第28話

 ――。

 あれから、一夜が過ぎ去った。そして、平日がやってきた。

 昼間の日差しが差し込む仄暗い黎海山探偵事務所のソファには、向かい合う二人の男たちが居た。かたや英国紳士然、かたやスウェットにパーカーというラフな格好ではあるものの、黎海山は依然ふんぞり返っていたし、椥辻はテーブルに肘を置いてその沈黙の中で窓から差し込んだ清浄な光を横顔に浴びていた。

 二人の関心は、紛れもない一所にあった。にも関わらず話出さないまま、もう既に十五分が経過している。テーブルにはいつまでも湯気を揺蕩わせるかぐわしいカップが二つ、片方はコーヒーで、片方は紅茶だった。椥辻はいつまでも水面を眺めていた。立ち上った湯気で眼鏡が曇っているにも関わらず、動こうという気にはならなかった。

 ざらり、ざらめ糖を零したような雨が急に降った。柔らかな日差しが雨に遮られ、光の中で拡散して降り注ぐように飛び散った。ホワイトノイズの中に沈んだ事務所の居間は水底のように静まり返って、耳を手のひらで塞いだような曖昧な沈黙が二人の呼吸を融和させていた。激しく降り注いだ雨は狐の嫁入りである。表に見える深泥池はいやに澄んで、鏡のような水面があばたづらになっている。雨の音がひた、と止んだ。すると、二人の視線はようやくかち合って指はカップへと向かった。そして中身は一気に飲み込まれ、短いため息が二つ満ちた。

「さて、椥辻。君に話すべきことがあるんだ。聞いてくれるかね」

「同感だ。黎海山、お前に聞かなきゃならないことがある」

「順番はどうするかね。君が決めて良い」

「もちろんだ、当然、こちらから聞かせてもらう」

「良いとも。我らの仲だ。血肉を交え、互いの心臓を狙い――類まれなる凄惨な交歓によってここに辿り着いた、奇跡の仲だ。今更肩肘張る必要はないとも。さあ、聞き給え。煙を一口いただこう」

 一服の紫煙が風に揺らごうとした時、煙管は椥辻の手によって握られて黎海山の口から引き抜かれた。当て所を失った口は、ひょうきんな面持ちで椥辻を見下ろした。

「おっ、と。気に障ったかね」

「違う。よく見ろ。いざりがそこで寝てる」

 椥辻が煙管の先で指した箪笥には、身体を箪笥に凭れかけてすやすやと眠っている――ように見える、いざりがいた。正確には、寝ているわけではない。今のいざりは魂の入っていない肉そのものであり、呼吸というような生命維持の装置は働いていない。つまり屍体と殆どニアリーイコールなのである。当然、受動喫煙、そんな概念も存在しないし健康もない。それを、椥辻は知っている。知っているけれどいざりは見目によるとやはり子供で、それもなぜあんなところで寝ているかの原因が自分と囀子の物語の中にあるというのだから、椥辻は敬意を払う。

 人として扱われ、人として愛される――それはいざりの最も渇望する部分であり、彼自身、もしくは中に入っている少女自身においてはなによりもの褒章であるのだから。

「これはこれは……なるほど。君らしいといえば君らしい」

「いざりを寝かせてくるから、それから吸えばいい」

「ふう。わかったとも」

 ことり、と灰皿に煙管が置かれ、椥辻はいざりを抱えあげると奥の階段を上がって翻った先にある小さな一室へ入り込んだ。そこは家の北側、山側に位置しており昼間でも薄暗い。部屋の真ん中に置かれた白木の箱には、枯れない造花の百合や菊、カーネーションなどの花々が散りばめられている。棺の底にはふかふかした綿が敷き詰められてあり、丁度少年の体格に合致するように窪んでいる。

 この箱が、いざりの寝具であり、そのまま棺だった。椥辻は力の抜けきった首を転ばせないように優しく抱きしめながら、彼の冷たい身体を安置した。そして瞼を閉じ、口を閉じてやってめくれ上がった襟を正しその身体を美しく整えると、頭の近くにきらきら光る大きな偽物の宝石が付けられたバレッタと黄金糖を置いた。何度もいざりをこうしたことはあるけれど、椥辻はその度に妙な気分になる。何度も目を覚まし、何度も目を輝かせて笑ういざりは、役目が終わると屍体に戻る。その度にねだられた品物をくれてやり、好物の黄金糖を供えてやる。まるでいざりの死に何度も立ち会っているような気分だった。出自も親も知らない子の葬式を、自分ひとりが勤めているような心細さ。細く棚引く塵芥のような光の中、彼を何度も看取っている。

 彼女の願いは――母に会いたい、だそうだ。

 囀子と同じだ。

 そして、囀子の行く末だったのかも知れない。

 誰にも救われず行き過ぎたいざりと、踏み止まった囀子。

 囀子にしてやったことを、いざりにもしてやりたい、そのように思う気持ちがないわけではないけれど、現実的に出来るはずもなく。

 なにせいざりはもう、ずっとずっと前、一年や二年ではない、椥辻の起こしたあの誘拐事件の時から変わらずこのままだ。きっと新石がこちらに来るよりもずっと前から――ともすると囀子や椥辻が生まれる前から、このような形で新石と共にあるのかもしれない。

 それは――なんとも寂しいことだと椥辻は思う。母に会いたい、そういう気持ちを抱えて何度も死に、何度も生き返る。新石という紛い物の母の、真実ではない愛情で満たされる空の瓶。甘くて優しい乳飲料の詰まっていた瓶に、今は水しか入っていない。透き通り、向こうまで見透かせてしまう。

 けれど、だからといって椥辻が新石を非難できるはずもなく。

 いざりに何度も救われた、弱い自分を棚上げにしてそんなこと言えるはずもなく。

 だから椥辻はいつも、こうしていざりの願いを聞いてやる。まるで不憫な子供をお菓子であやしつける悪いおじさんのようだ――というような自己嫌悪を一握り得ながら、彼女の頭を撫でてやる。

「ありがとう。おかげで、大切な人が助かった」

 いざりを犠牲に、生き残っている。

 これまで関わってきた多くの人々が。

 そして――自分が。

『いつかお前を返してやるよ。お母さんのとこに』

 と、言いたいけれど、今日も言うことが出来ず終わる。

 軋む階段を降りるごとに、階下の景色が見えてきた。視線を居間に流すと、黎海山は既に煙を飲んでいた。呑気なものだ、と椥辻は辟易する。そして紅いソファへと腰を下ろすと、口を開いた。内容は一つである。

「黎海山。お前、嘘ついただろ。囀子についてた異常識、アレとこっちが昨日持ち帰った蜂の異常識、あれは『別個体』だ」

 ふむ、と豊かな顎髭をさすりながら黎海山は唇の端を持ち上げた。そして微睡んだ猫のような瞳を左に流すと、思い返すように口を開く。

「バレてしまったようだな。その通り。あの蜂は実のところ囀子のものではない。当然、彼女の異常識も完全に無力化しただけだ。殺してはいない」

「……多分、囀子の体調とか色々考えた結果なんだろうけどさ。俺はなんでそんなまだるっこしいことをしたって聞いてるんだ」

「君が危険だったからだよ」

「え? 俺が?」

 鳩が豆鉄砲食らったみたいに首を傾げた椥辻の目に、ニカりと笑った黎海山の白い歯の煌めきが映る。

「その通り。囀子の持っていた『似我蜂』一匹は、彼女にしか異常識を及ぼしていない。しかしながら、彼女は他の蜂のを通ってしまった。つまり、あの公園だよ。それどころか、彼女は自分の中に蜂がいるにも関わらず、知らずに自宅まで招き込んでしまった。そして招き込んだ蜂が彼女を刺した。そのことによって現れた発作がまず、この事件の第一段階。彼女が火照りに耐えきれず、君の寝床に夜這いを仕掛けてきた理由だよ」

「でも、それがなんで俺の危険と繋がるんだよ」

「蜂は新たな獲物を探していたからだ。君もくだんの事件を調べたならわかるだろう? 蜂の母親は、新しい犠牲者を探す。自分の子供に成り代わる――つまり芋虫だ」

 芋虫――。

 似我蜂の異常識、つまり、似てなくても良い、とにかく穴蔵まで連れていきたい子供、ということか。と椥辻は納得する。

「それが、君。斎宮椥辻だった」

「……まさか」

「まさかでもない、至極当然なことだろう。君は知っているはずだ。似我蜂の母親が連れて行った子供は、決して成長段階、容姿を含めて元の子供には似ていなかったはずだ」

 眠たそうに、黎海山は告げる。だが言われれば、反論できない。そもそも新生児の状態で死んでいたあの子供と似ている子供なんて存在するはずがない。しかも母親が探していたのは、『小学生くらいの子供』の方だった。ということは、そもそもあの母親が探しているのは、自分の子供ではない。

「誰でもよかった、のか」

「その通りだ。君は君を救わなければならなかった。結局のところ、君は自分が似我蜂の芋虫になる前に、卵か母蜂かを殺さなければならなかった。故に、私は並行して君たちに対応した。囀子はこちらで請け負い、君の方は君で対応させる。だから持って行けと言ったはずだ。本来持ち運ばせないような仕事道具を。まあ、人形に蜂を閉じ込めて持って帰って来た時は新石もかなり驚いていたが」

 ……唖然とする。同時に、その手腕に、感嘆する。

 こんな結末、孫悟空が釈迦の手のひらの上で飛び回っていたようなものだ。勝てない、と納得する。

「昨日の夕刻直前か、あの公園に入った途端、異常識側に引き込まれて辺りの景色がおかしくなった。それ、もしかして俺の中にあった蜂の影響だったのか?」

「ああ。だって君、阿波礼の見ていた景色を思い出し給え。君だけがおかしかったのではないかね? それに私は時刻まで指定しておいたはずだ。夕刻、日が沈むまでに解決しろ。と」

「ということは、あれって囀子のタイムリミットじゃなくて」

 黎海山は灰皿に煙管の燃え殻を返してこちらを忽せな視線で見た。赤黒い瞳の向こうにその影は揺れていた。

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