない状況である。やられた。

「ああ。異論はないな?」

「……はい。ないですよ。じゃあ、お先に」

「ああ。また明日。良い午後をグッド・イブニング。快的な、文字通り快い午後を過ごすがいい」

 気前の良いことを言ったのは、このせいか。とどこまでも読みながら、椥辻は北山駅へ向かって自転車で下っていく。

 白亜の壁に競り立つもうもうとした緑の木々の下で汗を拭きながら、中々終わらない夏の日々を思う。

 白亜の植物園を越えて、鴨川を跨いで、馴染みの景色に下っていく。鳥が鳴いている。風が戦いでいる。

 人の、雑音が聞こえる。

 焦げたような茶色い家々と剥げたコンクリートの合間を縫って、新町を下る。

 そうして、自転車を置くと玄関が見える。

 なにもないフラッシュドア。

 部屋の数が多いだけの、広くない家。

 暑い家、寒い家。

 そして――。

 囀子がいる、幸せな家。

 椥辻は鍵を開ける。

「ただいま」

「おかえりなさい。おとうとさん! 早かったですね」

 その声が返ってくるから、椥辻は、微笑んだ。彼女はすぐに階段を降りてきて、とっ、と爪先でジャンプしてこちらへ飛び込んできた。それを受け止めて、抱き返す。

「身体、もう大丈夫なのか?」

「大丈夫です。ちょっと寒いけど。それより、おとうとさん」

「なんだ?」

 長い髪を揺らして、囀子はまっすぐとこちらを見る。吸い込まれそうな黒翡翠の瞳には、瀟洒で清浄な光が宿っていた。

 少しだけ、今までの囀子とは違う気がする。けれどいつもの囀子のような気もする。きっとどちらも正解なのだろう。

 だってこれから、囀子は――。

「椥辻さん――わたしの大好きなおとうとさん! 愛してます。私が大人になるまで、一緒に暮らして下さい。本当の家族に、なってください」

 ――その告白に、少し驚くけれど。

 誤解はない。囀子の言葉の意味はわかる。

 そこに含まれる、気持ちもわかる。

 けれど、二人共、その形をまだ知らない。

 ……なのに、恐ろしくはない。今まで通り、囀子と一緒に歩いていけばいいだけだから。

 ここまで一緒に培った気持ちは、消えるはずがないから。

 だから、答えよう。精一杯の、本当で。

 微笑んで、答えよう。

「うん。俺も愛してる。こちらこそお願いします。囀子お姉ちゃん」

「……はい! おとうとさん!」

 お姉ちゃん、その言葉に頬を赤らめながら、腕を後ろに回しながら恥ずかしそうにはにかむ彼女の表情を見ながら、椥辻は思う。

 ああ、異常だ。こんなの、全部間違っている。正しいはずなんてない。

 でも間違ってて、良かった。

 間違ってなきゃ、こんな笑顔見られるワケがないんだから。

 異常で、良かった――。

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異常識探偵・一 Honest Hornet 安条序那 @jonathan_jona

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