月、ラブ

文明参画

月、ラブ

 漆黒の闇の中、灰色の帯が虚空へと広がってゆく。

 レゴリスと呼ばれる塵芥ダストによるものだ。

 地球を離れることおよそ三十一万キロメートルの真空中――L1と呼ばれる宙域に、次々と打ち上げられている。


「いつ見てもきれいだなあ……」


 気密ヘルメットの中に少女の声がこだました。

 見つめる先にあるのはもちろんレゴリスの帯だ。

 地球の第一衛星、月から採掘され、年間一千万トンを超える量が日々ひび虚空へと散布され続けている。少女が見つめるのはその光景だった。


「おーい、ハティ。ハティ・ベオウルフ。いつまでも見とれていないで作業に集中してくれ」


 感慨にふける少女――ハティの想いをさえぎるかのように通信が割り込む。作業艇ボート内から指示を下す、野太い中年男性の声だった。


「わかってるよ、カントク」


「L5にやってきてそれなりに経つが……どうだ、EMUの調子は。前世紀の型落ち品だから色々と不便かもしれんが……」


「問題なし。今日もなかなかにご機嫌よ」


 少しはしゃぐようにして応えるハティ。

 彼女はいま、EMU――Extravehicular Mobility Unitと呼ばれる船外活動宇宙服に身を固め、真空での作業の只中にある。二十三世紀を迎えた現在、すっかり旧式のものとなったタイプの白い宇宙服は、言ってみれば人型の棺桶のようなもので、自在に動かせるのは両手の先ぐらいしかない。

 お世辞にも機能的とは言えない代物しろものだが、ハティは慣れた手つきで手元の工具を自在に操ってみせた。


「第三月の完成までまだまだかかるね」


「そうだな……着工してからはや二年か。計画では全工程完了まで七年ほどとなっているが、まぁ、お前らがいる限り頓挫の心配はないだろうさ」


 通信の声はそう告げた。


 ちなみにカントクというのは現場監督のことだ。現在、彼らが従事している作業はL5宙域に建造中の人工天体――通称・第三月と呼ばれる現場だった。


 そして遥か彼方にあるL4宙域には、すでに完成を見た第二月が鎮座している。そちらはごくごく小さな構造物に過ぎないが、現在の地球環境を維持するためには欠かせない重要な設備でもある。


 これら第二、第三の月が建造されているのには当然、理由があった。

 二十世紀末から急速に進んだ地球温暖化――その解決方法として提唱されたのが、太陽と地球の間にダストによる遮蔽物を展開し、太陽光を部分的に遮るというものだった。

 散布場所は月軌道にほど近いラグランジュ1とされた。この位置に配置された物体は、地球から見て常に同じ位置をキープしながら太陽の周囲を公転することになっている。ゆえに、もっとも手近なL1宙域が選ばれたのは必然だったのだ。


「とは言え、必要とされるダスト量は最低でも年間一千万トンとされた」とカントクは言う。


「そうだね、地球からその軌道まで持っていけるような量じゃない」


「ああ。で、おさらいだハティ。そんな大質量をどこから調達するのか……」


「月のレゴリスだね」


 そう言って少女は彼方に吹き上がる灰色の粉塵を指し示して見せる。

 月面から採掘され、打ち上げられるレゴリスはとこどころ光って見えて、極めて神秘的な光景だ。天体ショーといっても差し支えない。少女が夢中になる理由もそこにあった。


 しかし問題はある。

 日々宇宙空間に投棄されるレゴリスによって、いつか遠い未来――月の質量が減少することは誰の目にも明らかだったのである。


「月の質量がかわれば、地球の潮力ちょうりょくや環境にも甚大な影響を及ぼしてしまう」


 カントクの言うことはもっともだった。


「だからこそ、そんな来たるべき未来に備えて、第二、第三の人工月を建造してバランスを取ろうってわけだよね」


「上出来だ、ハティ。よく分かっているじゃないか」


「スクールでさんざん習ったもの。この程度は朝飯前よ」


 そう言いながら作業を続ける。宇宙空間での建設作業は地球のそれよりも遥かに危険で過酷なものだ。一歩間違えれば命を簡単に失う。そんな現場になぜ、こんな年端もゆかぬむすめが駆り出されているのか――


 カントクは思った。

 本来は我々大人が出るべき場面のはずだ――と。

 しかしそれにも限界があった。いまだ人類は進化の途上にあると言っていい。過酷な宇宙環境で長時間、それも重労働に従事可能な存在は限られている。なにせ、分厚い宇宙服を着た状態では工具を握るのも、内圧の関係で一苦労なのだ。それを、あの少女――ハティ・ベオウルフは苦も無くこなしている。


(ポストヒューマン……かつては人狼とも呼ばれた種族か)


 それはある種の特異体質者に対してつけられた呼び名だった。

 月の輝きを身に受けることで、細胞や筋肉など全身の能力を飛躍的に向上させられる体質の存在が彼女たち――すなわち人狼の末裔まつえいだったのだ。


 いわゆる超感覚体質でもある。

 月光によって活性化したその肉体は、重装備状態での長時間労働をいとも容易たやすくこなしてしまう。まさしく宇宙時代に適応した新たな人類の姿だった。ゆえに人狼の名がつけられたのだ。もちろん、差別的という世論から今ではその呼称は封印されているものの、ハティたちポストヒューマンは大して気にしていない。かれらにとって、それはごく当たり前の日常なのだから……。


「そういえば――」と思う。「こよみの上では今日は十五夜じゅうごやだったな……」


「十五夜ってなあに?」


「ああ、お前は知らなかったな。日本という国の古い慣習だよ。月を見ながら米粉こめこで作った団子を供えて酒を飲むんだ。月見酒つきみざけっていうんだぜ」


「ふぅん、でも月ならこうしてホラ、毎日見ているけれども」


「今の季節の月は名月めいげつっていうんだよ。いつかお前も地球へ降りたら夜空を見上げてみるといい。夜空に金色の円盤が輝くようで、絶品だぞ」


 そう言いながら、心のどこかでこうも思っている。


(かつてと同じ月が、果たしてこれからも見られるのだろうか……)


 男の目には二つの未来が映っている。

 削り取られ徐々に縮んでゆく月と、新たに生まれる人工の月たち。

 それらが人類にもたらす未来の姿だ。


 それは次の世代――ハティたちにたくされる未来でもある。

 願わくばそのときまでは月がありますように……。

 作業を終え作業艇ボートに帰還する少女を迎えながら、カントクはそう祈っていた。

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