第2話 清洲城の武将たち

 翌朝ひとりでに目が覚めた。


 寝床が固いし、姿勢も良くなかったのか、体中が痛い。


 起き上がると、脳内モニターが起動して、昨日と同様の情報が表示された。


 俺はちょっとばかりホッとした。


 万一、この情報が途切れたら、俺は戦国時代で自分の身一つで生きていかなければならないのだ。


 最強の軍師どころか、雑兵にすらなれずに野垂れ死にだろう。


 現在地は戦国時代の尾張国、清洲城下の木下藤吉郎の家――物置小屋並みだけど――だ。


 時刻は朝の四時半だが、夏至に近い時期なので屋根や壁の隙間からもう朝の光が差し込んでいた。


「ん、おぬしも起きておったか」


 声の方に顔を向けると、藤吉郎が両腕を天井に突き上げながら体を起こしていた。


「おはようございます」


「ふう、よく寝た。ぐっすりだったな」


 ずいぶん夢でうなされてたみたいだけどね。


 立ち上がった藤吉郎のふんどしが緩んで、モノが顔を出している。


 体は小さいのに朝立ちでカッチカチのビンビンだ。


「おっと、コイツは失礼。下半身の天狗てんぐには寝ててもらおうか」


 自分で自分のモノを自慢しつつ、そそくさとしまって外へ出ようとする。


「どこ行くんですか」


「顔を洗いにだ。おぬしも来い」


 この時代の生活習慣に早く慣れなくてはいけない。


 夕飯の時と同様、言われるままに俺はついていった。


 空は曇りで、梅雨の季節にふさわしく少しばかり湿気もある。


 藤吉郎の小屋がある区域は足軽などの下級武士だけでなく、行商人や職人も住んでいるらしく、家の裏にある井戸の周囲では様々な人々が朝の支度をしていた。


 中にはお坊さんもいて、褌一丁ふんどしいっちょうで頭から水をかぶって身を清めている。


 藤吉郎がおけに水をくんでくれて、俺も一緒に顔を洗わせてもらった。


 水が冷たくて頭がすっきりする。


 と、そこへ若い大人の女性がやってきて、いきなり着物をはだけて上半身を丸出しにしたかと思うと、桶に水をくんで手ぬぐいで体をふき始めた。


 ちょっと垂れ気味の乳房に色の濃い乳輪が丸見えだ。


 なのに誰もその姿を見ようともしない。


 スケベ野郎の藤吉郎ですら、近所の人々と陽気に会話をしていて女性の裸体には無反応だ。


 俺は本物の女性の裸体を間近に見たのは初めてだから、さすがに下半身を硬直させることはなかったものの、つい目が行ってしまう。


 腕を上げると脇毛がぼうぼうだ。


 この時代はそれが当たり前だったんだろうか。


 体を拭き終えた女性はすっきりとした笑みを浮かべながら着物をまとうと、まわりに会釈しながら去っていった。


 あまりにも堂々としていたせいか、最初は驚いた俺もあっさり見慣れた感じになっていた。


 寧々さんみたいな美少女が恥じらえば藤吉郎が言うように興奮するんだろうけど、もろに見せつけられると、牧場で草をむ牛の乳と同じになるらしい。


 それが日常の風景だと、誰も関心を持たないんだろうな。


 だからといってさすがに令和の俺は皆の前で裸になる勇気はないけど、後で手ぬぐいを貸してもらって体を拭こうかな。


 井戸端から人が少なくなって藤吉郎と小屋にもどると、おなかが派手に音を立てた。


「朝ご飯はどうするんですか」


「城に上がれば朝飯を食わせてもらえる。おぬしも来い」


「お殿様にも会わせてもらえますか」


「いや、さすがにそこまでは無理じゃ。だが、上役に話はしてみるつもりじゃ」


 そんなにのんびりしてたら今川の軍勢に攻め込まれるんだけどな。


 このまま無駄に時間が過ぎていくのは困る。


 桶狭間の大逆転どころか、織田信長が今川義元に討ち取られて後世の評価が逆転してしまう。


 ――ん?


 よく考えてみたら、それはそれで俺はべつに困らないのか。


 なんなら、今川義元に油断するなとアドバイスをしたっていいんだよな。


 実際、『信長のアレ』を他の大名でプレイしていると、桶狭間イベント発生の時に二十回に一回くらいの割合で今川が勝ってしまうこともあるのだ。


 そしたら、松平元康だって今川傘下のままだから、令和の時代に静岡駅前から徳川家康の銅像が消えて、英雄今川義元に変わってるんだろうな。


 ――ま、織田信長ですらお目通りがかなわないのに、もっと身分の高い今川義元なんて、俺みたいな不審者の言うことなんて、どうせ耳を貸してくれないか。


 やっぱり、今川義元には討ち取られて永遠の負け犬になってもらおう。


 と、その時だった。


 鉄の扉が閉まるような重苦しい効果音とともに、脳内モニターに画面がポップアップした。


《伝令:今川義元の軍勢が織田領内へ入りました。先鋒の松平元康が兵糧を運び入れるために大高城へ向かっています》


 おお、ついに来たか。


「大変ですよ!」


 俺は藤吉郎の肩をつかんで揺すぶった。


「な、何事でござるか」


「天下の一大事なんですよ、藤吉郎殿。言ったとおり、いよいよ今川が攻めてきます。織田領に入りました」


「なんと、ずいぶんとはっきりと言うでござるな。どうして分かった?」


「説明している暇はありません。すぐに織田のお殿様に会わせてください」


「いや、いくらなんでも、それは無理だ。だからまずは上役に話を通して……」


「そんなことを言っている間にまたとない機会を逃していいんですか。出世のチャンス……好機ですよ。堂々と寧々さんを手に入れることができるんですよ」


「いやべつに……」と、歯切れが悪い。「いざ夫婦になったら気軽に浮気もできなくなるからのう。やるだけなら今のままの方がいいし」


 ああ、もう、クズ野郎の話なんかどうでもいい。


「いいから早く」と、俺は藤吉郎の胸ぐらをつかんで表通りに引っ張り出した。「今川の軍勢は一週間以内に桶狭間に来ます。それまでに織田の兵を集めて返り討ちにするんですよ。お城の壁だって修理しなければならないんですよね」


「それはそうじゃが、今さら間に合わぬであろう」


「いい考えがあるんですって」


 歴史の逸話では、藤吉郎は人夫を組に分けて修理する壁の範囲を少しずつ割り当て、褒美を約束して競争させ、全体を数日で組み上げてしまったらしい。


 本人がそれを思いつかないのなら、俺が教えてやればいいだけだ。


 なのに、藤吉郎は首をひねってうなるばかりだ。


「そのようなやり方で本当にうまくいくのか?」


 あのね、元はあなたのアイディアなんですよ。


「やってみなくちゃわからないでしょ。うまくいけば手柄を独り占めできますよ」


「出しゃばるなと怒られるだけだと思うぞ」


「寧々さんに言いつけますよ。藤吉郎殿は結婚する気などないと」


「そ、それは困る。寧々殿のお父上に知られたら、打ち首だ」


「だから、やるしかないんですよ」


「いやなあ、でも、わしが上役に生意気な口出しなどしたら……」


 なんだよ、弱気だなあ。


 これが後に天下を統一する豊臣秀吉なのか。


 なんとも煮え切らない男だ。


 偽者なんじゃないのか。


『信長のアレ』では上杉謙信女性説なんていう設定も選べたり、徳川家康にも影武者説があるらしいけど、偉くなってからならともかく、こんな下っ端の藤吉郎に影武者なんているわけないか。


「なあ、頼むから俺を信じてくれよ」


「なんじゃ、いきなり無礼な口の利き方だな」


 いや、まあ、つい焦った勢いで言っちゃったけど、そんなこと気にしてる場合じゃないんだよ。


「今を逃したら二度と出世できなくなるんだぞ。偉くなれば、寧々さんどころか、どんなお姫様だって藤吉郎の思うままにできるんだからさ」


 サルがゴクリとつばを飲み込む。


「ど、どんな姫様でもか」


「ああ」


「お、お市殿でもか?」


 お市というのは信長の妹で、浅井長政に嫁ぐんだよな。


 で、信長に命じられた豊臣秀吉の攻撃で浅井家が滅亡した後は織田家に帰り、柴田勝家と再婚して、そこでもまた豊臣秀吉に滅ぼされるんだ。


 だから史実では、お市殿は生涯豊臣秀吉を恨んで許さなかったらしい。


 鼻の下を伸ばしたスケベ男にそんな未来を教えたら泡吹いて倒れるだろうから内緒にしておこう。


「大丈夫。側室なんか何人でも持てますよ。やり捨て御免で酒池肉林」


「うほっ、鼻血が出そうじゃ」と、押さえたのは鼻ではなく股間だった。


 見た目も中身も、ホント、サルだな。


 ――天狗の鼻とか自慢してたっけか。


 そんなことはどうでもいい。


「だから早くお城へ連れていってくれ」と、肩を揺すってせかす。


「今すぐか?」


「今しかないでしょ。今川の軍勢は待ってくれないんだから」


「よし、分かった。行って話してみよう」


 藤吉郎を説き伏せて俺はなんとか城へ案内してもらうことができた。


 だが、城門でまた足止めを食ってしまった。


「おいこら、おまえたちどこへ行く」と、角棒を持った門番が両側から立ちはだかる。


「お館様に大事な話があるのじゃ」


 そう告げた藤吉郎を二人が鼻で笑う。


「馬鹿を言うな。おまえごとき下っ端がお館様にお目通りがかなうはずもなかろう。帰れ」


「今川が攻めてくるのだぞ」


「何、それは本当か」と、二人が顔を見合わせる。「どこでそれを見てきた」


「いや、見た来たわけではないが」と、藤吉郎が俺を二人の前に突き出した。「この者が間違いないと言うておる」


「何じゃおまえは」と、門番は俺を上から下までなめ回すように見てからにらみつけてきた。「南蛮人のような格好をしおって」


「まあ、遠くから来た者です」


「それがなぜここにおる」


「ですから、織田家の存亡に関わる情報を届けに来たんですよ」


「怪しいやつ。うまい話で油断させる刺客かもしれん」


 身分の差が大きい時代っていうのは面倒だな。


 下っ端の藤吉郎の紹介だと、殿様に会うどころか、城の中に入れてもらうことすら許されないとは。


 まあそりゃあ、令和の世の中でも、大企業の社長にいきなり合わせろなんて高校生が押しかけたら門前払いされるか。


 迷惑系ユーチューバーの突撃と変わらないもんな。


「なんとかしてくださいよ」と、俺は藤吉郎に耳打ちした。


「すまんのう。わしには権限がないからのう」


 ぽりぽりと鼻の頭をかくばかりで腰が引けている。


 すると、俺たちの後ろを見て門番が姿勢を正した。


 ん?


 誰か来たのか?


「こら、サル、何をしておる」


 振り向いた藤吉郎が慌ててわきに一歩下がる。


「これは柴田殿」


「サル、この者は?」


「南蛮人と申しております。お館様に耳寄りな話があるそうで」


 厳ついひげ面のおっさんが俺に詰め寄る。


「南蛮人にしては、大和やまと人と見た目が変わらぬが、背だけは南蛮人並みだな」


 確かに俺は令和では高校生の平均的な身長だが、戦国時代に来ると頭半分くらい余裕で大きく、ほとんどの大人に見上げられている。


 脳内にウィンドウが浮かび上がった。


《柴田勝家:武勇に優れた織田家宿老三十八歳。統率94、武勇96、知略54、政治64》


 おお、この人が柴田勝家か。


 圧巻の統率と武勇。


 さすがに数値がずば抜けているな。


 元々は信長の弟である信勝の家臣だったのが、うつけと呼ばれた兄を馬鹿にし謀反を企てた信勝を見限り、信長についたんだったっけ。


 史実では本能寺の変の後は織田家の跡目争いで秀吉に主導権を取られ、再婚したお市様と共に北陸の北ノ庄城で最期を迎えるんだよな。


「アナタモ、ナンバンジンデスカ?」


 柴田勝家の後ろから姿を現したのは、青い目の西洋人だった。


 藤吉郎と同じくらいの年頃の若い男で、身長は俺より頭半分くらい大きく、いかにも西洋人っぽい癖っ毛の金髪をなでつけながら前のめりに話しかけてくる。


「アナタハドコ出身デスカ?」と、外人なのに日本語ペラペラだ。「私はイギリスの商人、デイブ・スミッシー……というのは表向きで、武蔵国むさしのくに行田ぎょうだ出身です。サキタマの古墳から出土しました。好きな食べ物は最中モナカデース」



 なんだコイツ?


 滑ってるのにまるで意に介さずまくしたてる。


「冗談デスヨ。マイケルはジョーダンが好きネ。僕はデイブですけど」


「は、はあ……」と、俺は押され気味に名乗った。「坂巻悠斗です。神奈川県三浦市……ええと、相模国さがみのくにの三浦出身です」


 まさか変な外人が出現するとは思いもしてなかったから、つい本当のことを口走ってしまった。


 南蛮人の設定が吹っ飛んだけど、しかたがないか。


 オーウと欧米みたいなジェスチャーで大げさに手を広げながら俺にハグしてくる。


「では、フランク三浦と気軽に呼んでもいいですカ?」


 いや、駄目だろ。


「坂巻悠斗です」


「堅いこと言わナーイ。気軽にね。フランクにね。ミウラさん」


「いや、坂巻です」


 俺が滑ってるみたいでめちゃくちゃ恥ずかしい。


 柴田勝家が俺たちの間に入る。


「おい、デイブ殿、殿が待っておられる。話は手短にな」


「ハーイ、スミマセーン」


 デイブは俺にウインクすると、わざとらしいアクセントでおどけながらフランクに柴田勝家の肩を叩いた。


「シバタサーン、この人も一緒にお殿様に連れていきましょう」と、俺を推薦してくれるらしい。


「ふうむ、新しい南蛮人か」と、あごひげを撫でながら柴田勝家が俺を眺める。「まあ良かろう。藤吉郎、おまえも来い」


「ハハッ。ありがたき幸せ」


 立位体前屈測定か折りたたみガラケーかよというくらい腰を曲げて頭を下げる。


 上司に取り入る技術は天下一品だな。


 ともあれ、こうして俺は清洲城に入ることができた。


 いよいよあの織田信長と対面だ。


『信長のアレ』を千回クリアした身としては体が震えるほど感慨深い。


 まさか本物に会う日が来るとはな。


 でも、緊張するぜ。


 その短気な性格を『鳴かぬなら殺してしまえホトトギス』と評された人だからな。


 気を悪くさせたら打ち首だ。


 今川が攻めてくるという情報を納得させるだけでなく、出陣を決断させなければならないんだ。


 史実通りならうまくいくはずだけど、うまく事が運ぶんだろうか。


 そんな心配をしている俺にデイブが話しかけてくる。


「三浦さんは商人ですか?」


 いやだから、坂巻悠斗ですって。


 フランクでも三浦でもねえから。


「軍師です」


「洋服を着ているジパングの人は珍しいデスネ」


 俺が相手にしないで黙っていると、デイブがささやく。


「あなた本当は未来から来たんじゃありませんか」


 うっ……。


 なんで分かる?


「私、実はね……」と、軽やかなウインクが迫ってくる。「宇宙人なんです」


 はあ?


 と、いきなり俺の肩に手を回し、頬が触れ合いそうなほど引き寄せる。


「ジャスト・キディン。JK、JK。ジョークですよ。地球人はみな宇宙人」


 うぜえ。


 こういう陽キャは俺の天敵だ。


「日本語上手なのはいいですけど、ジョークが滑ってますよ」


「オーウ」と、欧米みたいなジェスチャーで肩をすくめる。「それを言っちゃあ終わりですよ。ここが尾張国おわりのくにだけにね」


「ガハハ」と、柴田勝家が豪快に笑う。「デイブ殿、おぬしの冗談、ますます冴えておるな。殿の御前ごぜんでもその調子で頼むぞ」


「かしこまりまして。ペコリ」


 俺は一歩後ろを歩いている藤吉郎に並んで耳打ちした。


「この南蛮人、いつもこんな感じなのか?」


「いや、知らん。わしも下っ端じゃから、今日初めて会ったのでな」


 デイブが振り向いて俺にウインクする。


「怪しさで言えば、あなただって大差ないですよ」


 こいつに言われたくはないが、まあそれは確かにそうなのだ。


 城門をくぐってすぐの壁が崩れている。


 修理のために集められた人々がいるけど、どうも働いている人はごくわずかで、手持ち無沙汰にただ眺めているだけの人が多い。


「あの人たちはなんで何もしていないんですか」


「壁を塗る職人だからだ」と、柴田勝家が答える。「土台ができておらぬから出番がないのじゃ。材料を加工して組み上げ、それからようやく壁を塗る。だが、この曲輪は狭くて作業をする場所もないゆえに、人はおるのだが、仕事が進まないのじゃ」


「ならば、やり方を変えたらどうでしょうか」


「と申すと?」


 柴田勝家は俺の話に耳を傾けてくれた。


「城外の広い場所で壁の基礎を組んで、できあがったものを運び込んで設置すれば良いのではないでしょうか」


「なるほど、それは良いな」


「それと、壁をいくつかの区画に分けて、みなで競わせてはいかがでしょうか。早くできた組から褒美を与えることにすれば、無駄な待ち時間を減らす工夫をして、すぐにでも仕上がるでしょう」


「ほう、おぬし、なかなか良いことを考えるのう」


「これは藤吉郎殿と昨夜相談しておいたことでございます」


 俺は自分の手柄にせず、あくまでも藤吉郎のアイディアということにした。


 実際、俺は未来の世界で豊臣秀吉の伝記を読んで知ったわけで、そもそも藤吉郎の考えたことだからだ。


 なのに、手柄を譲られた当人が一番驚いていた。


「いやいや、拙者はそのようなこと思いもしませんでしたぞ」


 正直すぎる藤吉郎を柴田勝家が豪快に笑う。


「なんじゃ、サル、おぬしにしては謙虚よのう。いつもはできもせぬことをしゃしゃり出て失敗ばかりしておるくせに」


 ああ、口だけ番長のお調子者ってわけか。


「他にも」と、俺は横から続けた。「この事前に組み上げたものを運び入れる方法を使えば、敵前に一夜で城を築くこともできます……と、藤吉郎殿が申しておりました」


 現代の仮説住宅なんかで使われるプレハブ方式だ。


戦場いくさばでそううまくいくかどうかは分からぬが、考えとしては面白い」


 柴田勝家は髭の下に笑みを浮かべると、藤吉郎に命じた。


「サル、おぬしがこの者に話したとおりにやってみるが良い。おまえが現場監督だ。殿には俺から話をしてやる」


「ハハッ。本日からすぐに取りかかりまする」


「その代わり、口だけでできぬとあらば切腹だ。良いな」


「そ、それは」と、藤吉郎は青い顔で震えている。


「武士の作法で死ねるのだ。これも出世というものよ。ガハハ」


 柴田勝家の後ろを歩きながら藤吉郎が俺の脇腹をつついた。


「死にとうないでござるよ。おぬしのせいでこんなことになったのだぞ。わしの身代わりに切腹しろ」


 まったく弱気で困る。


 まだ失敗したわけでもないだろうに。


 本当に、これが後に天下を取る男なんだろうか。


 今は柴田勝家にペコペコしてるけど、本能寺の変の後には立場が逆転するのにな。


 ――でも、その歴史も俺の行動次第で変わっていくのかもしれないのか。


 歴史シミュレーションゲームは同じ条件から始めても、決して同じ展開にはならないからな。


 俺たちはいくつかの曲輪を抜けてそのまま城内で一番大きな建物の前まで来た。


「ここがお館様の御殿だ」と、藤吉郎が耳打ちする。


 御殿?


 かやぶき屋根の平屋で、見た目はちょっと大きめな農家の家みたいな感じだ。


 御殿というと教科書で見た藤原氏の寝殿造りみたいな建物を想像していた俺からすると拍子抜けだ。


 ただ、建物の外側に縁側のような廊下があるところなどは昔の和風建築共通の特徴のようで、隣の建物とも廊下でつながっている。


 草履を脱いだ柴田勝家に続いて、靴を脱いで御殿に上がる。


「変わった履き物じゃな」と、臭いを嗅ぎそうな勢いで柴田勝家が俺の靴を見つめている。「デイブ殿の靴とも違うようじゃ」


「オーウ、そうですか」と、デイブも腰を曲げて俺の靴をのぞき込む。「ああ、《ニケ》と書いてありますね」


「知っておるのか?」


「ニケはギリシアの勝利の女神です」


「ほう、南蛮の縁起物か」と、柴田勝家が俺のランニングシューズを持ち上げる。「見た目よりも軽いし、わらじよりも歩きやすそうだな」


 そして、そのまま俺の靴を持って廊下を歩き出した。


 ちょ、え、それ、どうするの?


 俺の表情を見て柴田勝家がニヤリと笑みを浮かべる。


「この珍しい靴を殿にお目にかければ、そなたが南蛮人であると話が伝わりやすいであろう」


 ああ、そうか。


 ちゃんと新参者の俺のアイディアも好意的に取り入れてくれるし、案外、思考が柔軟で融通の利く人なのかも。


 この調子で織田信長との会見もうまくいけばいいな。


 と、その時だった。


 小さな中庭を挟んだ隣の建物の廊下に、お付きの者を数人従えた髪の長い女性が現れた。


 引きずるほど裾の長い着物は蝶や花の柄があでやかだ。


「ああ、オイチサーン」


 デイブがいきなり大きく手を振った。


「ばっ馬鹿者」と、藤吉郎が馬跳びの勢いでデイブの背中に飛びつく。「頭が高い。気安く話しかけるな。控えろ」


 無理矢理頭を押さえつけるが、それでもデイブは甲羅から首を伸ばす亀のように中腰のまま顔を向けて手を振り続けている。


 向こうも騒ぎに気づいたのか、立ち止まってこちらに視線を向けた。


《お市:織田信長の妹、十四歳。後の浅井長政夫人。浅井家滅亡後は柴田勝家に嫁ぎ、北ノ庄城で自害》


 そんな情報がポップアップしたが、姫の姿に見とれてしまい、チェックする余裕などなかった。


 絶世の美女だとは聞いていたけど、それ以上だった。


 柔和な頬と艶のいい唇には穏やかな笑みが浮かび、和風顔のせいで決して高くはないけどすっと通った鼻筋と丸い額からは聡明さがあふれ、まさに舞い降りた天女のようだが、まわりを囲む付き人たちの間からこちらを見つめる涼やかな目元は武家のお嬢様らしい凜とした気高さに満ちていて、思わずこちらも背筋が伸びる。


 令和のどんな女優が演じても足元にも及ばない。


 寧々さんのような可憐さとは違う。


 触れようとする者の指が折れるような圧倒的な神々しさを持った本物の美だ。


 俺の横では柴田勝家が頬を赤くして硬直していた。


 鼻の頭には汗までかいている。


 このおっさんも藤吉郎と本質は変わらないのかもな。


 数十年後に、憧れの相手と結婚するなんて教えたらどうなるんだろう。


『からかうんじゃない』とか、殴られるかも。


 そんな想像をしていたら、ふと、お市様とまっすぐに目が合ったような気がして俺は頭を下げた。


 令和の高校では女子の眼中にも入れてもらえなかった俺ごときが視線を合わせて良い相手とは思えなかった。


 向こうの廊下から付き人の女性が一人だけやってくる。


「姫様がこの者は何者かとおたずねでございます」


「私はデイブでーす。ご存じですよネ」


 自分を指さしながら爪先立ちでアピールするデイブを付き人は華麗にスルーした。


「いえ、こちらの御方です」


 ――え、俺?


 間違いなく俺に手を差し伸べている。


「この者は新しく城下に参った南蛮人だそうだ。名前は……」


 柴田勝家の紹介を受けて俺は名乗った。


「坂巻悠斗と申します。軍師です」


「かしこまりました。そのようにお伝えいたします」


 廊下をもどっていく付き人の背中を追いながら、俺はなぜ聞かれたのか分からずに困惑していた。


「うらやましいぞ、おぬし」と、藤吉郎が俺の背中を何度もたたく。「好奇心旺盛な姫様だからのう。南蛮姿のそなたが気になったのであろう。わしも南蛮の服をあつらえてみようかのう」


 藤吉郎は自分の着物に開いた穴から指を出して笑っている。


 麗しい姫様に遭遇した男四人はみな思いがけない眼福に表情が緩んでいた。


「ん、オホン。参るぞ」と、柴田勝家が咳払いをして廊下を再び歩き出す。


 俺たちは後について御殿の奥へと進んだ。


 広い中庭に面した二十畳ほどの座敷まで来て立ち止まると、柴田勝家が俺たちに命じた。


「その方らはここで待っておれ」


「かしこまりました」と、藤吉郎がすぐさま廊下にひざまずき、額がつくほど頭を下げる。


 俺も同じことをした。


 デイブは膝はついたものの、正座のできない西洋人らしく、膝に手を置いて軽く頭を下げていた。


 柴田勝家が廊下の奥へ去ったところで、藤吉郎が俺にささやいた。


「そなた、決して諱を直接言うなよ」


 脳内アラートに《礼節ガイドを起動します》と表示される。


《この時代は信長などの本名を直接呼ぶのは大変失礼なことで、上総介などの通称が使われていました。礼節ガイド機能は、諱を通称に変換したり、どのタイミングで頭を下げるかといったしきたりも教えることができます。表示される通りに従っていれば戦国時代のふるまいで失敗することはないでしょう》


 これは便利だな。


 令和の感覚でしゃべれば自動的に翻訳してくれるから、俺は信長と呼んでしまっていても大丈夫らしい。


 他にも、この場面で頭を下げろとか、脇へよけろといったアラートが表示されるから、その通りにしておけば怒りを買うこともない。


 俺は迷わずオンにした。


 と、その時だった。


 きちんとした身なりの若い侍が廊下を進んできて俺たちに高らかに告げた。


「殿のお成りである。みなの者控えよ」


 藤吉郎が再び額を床にこすりつけるようにひれ伏す。


 デイブと俺もなるべく低くなるように頭を下げた。


 何人もの足音が俺たちのそばを通過していく。


 だが、脳内ガイドが《決して頭を上げてはいけません》と警告を発しているので、俺はじっとしていた。


「その方ども、おもてを上げよ」


《体を起こして顔を上げてください。ただし、奥にいる人物と目を合わせてはいけません》と脳内に礼節ガイドが表示される。


 それに従っておそるおそる顔を上げていくと、左右に分かれて織田家の重臣らしい人々が並んで座っているのが目に入る。


 脳内モニターがせわしなくポップアップする。


林秀貞はやしひでさだ:織田家家老:信長の素行を不安視し、織田信勝を推すが、柴田勝家と共に信長に許され仕える》


池田恒興いけだつねおき:織田家家臣:織田信長とは乳兄弟の関係》


佐久間信盛さくまのぶもり:『退き佐久間』の異名で知られる織田家重臣》


 おお、『信長のアレ』で知ってる武将ばかりだ。


 他にも村井貞勝むらいさだかつ佐々成政さっさなりまさ金森長近かなもりながちか簗田政綱やなだまさつなといった武将もいる。


 だけど、顔のイメージは『信長のアレ』とは全然違うな。


 まあ、そりゃあ、写真のなかった時代だし、残された肖像画も当時は、偉い人は理想的姿に描くべきとされていて、写実的に表現する習慣がなかったらしいから本当の姿は伝わっていないわけで、ゲームのイラストが想像にすぎないのは仕方がない。


 半分頭を上げたあたりで、声を震わせながら藤吉郎が挨拶を述べた。


「お館様にはご機嫌麗しゅう」


 と、いきなり横でデイブが口を挟む。


「ハアイ、ノブナガサーン、ゴキゲンデスカ?」


「ば、馬鹿者、控えろ」と、藤吉郎がまた頭を押さえようとする。


「これ、サルよ、苦しゅうない」と、俺にはまだ見えないが信長の声がする。


 思ったより、柔らかな印象だ。


「しかし、おそれながら……」


「よいよい、サルよ。是非もなし。デイブ殿、わしもそなたのおもしろい話を楽しみにしておったぞ」


 おもしろい?


 コイツのジョークが?


 今は一大事なんだぞ。


 そんなの後にしてくれ。


 俺は頭を下げたまま思わず舌打ちをしてしまった。


「殿、その前に我らの話を」と、藤吉郎が勇気を振り絞って声を上げてくれた。


「おお、そうであったな。話とは何だ。遠慮なく申せ」


「ははっ、ありがたき幸せ。こちらに控えまするサカマキと申す南蛮人が御家の一大事について申し上げたいそうです」


 再び廊下の床に額をこすりつけながら藤吉郎が俺にささやいた。


「ほれ、おぬし、お館様にご挨拶を申し上げろ」


 脳内モニターにもガイドが表示される。


《体を起こし、『お初にお目にかかります』と挨拶を述べてください》


 よし、俺の出番か。


 いよいよ織田信長と御対面だ。


 俺は思いきって体を真っ直ぐに起こし、前を見つめた。


 ――ん?


 あれ?


「お初にお目にかかります」


 台本通りの挨拶を述べたものの、俺はその先の言葉を失っていた。


 家臣団の列の最奥に置かれた一段高い畳の上にあぐらをかいて座っているのは、ひょろりとした細い体に瓢箪ひょうたんのような頭をのせた色白の男だった。


 これが……織田……信長?


『信長のアレ』では立派な髭を生やし、鋭い目つきに胸板厚く筋肉隆々の偉丈夫として描かれる憧れの戦国武将のはずが、想像と全然違う。


 半開きの眠そうな目をした殿様は脇息きょうそくという台にだらしなく体を預け、脇に控えた付き人の小姓こしょうに扇であおがせながら、自分のちょんまげを引っ張って遊んでいたかと思うと、いきなり指をつっこんで鼻をほじり、スポンと指を抜くと、先端にこびりついた鼻くそをフッと吹き飛ばした。


《織田信長:二十六歳:『尾張の大うつけ』と呼ばれた織田家当主》


 脳内モニターには間違いなくそう表示されているけど、思わず頬をつねってしまいそうになる。


 と、さらにステイタスが表示された。


《織田信長:統率7、武勇40、知略2、政治5》


 え、嘘だろ。


 こんなに能力値が低いはずないんだが。


 まさか、偽者?


 影武者?


 疑っていると、アラートが表示された。


《本人確認:チェック済み。影武者ではありません》


 やっぱり、そうなのか。


 おいおい、これじゃ、織田家も終わりだろ。


 うつけのふりをしているんじゃなくて、まさか本物の大うつけだったとは。


尾張国おわりのくにだけにね」と、俺の横でささやくデイブのウインクがウザい。


 いや、あんた黙ってろ。


 ていうか、なんで俺の心が読めた?


 困惑していると信長の語気が荒くなった。


「どうした、なぜ黙っておる。何か話があるのであろう」


「ああ、はい……」


「ヘイ、ハロウ。マイネームイズ、ノブナーガ。メリークリスマス。ハッピーニューイヤー」


 いやいや、クリスマスでも正月でもねえよ。


 今は旧暦の五月、これから梅雨入りの季節だぞ。


 唖然とした俺を見て信長は上機嫌に笑う。


「どうじゃ、驚いたか。わしはデイブ殿からエゲレス語を習っておるのだ。ワハハ」


 戦国武将が何やってんだよと思ったけど、べつに英語の勉強をしたっていいのか。


 戦いで役に立たなくたって、教養っていうのは大事だもんな。


 武士のたしなみとして茶の湯をはやらせ、ただの茶碗をもったいぶって家来に褒美としてあたえたのは信長だったっけか。


 そのうち、織田家ではTOEICで七百三十点以上ないと武将になれないとか、やり始めたりして。


 と、そんなくだらないことを考えていたら、廊下に台を掲げた女性たちが現れた。


「お茶をお持ちいたしました。評定のお邪魔でしょうか」


「おお、そうかそうか。いや構わん、入れ入れ」


 きらびやかな模様の入った赤い着物の女性が信長のそばに座る。


《濃姫:斎藤道三さいとうどうさんの娘で鷺山殿さぎやまどのと称された織田信長夫人二十五歳:本名は『帰蝶きちょう』ですが、家来がいみなを口にするのは失礼にあたるため、奥方様と呼ぶのが通例です》


 これが信長の奥さんか。


 油売りの商人から美濃国を奪った国盗りの英雄斎藤道三を父に持つ娘にしては、おっとりとした表情の奥方様だ。


 夫人の隣にはお市様も控えていて、荒くれ武者たちがみな遠慮してうつむきながらもチラチラと視線を送っている。


 濃姫が夫にお盆を差し出した。


「城下の商人から饅頭が納められましたので皆様に召し上がっていただこうかと」


「ん、そうか。どれどれ……」


 信長は頬を崩しながら小ぶりな饅頭を一口でパクリと放り込む。


「うまいのう。みなにも勧めてやれ」


 その言葉に女官たちが武将の前に茶と菓子を置いていく。


 どうやら織田信長は酒が飲めず、甘い物が好きだったというのは本当らしい。


 一方家来たちはそんな主君の好物には困っているようで、柴田勝家は渋い表情でまわりの連中と顔を見合わせている。


 配っている間に信長が妹に声をかけた。


「市もどうした?」


「わたくしはお姉様のお手伝いを、と思いまして」


「そうか。ごくろう」


 なかなか手をつけない家来たちを見て信長はまた語気を荒げた。


「どうした、みなの者。遠慮せず食え」


「は、ははあ」


 居並ぶ武将たちが頭を下げてまずは渋い茶をすする。


「サルよ、饅頭はどうじゃ」


「いただきまする」と、藤吉郎が饅頭を頬張る。「こんなにうまい饅頭は拙者食べたこともござりませぬ」


「そうかそうか」と、上機嫌な信長が奥方に笑みを向けた。「サルが喜んでおる。もっと食わせてやれ」


「かしこまりました」


 濃姫が女官に目配せすると、すぐに藤吉郎の前に饅頭の山が置かれた。


「これサル、好きなだけ食うがいい」


「ハハッ、ありがたき幸せ」と、両手でつかんで、ひょいぱくひょいぱくと冬眠前のリスにも負けないほど頬を膨らませていく。


 それを見た女官たちが失笑して、着物の袖で顔を隠す。


 お市様だけはなぜかぼんやり無表情に俺を見ていた。


 ――え?


 俺の後ろに誰かいるのか?


 確かめてみたけど、どうもそうではないらしい。


 失礼かと思ったが、偶然を装って視線を返したら、不機嫌そうにうつむいてしまった。


 いったいなんなんだ?


 俺の隣でデイブが茶をすすりながら饅頭を食べている。


「日本のマンジューとてもおいしい。グリーンティーもスバラシイでーす」


「デイブ殿、また今度茶の湯を楽しもうではないか」


「ハーイ、ノブナガサーン。その時は西洋の菓子も作って持参いたしますヨ」


「何、西洋の菓子とな!」と、信長は片膝を立てて前のめりにたずねた。「それは何という菓子じゃ」


「まだナイショでーす。今度のいくさに勝った時のパーティーでお披露目しまーす」


「ううむ、それは楽しみじゃのう」と、信長が茶を飲みかけて手を止めた。「で、戦とはなんのことじゃ?」


「おとなりのイマガワさんが攻めてくるそうですよ。三浦さんが教えてくれましたヨ」


 ――いや、だから俺、三浦じゃねえから。


 だが、そんな訂正などしている場合ではなかった。


「なんと、今川が」


 武将たちがざわめき出す。


「おい、サル、それは本当のことなのか?」と、池田恒興が藤吉郎の胸ぐらをつかんだ。


「ああ、ええと」と、饅頭を喉に詰まらせながら藤吉郎が俺を指さす。「このサカマキ殿がそう申しておるのでございます」


 間髪を入れずに佐久間信盛が俺に詰め寄る。


「おぬしそれは本当のことか」


「はい。さきほど二万五千の兵を引き連れて尾張国に入ったそうです」


「なんと、二万五千もの……。我が織田家の戦力はせいぜい二千というのに」


 一同絶句したまま気まずい沈黙が流れた。


 信長も圧倒的な数字の差に黙り込んでいる。


 と、そこへ「申し上げます!」と、甲冑姿の侍が庭に駆け込んできた。


「大高城へ今川の先鋒松平元康が兵糧を運び入れました」


「何!」と、柴田勝家が立ち上がる。「阻止できなかったというのか」


「申し訳ございません。夜中のうちに包囲をくぐり抜けたようにございます」


「ようになどと寝ぼけたことを言っておる場合か」


 柴田勝家は座り直して信長の前ににじり出た。


「殿、今川義元は大高城へ入るつもりですな。その前に叩かなければ、取り戻すことは不可能となりましょう」


『信長のアレ』では詳細は語られないが、知多半島の付け根にある大高城は伊勢湾の通商のおさえとなる要地で元々織田家が支配していたのを今川に奪われていたのだ。


 織田家はそれに対抗して大高城の周辺にいくつかの砦を築いて包囲していたのだが、松平元康――つまり後の徳川家康――に裏をかかれたというわけだ。


 その大高城へ向かっていた今川義元が途中で休憩していたところへ奇襲攻撃を仕掛けて成功したのがいわゆる桶狭間の戦いなのだ。


 間違いなく、今は史実のシナリオ通りに進んでいるというわけだ。


 ちなみに今川義元は上洛、つまり京都を目指して尾張に侵入したのではなく、伊勢湾一帯の支配権を確立するために尾張東部の攻略を目指していたらしい。


 守護代――つまり本物の守護の下に従属する立場――に過ぎなかった織田家がのしあがる原動力となるほどに通商の利益は莫大だったのだ。


 織田家と今川家は信長の父である信秀の代からすでにこの地域で小競り合いを繰り返していて、今川に通商のうまみを完全に奪い取られれば、織田家にとっては生命線を絶たれる危機だ。


 柴田勝家の言うとおり、大高城へ入る前に阻止できるかが勝負の分かれ目だ。


「お殿様に申し上げます」と、俺は本題を切り出した。「尾張国に入った今川義元は数日のうちに沓掛城に入ります。その後、松平の待つ大高城へ向かう途中で、桶狭間にて休憩するでしょう。そこを狙って奇襲を仕掛ければ、討ち取ることが可能です」


「桶狭間?」と、信長は首をかしげた。「それはどこにあるのだ?」


 俺の脳内モニターにマップが表示される。


 現在の愛知県豊明市付近、尾張国の南東部だ。


「二里(八キロメートル)離れた沓掛城と大高城のちょうど中間地点でございます」


「サル」と、信長が藤吉郎にたずねる。「おまえは知っておるか」


「いいえ、そのような場所は聞いたこともございません」


 ――はぁ?


 そんな馬鹿な。


 まさかの展開で焦る。


「桶狭間という細長い谷間があるはずなんですけど」


 だが、なんということか、居合わせたみなが首をかしげるばかりだ。


 佐久間信盛が「おそれながら」と頭を下げたまま進み出る。


「拙者、使いであのあたりへはよく参りますが、見通しの良い緩やかな丘陵地でそのような谷間などはございません」


「田楽狭間とも呼ばれるようですが」と、俺は知っている知識を追加した。


「どうじゃ?」と、信長はそのまま佐久間信盛に投げた。


「いえ、存じません」


 嘘だろ。


 桶狭間だぞ?


 どう説明したらいいんだ?


 俺の脳内カーナビには間違いなくGPSの位置情報が表示されているけど、それを伝えたところで戦国時代の人たちには理解できないだろう。


 俺自身が案内するしかないか。


「わたくしが先導いたします。ご出馬を」


 だが、信長は視線を斜め上にそらしながらボソリとつぶやくだけだった。


「今川の大軍が本当に押し寄せるというのなら、勝ち目などない。兵など出せるか」


 主君の弱気な言葉に、家臣たちは拳を握りしめてはいるが反論する者はいない。


 兵力の差を考えれば勝ち目がないと思うのも無理もない。


 だが、奇襲を仕掛ければ勝てるのだ。


 俺はそれを知っているんだ。


 金森長近が進み出た。


「二万五千の軍勢といえども、この南蛮人の申すとおり、一度に押し寄せるわけではございません。人数が多い分、隊列は伸び、側面は手薄になります。そこを狙って突けば大将首を取ることもできましょう」


「ううむ」と、信長はあごひげに手をやり、それを引っ張ってうつむいてしまう。


『信長のアレ』で他国に使者を送った時の芳しくない反応そのままだ。


 説得に何が足りないんだ?


 政治力か?


 相手との信頼度か?


 金森長近が丁寧に頭を下げつつも語気を強める。


「殿、ご決断を。我らのにご命令を」


「しかしのう……」と、どこまでも煮え切らない信長に、家臣団からため息が漏れる。


 これが織田信長なのか。


 たとえ小国といえども、格下の家柄から本家との争いに勝ち、兄弟の謀反を封じ込めて尾張を統一した下剋上のサバイバーなのか。


 どうすれば納得してくれるんだよ。


 俺は瓢箪顔の男に向かって声を上げた。


「今一度お考えください。これは天下統一への重要な第一歩でございます。これは危機なのではなく好機です。桶狭間へ一点突破、これしか方法はありません。この好機を逃せば、今川を倒すことはできず、織田家は滅ぼされてしまいます」


 実際、俺は『信長のアレ』でそういう結果を何度も見ているのだ。


 それはそのまま、この場にいる家臣団、奥方様やお市様まですべての人々の生活や幸福が失われるということだ。


 これはゲームなんかじゃない。


 目の前の血の通った人々の人生なんだ。


 兵力の差は圧倒的でも、こっちには史実という強力な裏付けがあるのだ。


 ただ、それを信じさせることができないのがもどかしい。


 だが、信長は饅頭を頬張り、俺の進言を鼻で笑うばかりだった。


「天下統一だと? わしは天下など狙ったことなどない。そもそも天下とはわしらのような田舎大名の領分ではない。源氏の名門や摂関家に委ねるべきものであろう」


 源氏の名門とは室町幕府の足利将軍家、摂関家とは藤原氏を代表する五摂家と呼ばれる家柄の貴族で、どちらも別格の存在だ。


「今川が尾張を狙うのであれば、是非もなし。和睦するのも一つの手であろう」


 天下の野望を持ち出したのに、まさかの逆効果とは。


「応じるとは思われません。京に通じる道筋にいる敵はすべて排除するでしょう」


 史実において信長自身がそうしたことだ。


「ならば市を今川に嫁がせればよかろう。そこまでの誠意を見せれば話を受けざるを得まい」


 主君の言葉に家臣たちが一斉に息をのむ。


 たしかに、ただの政略結婚ではない。


 戦国随一の美貌を誇る姫が嫁ぐとあれば今川とて無視するわけにはいかないだろう。


 藤吉郎が喉を詰まらせ、饅頭を吹き出しながら胸を叩く。


「しかし、と、殿……それはあまりにも」


 柴田勝家がにじり出たものの、言葉を継ぐことができない。


 ――それはあまりにも酷なこと。


 誰一人言わずとも、みなの表情にそう書いてある。


 重苦しい空気を吹き流すように当のお市様が口を開いた。


「わたくしは構いません」と、かたわらの鷺山殿を見やる。「お義姉ねえ様も尾張のうつけに嫁げと言われて織田家に来られたのですから。その苦労に比べたら、どうということはございません」


「ふふふ。言うのう。それでこそ我が妹。よくぞ申した」


 信長一人ご満悦だが、家臣団はみな唇を噛み切るほどに震えている。


 ――ちくしょう。


 良くねえよ。


 全然良くねえよ。


 いいわけないじゃんかよ。


 なんだよ。


 せっかく戦国時代に来たのに、このまま何もできずにゲームオーバーなのかよ。


 俺にプレゼン能力がないばかりに織田信長を説得できないなんて。


 こんなの話が違うだろ。


《その方の申すことは今ひとつ信用できない。お引き取り願おう》


《あなたの野望もこれまでです》


 俺の脳裏に、何度も見たそんな画面がちらつく。


 一度やってみてうまくいかなかったら、別の方法を試せるのがシミュレーションゲームだ。


 俺は何度もトライし、失敗し、そのたびに新しい勝ち方を見いだし、成功を収めてきた。


 だが、これはゲームじゃない。


 失敗したら、それで終わりだ。


 リセットしての二度目はない。


 無力感に背中を丸め、俺はため息をつくしかなかった。


 まもなく清洲は今川の大軍に蹂躙され、目の前の人たちが殺されるのだ。


 お市様だって、好きでもない男のところへ嫁がされ、二度と家族にも会えずに一生を終えるんだ。


 史実では、浅井家が滅んだ時に娘たちを連れて尾張に帰ってきたけど、兄を許さず別居していたわけだし、どちらにしろ不幸な結末でしかない。


 だからこそ、そうならないために、俺がやらなくちゃいけないんじゃないのか?


 俺がこの時代に来た理由はそれしかないじゃないか。


 と、そこへ横から口を挟む者がいた。


「オッケー狭間の決闘デスネ」


 一同みな穴にはまったように固まってしまった。


「西洋で決闘は紳士のたしなみ。逃げるは恥デース。受けて立ちましょう」


 空気を読まぬ駄洒落に誰も反応しないのをいいことに、デイブはますます調子に乗る。


「決闘の時は、相手に手袋を投げつけます。ノブナガサーン、手袋を反対に読むとどうなりますか?」


「ん?」と、信長が視線を宙に向ける。「てぶくろ……ろ・く・ぶ・て」


「ハーイ、引っかかりましたね。六回ぶっていいデスネ」


 なんだこれ。


 サイタマじゃなくて、コイツ、昭和から来たんじゃねえのか。


「馬鹿者!」と、柴田勝家が身を乗り出す。「殿を殴るなど、口にするだけでも無礼であるぞ。手を出せばキサマのその腕わしがひねり落としてくれるわっ」


 他の家臣たちも膝立ちで身を乗り出す中、信長本人はご満悦だ。


「よいよい。たわいもない冗談に本気になるのは野暮というもの。ははは、デイブ殿は今日も絶好調であるな」


 デイブは西洋人らしく肩をすくめる。


「無礼を働いたおしおきにお市さんが私をぶってもいいですよ。お市さんにぶって踏まれたらジパングまで来たかいがあったというものです」


「こ、こらっ。おぬし、なんとうらやましいことを」


 藤吉郎が本音をこぼして饅頭で口を塞ぐ。


 柴田勝家まで顔を真っ赤にして座り込んでしまった。


 なんなんだよ、これ。


 おまえらみんなやってほしいのかよ。


 ていうか、桶狭間の話はどうなったんだよ。


 俺がにらみつけるとデイブがウィンクを返す。


「ダイジョーブ。Let it be. なるようになりますヨ」


 家臣団がざわつく中、信長が口を開いた。


「とりあえず、本当に今川の軍が来ているのか、物見を出しておけ」


「かしこまりました」と、林秀貞が頭を下げる。


 俺はすかさず異議を申し立てた。


「武士では見つかるとこちらの動きも警戒されて、奇襲が不可能になります」


「ならばどうする?」


「農民に行かせてはどうでしょうか」


「誰かおるか?」


「ワタシが行きましょうか」と、デイブ。


 ――いや、目立ちすぎるだろ。


 あんたは黙ってろ。


「藤吉郎の知り合いがおります」


「拙者の?」と、藤吉郎が自分を指さす。


「ほら、昨日の河原のあいつらに……」


 NTR願望クズ男が寧々さんを襲わせた三人組だ。


「あいつらか」と、藤吉郎も拳を打ち合わせる。「お館様、さっそく、このサルめが手配いたしまする」


 信長に申し上げているくせに、視線はお市様に向けてアピールしている。


 相手は庭に目をやって気にしてもいないようだが。


「是非もなし。良きにはからえ。みなの者、ご苦労であった」


 信長が立ち上がり、奥方様たちを引き連れて退出してしまった。


 残された家臣団はみな力なく立ち上がり、背中を丸めて広間を後にしていく。


「これで織田家も終わりかもしれんな」と、つぶやきが聞こえた。


「めったなことを言うでない」


「おぬしも本音ではそう思っておるのであろう」


「それはそうだが」


「いざとなれば今川方につく算段もしておくべきかもな」


 何が最強織田軍団だよ。


 武将たちのステイタスを表示させても、柴田勝家以外はみな三十から四十程度の数値しかない。


 こんな凡将ばかりじゃ、本当に織田家はおしまいなのかもな。


「尾張国の終わりを見届けましょうネ」


 デイブも俺に手を振ると柴田勝家と共に去っていった。


「おい、何をぼんやりしている。行くぞ」と、藤吉郎が俺の肩をつかむ。「時間がないんだろう。物見にゆかねば。この目で確かめれば、殿を説得できるかもしれんからな」


 せっかくやる気を見せてくれているのはいいが、こっちはさっきまでの期待などとっくに失せていた。


 俺は散歩を嫌がる犬のように引っ張られながら城下に向かった。


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