第7話 波乱の清洲会談
昼前に戻った沓掛城では、松平元康となった世良田村の作兵衛が飯を食っているところだった。
「こんなに腹一杯食っていいなら、殿様も悪くねえな」
その横では、茄子の久作も立派な武士の姿になっていた。
酒井忠次が馬子にも衣装と感慨深そうにうなずいている。
「この者には、わしの家来である榊原家を継がせることにしました。こたびの戦で亡くなったものでな」
俺たちに向かってすました顔で頭を下げる。
「拙者、榊原康政となりもうした。以後、お見知りおきを」
「おい、久作よ、おまえ、そんな言い方どこで覚えた」と、頬についた米粒をつまみ取りながら作兵衛がニヤける。
「アニキとは頭が違うんですよ」
「なんだと、俺は殿様だぞ。そっちの口の利き方は分かってねえようだな」
と、そこへ織田信長に報告しに行っていた藤吉郎も戻ってきた。
「今川の様子はどうなっておる?」
「岡崎城を退去したところを見届けた」と、前田利家が答えた。「で、そっちの首尾は」
「お館様は今朝方清洲へ戻られた。会見は清洲でおこなわれる。わしが松平家の一同を連れていくことになった」
「そうなのか。困ったことになったな」
シナリオがまた変わったことについて俺は正直な懸念を漏らした。
「しかたあるまい」と、藤吉郎は鼻先を指でかく。「織田家への臣従を申し入れるのであれば、松平家から出向くのが筋であるからな」
「臣従とは聞き捨てならぬぞ」と、酒井忠次が詰め寄る。「同盟という話ではなかったのか」
「お館様がそんな条件をのむわけなかろう。そもそも松平は今川の傘下であって、尾張一国を治める織田家とは釣り合うわけがなかろう」
「織田家とて、今こそ尾張を手中にしておるが、元は斯波家の守護代に過ぎぬではないか」
「勝ち残った者が正義。滅んだ者は口をきけぬからな」
冷たく言い放った藤吉郎に対し、酒井忠次も本多忠真も反論はしなかった。
影武者で乗り切ろうとしている松平家から言えることなど何もないのだ。
「俺の帰参についてはお館様は何かおっしゃってたか?」
前田利家が前のめりにたずねると、藤吉郎は腕を組みながらため息をついた。
「そのことだがな、何もおっしゃらなかったのじゃ」
「なにゆえに?」
「おぬしの手柄は認めてくださっておるのであろうが、だからと言って、帰参が許されるわけでもないようじゃ」
「だったら、いったいどうすればいいんだ」と、利家は奥歯を噛みしめながら何度も自分の膝に拳を打ちつけた。「今のままではまつ殿と祝言も挙げられんわい」
藤吉郎はそんな利家を横目に、俺の後ろに回り込んだ。
「それと、おぬしだが」と、いきなり縄をかけやがる。
「何をするんだ」
「お館様が生きたまま連れてこいとおっしゃっていたのでな。殺してしまう方が手間が省けていいのだが、ご命令とあれば仕方がなかろう」
藤吉郎は半笑いで事もなげに言い切る。
女関係だけでなく、あらゆる点で信用のならない男だ。
「そっちがその気なら、寧々さんに、おまえが結婚する気がないと教えてもいいのか」
「それは困るが、他の女子に堂々と手が出せると思えば悪くもないかのう。お市様とか……」
うっとりと鼻の下を伸ばしかけた藤吉郎が首を振って真顔になる。
「おっと、話をそらそうとしても無駄だ。おぬしも、お館様に疑われておると分かってるのなら、戻ってこずに今川の客将にでもなっておれば良かったものを、馬鹿正直に濡れ衣を晴らそうなどと甘いことを考えておるからいかんのだ」
そして、松平の武将二人に向かって牽制した。
「酒井殿と本多殿は手出し無用でござるぞ。これは織田家の意向じゃ。松平家との会談をおこなう条件と思ってくだされ」
酒井忠次も本多忠真も顔を見合わせながら言葉に詰まっている。
真顔のクズが一番始末に負えない。
「お二人とも、俺は大丈夫ですから、予定通り清洲の会見にのぞんでください。今はとにかく織田家と同盟を結ぶことが最善の選択です」
結局のところ、松平を東の防壁にするシナリオに変更はない。
織田信長を説得できなければ、どちらにしろ『俺の野望もこれまで』なのだ。
「そなたがそう言うのなら、我らはそうするしかない」と、酒井忠次が本多忠真に目配せしながらうなずく。
「作兵衛も覚悟を決めろよ」と、俺は影武者三人組に向かって言った。
「分かってるよ」
「影武者がバレたら世良田村の連中もただではすまないからな」
「村は関係ねえだろ」
「尾張のうつけと言われた殿様だぞ。やるなら徹底的に根絶やしだ。村ごと焼き払われる」
俺の言葉に三人とも黙り込む。
脅しじゃない。
信長とはそういう男だ。
史実を知らない連中には通じないが、一向一揆の弾圧や比叡山の焼き討ちなど、まさかということをやってのけた男なのだ。
だからこそ、俺だって今こうして藤吉郎に縛られてるんだし。
「だが、逆にうまくいけば家族にもいい思いをさせてやれる。おまえたちしだいだ」
三人はお互いに目配せをしながらうなずきあっていた。
巻き込まれた作兵衛、久作、六太郎の三人組には気の毒だが、こうなった以上、シナリオ通りになりきってもらうしかないのだ。
それに、信長は俺を生かしたまま連れてこいと命じている。
それはつまり、皮肉なことだが、清洲に着いて会見するまで俺の命は藤吉郎の手によって守られるということだ。
まだまだいくらでも進展――または逆転――の可能性はある。
どちらにしろ、歴史を動かす主導権を握っていればゲームオーバーにはならないのだ。
俺は藤吉郎の目を見つめて言った。
「殺さず、生かしたまま俺を連れていけばいい。自分で弁明する。それで駄目なら、その時はあきらめよう」
「もとよりそのつもりじゃ。いくぞ、又左」
「俺も行っていいのか」と、利家が目を見開きながら自分を指さす。
「当たり前だ。おぬしも自分で申し上げるしかなかろう」
「書状でも納得してくださらなかったお館様が、俺の話を聞いてくださるとは思えぬが」
愚痴をこぼしつつも六尺の背中を丸めながら前田利家が俺と並んで歩き出す。
「そなたとは、縛られておるかどうかの違いだけだな」
自虐的な笑みを浮かべる利家は、年上なのにまるで俺の同級生みたいだった。
松平使節一行は桶狭間に立ち寄り、戦死者に念仏を唱えた。
「若殿、松平家を絶やさぬために影武者を立てまするゆえ、なにとぞお許しくだされ」
酒井忠次の横顔は孫を亡くした祖父のようにやつれていた。
俺たちは丹下砦で休憩を挟み、清洲へ向かった。
明るいうちは晴れていたが、夕方頃にまた雨雲がわいてきて、降り出すことはなかったものの、南からのぬめりけのある風が頬を撫でていく。
後ろ手に縛られたままだが、歩きにくいだけであまり悲壮感はない。
もし織田信長が俺への疑いを解かず、今後の戦略も受け入れなかった場合はどうすればいいのか。
第二、第三のシナリオは頭の中にある。
なんといったって、俺は『信長のアレ』を千回クリアした最強の軍師なんだからな。
ただ、その場で斬り殺されてしまったら、そんなものは霧となって、歴史の彼方へ消えてしまう。
清洲を脱出する手段を確保しておく必要があるわけだが、それがさっぱり思いつかない。
だが、俺は保険をかけておくことにした。
「藤吉郎、清洲城へ行く前に寄りたいところがある」
「逃げようとしても無駄だぞ」
「前田利家の無事を知らせるためにまつさんの実家へ寄ってからでも遅くはならないだろう」
「それならば又左だけ行ってくればよいであろう。使節一行皆が行く必要はない」
「使節団もいったん休憩して身なりを整えてから登城するのにも都合が良いだろう」
「おぬし、何を企んでおる?」
さすが、後に天下を取る男だけあって、勘が鋭い。
弱点の女性を味方にしようとしていることを感づいてしまったようだ。
「藤吉郎は、まだ寧々さんに無事を知らせてはいないんだろう」
「まあ、それはそうだな。丹下砦から引き返してきたのでな」
「なら、まつさんから寧々さんへ伝言を頼んでおけば喜ぶんじゃないか」
「わしのことは後回しで良い。今はお館様の御用が優先だ」
頑なな藤吉郎ですら説得できないようでは、詰みだ。
だが、ここでまた思いがけない展開が待ち構えていた。
清洲城下へ入った時は日も暮れていた。
直接城へ上がるのかと思っていると、藤吉郎が武家屋敷の前で立ち止まった。
龍のように枝のうねった松がひさしのように門にかかっている。
そこは柴田勝家の屋敷だった。
「今晩はここに滞在する。明朝城からの使者が迎えに来るまではゆっくりしてくれ」
「このまま城へ行くんじゃないのか?」
「わしのような下っ端に正式な取り次ぎ役など務まるわけなかろう。御家老の柴田殿に引き渡すまでがわしの役目じゃ」
武家社会の身分関係の厳しさが逆に俺にとっては好都合だった。
このままなんの準備もなく登城していたら終わっていただろうが、一晩あれば対策を考えることができる。
柴田家の屋敷は家老だけあって、使節一行全員を受け入れるだけの余裕があり、縛られていた俺もいったんは縄がほどかれ、板張りの広間でくつろぐことができた。
正面、上座の位置に作兵衛元康、その前から順番に俺と家老の酒井忠次が控え、その次に本多忠真、そして、久作康政、六太郎忠勝がそれぞれ向かい合って並んだ。
藤吉郎と前田利家はその並びから外れた縁側に近いところに正座している。
松平の一員としてではなく、あくまでも織田家の立場であることを強調しているのだろう。
奥から姿を見せた主人の柴田勝家が部屋に入ってくると、作兵衛の前に歩み出て平伏した。
「織田家の家老柴田勝家と申します」と、世良田村の作兵衛とも知らず挨拶を述べる。「松平元康殿におかれましては、狭苦しいところではございますが、明朝までごゆるりとおくつろぎいただきたい」
「かたじけない」と、横から酒井忠次が応じた。「世話になり申す」
「して」と、正面に顔を向けた柴田勝家が首をひねる。「元康殿はかつて清洲におられたことがござったが、ずいぶんと印象が変わりましたな」
史実では今川の人質として駿府へ送られる時に、竹千代と呼ばれていた若き日の元康少年は家来の裏切りで捕らえられ、いったん織田方に送られたのだ。
「そ、それは……」
しどろもどろで大粒の汗を流し始めた作兵衛の代わりに俺が答えた。
「若殿は、『我も元服し、何度となく戦場へ出ておるゆえに、幼き頃とは似ても似つかぬ姿となったようじゃ』と申しております」
「なるほど、さすがは松平の若殿、この柴田、出過ぎたことを申し上げたことをお詫び申し上げまする」
「『いやなに、気にするでない。昔語りのできる知り合いがおることは心強いものよ』と、若殿が申しております」
作兵衛は俺の言葉に合わせてもっともらしくうなずいていたが、やはり農民にいきなり殿様の真似をしろと言っても無理がある。
冷や冷やものだったが、ぼろが出ないうちにいったん柴田勝家が下がり、入れ替わりに食事が運ばれてきた。
山菜の味噌和えに麦飯と味噌汁、それに焼き魚がついている。
塩焼きの鮎だ。
「うほっ、豪華だな」
安心してはしゃぐ作兵衛に釘を刺す。
「殿様がこれくらいの食事で騒ぐな」
「仕方ないだろ。歩き続けて腹が減ってるんだからな。おい、久作も六太郎も遠慮なく食っておけよ」
「言われなくても食ってるよ」
がっつく六太郎を本多忠真がたしなめる。
「馬鹿者、いやしい食い方をするでない」
――まったく。
武士らしい言葉づかいを学ばせるのも時間がかかるか。
まあ、俺だって、脳内モニターに見本の文章が表示されるからそれらしく話せるだけなんだけどな。
もっと古文を学んでおくんだったと反省したところで、五百年も後の祭りだ。
ただ、明日の信長との会見の時も酒井忠次にしゃべらせて、作兵衛は大事なところだけうなずけばいいように練習しておく必要があるな。
ただ、鮎の塩焼きは山椒がきいていて本当においしかった。
この時代に来て初めて空腹を満たす以上に満足した食事だった。
みんなより少し早めに食事を済ませ、俺は寧々さんとまつさんに同じ手紙を書いて、柴田家の人に使いを頼んだ。
《藤吉郎と前田利家は柴田勝家の屋敷にいるので、明朝早いうちにたずねてきてください。二人とも無事です》
藤吉郎と利家の出世を予言して婚約者二人を味方にする作戦だが、あのサルが天下を取るなんて、寧々さんは信じてくれないかもしれないな。
他にもいくつか手紙を出したり、『隼ストライカー瞬』の漫画を描いたりもした。
食事の後、俺は松平家の使節一行と引き離され、小さな部屋に連れていかれた。
「サカマキ殿はこちらでお休みください。武器をお預かりします」
牢屋ではなくちゃんと布団も用意されているが、障子の向こうに監視役がいて逃げられない部屋だ。
俺はそのつもりもなかったし、せっかく布団で眠れるので素直に短刀を差し出し翌日に備えて眠ることにした。
うとうとしかけたときに、屋根に大粒の雨がぱらつく音が聞こえた。
遠くの雷鳴に何か別の音も混ざっている。
――ん?
足音か?
暗闇に目が慣れて、障子にうっすらと人影が浮かび上がるのが分かった。
俺は眠ったふりをして様子をうかがっていた。
一気に激しくなった雨音に紛れて障子を静かに開ける気配がした。
まさか、刺客!?
いや、そんなはずはない。
信長は俺を生かして連れてこいと命じたはずだろ。
大きな流れを考案することは得意でも、接近戦の格闘技だと俺は勝てるどころかかわすことすらできない。
布団を盾に相手の武器を封じるくらいしか思いつかないけど、そんな都合のいい反撃なんて無理だ。
そもそも、監視役は何をやってるんだ?
俺が逃げないようにするだけでなく、こういう連中の侵入を防ぐのも仕事じゃないのかよ。
背中を向けて固く目をつむっていた俺の耳元に、聞き慣れたささやき声が聞こえた。
「ハアイ、フランク三浦さん。起きてるんですよネ」
はあ?
「デイブかよ」
俺は布団をはねのけて体を起こした。
かたわらでデイブが侍のようにきちんと正座して俺を見下ろしていた。
「静かにしてクダサイ」と、口に人差し指を立てる。「日本の家屋は声がツツヌケデース。エッチな声もみんな聞こえちゃいますね。だったらむしろ
いったい何をしに来たっていうんだ。
二重スパイのくせに、よく顔を出せたものだ。
ていうか、柴田勝家も家来たちもこいつを疑っていないのか。
「あんた、今川と通じてるくせに、よくこんなところにいられるな。桶狭間では今川なんて知らないと言ってたくせに」
「知らないなんて言ってませんよ」と、不敵な笑みを浮かべる。「『敵はいなかったか?』と聞かれたから、『見なかった』と答えただけデース。だってワタシにとっては、織田も今川もオトクイサマですからね。どっちも敵ではアリマセーン」
「屁理屈じゃないかよ」
「でも、嘘ではアリマセーン」
雷が落ちて、障子越しの白い光に小馬鹿にしたような表情が浮かび上がる。
「ワタシ言いましたよね。武蔵国の行田出身。サキタマの古墳から出土したと。つまりそれは、東へ行ったことがあるって意味ですよ。ホージョーやタケダの殿様とも交流があります。ちなみに好物は本当に
くだらない埼玉ジョークだったんじゃないのかよ。
そんな推理小説の伏線みたいな話、まじめに覚えてるわけないだろ。
今さら、『おお』なんて、驚くわけ……ちくしょう、やられたぜ。
正直な気持ちが顔に出てしまい、デイブが勝ち誇ったような笑みを浮かべる。
「フランクに話しましょうよ、三浦さん。歴史というシナリオを一番無視してるのは、あなたじゃありませんカ?」
三浦じゃねえよ、サカマキだっつうの。
あんたは俺の名前を無視してんだよ。
俺の困惑まで無視してデイブが続ける。
「あなたは歴史を変えるためにここに来た。そうですよネ?」
「来たくて来たわけじゃないけど、そのつもりだ」
「なら、もっとうまく立ち回るべきですネ。あなたは……受け身すぎます。ネガティーフ、モデスト……ケンキョさはジパングの美徳ですが、それでは歴史は動きませんヨ。蝶の羽ばたき一つで歴史が変わるなら、むしろ自分から動かしていけばいいのではありませんカ?」
バタフライ・エフェクト。
なんでそんな言葉を知ってるんだ?
「もしかして、あんたも未来人なのか?」
「いいえ、ワタシはあくまでもこの時代に生まれ育った者デース。三浦さんこそ、未来人なんですカ?」
やばい、身元を明かしたも同然の質問だったか。
「いや、俺は三浦村出身……」
とっさにごまかそうとした俺にデイブが人差し指を立ててゆっくりと振った。
「フランクに話しましょう、三浦さん。隠さなくてもいいデース。あなたが未来から来たという話は信じますヨ。なにしろ、ワタシは神を信じていますからネ。神の存在を信じることにくらべたら、この世で起こるあらゆることはササイなことですヨ。ワタシだって地球の裏側から来てますけど、ジパングの人から見たら異星人でしょう」
デイブらしい屁理屈だが、科学的知見に基づいた合理的な思考とも言える。
お互いにフランクに話せる土台ができていることを理解し合えた気がした。
雷の光でデイブの顔が闇に白く浮かぶ。
「三浦さん、ワタシと組みますカ?」
「断る」と、俺は即答した。
「ならば、この場であなたをコロします。それは神の意志ですから」
俺の答えを知っていたかのように、いつの間にかデイブの手には短剣の鞘が握られていた。
見張りに預けた今川の短刀だ。
「なんでそれを……」
「冗談ですよ」と、デイブが俺に短刀の鞘を握らせる。「あなたに返しに来ただけです。カエサルの物はカエサルに返さるる、なんてネ。ワタシはあなたのミカタですから受け取ってクダサイ」
そして、長い脚をカニのようにゆっくりと動かしながら姿勢を崩して立ち上がると、背中を向けて障子に手をかけた。
「またどこかでオメにかかりまショウ」
喉が詰まって返事ができなかった。
得体の知れない南蛮人が去った後、俺は布団の中で情けないくらいに震えていた。
――史実を知っている俺が最強?
ただそれだけだろう。
シナリオが変われば、そんなものには何の意味もない。
そもそもこの時代に来てから俺のシナリオは何一つ実現していないじゃないか。
桶狭間ですらなくなっていたんだぞ。
それはすべてデイブのせいだ。
あいつは何もかも分かっていて、シナリオの裏の裏を先読みしてるんじゃないのか。
俺は織田信長や今川義元を手玉に取るようなとんでもない化け物を敵に回したのかもしれない。
屋根を押しつぶすがごとき雷鳴が轟き、心臓の鼓動が高鳴る。
蝶の羽ばたき、天空を揺るがす雷鳴、大地を潤す雨の一滴、そのすべてをコントロールすることなど誰にもできない。
歴史のシナリオを変えたつもりでいても、その結果は実はただの偶然に過ぎないのではないだろうか。
考えたところでそんな哲学的問題に答えなど出ない。
俺はゲームで学んだ史実を知っているだけで、そもそも思考力があるわけではない。
千回に及ぶ天下統一の実績だって数千回の失敗を重ねたシミュレーションで、ようやく解を見つけたのにすぎない。
その程度の凡庸な頭脳で考えたところで、ただ単に混乱していくだけだ。
ズボンのポケットにしまった短刀の感触を確かめているうちに、俺は深い眠りに落ちていた。
翌朝、廊下の騒ぎで目が覚めた。
外れそうなほどの勢いで障子が開け放たれ、血相を変えた藤吉郎と柴田勝家が飛び込んできた。
「おぬしがやったのか?」
――は?
何を?
俺は目をこすりながら体を起こし、二人の顔を眺めた。
「おいっ、それは何だ!」
藤吉郎が俺の体をまたいで布団に手を伸ばす。
しわの寄った敷き布団に俺のポケットからこぼれ出た短刀が転がっていた。
「それは俺のだ」と、出所が今川というのは伏せて説明した。「昨日、武器を預かるというので、見張り番の人に渡したんだが……」
「それをおぬしが持っておるということは、おぬしがやったということだな」
藤吉郎が鞘から短刀を抜く。
――あっ!
俺は思わず声を上げた。
「な、なんで……」
刀身にベッタリとついた血が固まっていた。
血曇りなんてぼんやりしたものじゃない。
一目で人を刺した血と分かるかさぶたのような固まりだ。
「こ、これは……」
「しらを切るつもりか」と、藤吉郎が俺の髪の毛をつかんで縁側に引っ張り出す。「おぬしが殺したんだろうが」
――殺すって……?
縁側のすぐ下に広がる水たまりに見張り番の男が転がっていた。
首を切られ血まみれだ。
――ちょ、嘘だろ!?
鉄分の臭いに吐き気を催しながら俺は叫んだ。
「俺はやってない」
「悪人はみなそう言う」
「藤吉郎だって、寧々さんに浮気なんかしてないって言ってるだろうよ」
「ふん、わしは
ちきしょう、開き直りやがって。
「待ってくださいよ」と、俺は首をひねって柴田勝家を見上げた。「昨夜南蛮人のデイブ・スミッシーがたずねてきました。その時に、この見張り番に預けておいた短刀を俺に返したんです」
「昨夜は雷雨だった。かの南蛮人など来訪するはずがなかろう」
「来たんですよ。本当なんです」
どんなに真実を述べても二人とも俺の言うことなど信じそうになかった。
『カエサルの物は』ってジョークにだまされた俺が甘いのか。
なんてネ、じゃねえだろうがよ。
二度もあいつにはめられるなんて、何が最強の軍師だよ。
これはもう俺の責任としか言いようがない
そもそも、見張り番に預けた短剣を取り戻す正当な理由なんてないんだからな。
短刀を持っている段階で気づくべきだったんだ。
化け物みたいなやつにビビって、確かめなかったのが情けない。
「やはりおぬしは織田家に災いをもたらす間者なのであろう」
俺の髪を引っ張る藤吉郎が血の臭いがする短刀を俺の首筋に当てた。
「柴田様、この場で成敗してもよろしいでしょうか」
「是非もなしか……」と、柴田勝家が信長みたいにつぶやく。
「いいのか」と、俺は最後の抵抗を試みた。「お館様は俺を生きたまま連れてこいと命じたんじゃないのか。おまえが殺したら、責任を問われるぞ」
「逃げたからやむを得ず殺したとでも弁明するさ」
「俺が死んだら、お館様に手紙が届くことになっているんだぞ」
「悪あがきか」と、藤吉郎の手が止まる。「はったりだろ」
「昨夜俺は手紙を出した。そこに、『俺が柴田勝家の家にいて、藤吉郎に見張られている。俺の身に何かあったときはお館様に知らせてくれ』と、書いておいた」
寧々さんとまつさんに宛てた手紙の中で、保険をかけておいたのだが、藤吉郎は手紙の相手を知らないのだ。
「誰に手紙を出した。言え」
「言ったら殺すんだろう。言えるかよ」
「小細工など無意味だと思い知らせてやるぞ。お館様への説明など、いくらでもしようがあるからな」
やっぱりはったりははったり、通じないかと覚悟したときだった。
「サル、何してんの!」
手紙で要請した通り、寧々さんが来てくれた。
「な、なんで寧々殿がここへ?」
うろたえる藤吉郎に寧々さんが詰め寄る。
「サルがここにいるって、手紙をもらったからよ」
「じゃあ、サカマキの言ってた手紙の相手というのは……」
ようやく藤吉郎が俺を放してくれた。
寧々さんの隣にもう一人中学生くらいの女の子がいる。
前田利家の妻になるまつさんだ。
お市様と同じ歳に生まれて寧々さんよりも二歳年上だが、華奢な体つきで逆に後輩みたいに見える。
史実では利家との間に十一人もの子供を産んだそうだけど、いくら戦国時代でも異例のことだ。
「寧々さん、まつさん、よく来てくれました」
俺は縁側から二人に頭を下げた。
「寧々さん、藤吉郎は必ず出世する。ただし、それは織田家の発展という土台があってこそなんです。織田家が潰れたらその夢も消える。だから、俺の言うとおりにするように口添えしてほしいんですよ」
「えー、このサルが出世?」と、寧々さんは笑い出す。「まともにおつとめできるかも不安なのに」
俺の言葉も藤吉郎の人柄も、どちらも全然信用していないようだ。
中学生くらいの年頃なのに聡明すぎる。
藤吉郎が出世して部下ができたときも、主人よりはむしろ奥方の気配りでみなが懐いていたそうだからな。
と、そこへ前田利家もやってきた。
「おおっ、まつ殿ではないか。いかがした?」
「もう、会いたかったの」と、まっすぐに胸に飛び込んでいく。
「なんじゃ、こちらから会いに行くつもりだったんじゃがな。まだお館様に帰参のお許しを頂いておらぬのでな」
利家の腕に抱かれたまままつさんが俺に顔を向ける。
「利家様は帰参がかないますか」
「ああ、それはもちろん大丈夫です。織田家の家臣として、一国一城の主になります」
「わあ、本当ですか。よかった。ひと安心ね」
利家の方は素直に受け入れられないようだが、まつさんは素直に喜んでいる。
史実では桶狭間の前に二人は結婚していたはずなのだが、どうも順番が前後してしまったらしい。
だからまつさんにとって利家の帰参と出世は大事なことで、俺の言葉を信じようとしてくれているんだろう。
「ただ、そのためにも、織田家による全国統一を推し進めなければなりません。家臣団が手柄を立てることで織田家を盛り上げていく。それが自分たちの出世につながるのです」
女性を味方に付ければ男は動く。
俺も少しずつ人を動かす知恵を覚えていかなければならないんだ。
柴田勝家が縁側にあぐらをかいて俺を見つめる。
「そなたはなぜ、そこまで織田家に肩入れするのだ?」
表情は僧侶のように穏やかだが、鋭い目をした柴田勝家の問いかけに、俺は一瞬詰まってしまった。
――なぜ?
そういえば、なぜなんだ?
たまたま桶狭間直前の尾張国に来てしまったからか?
織田信長が桶狭間で勝って天下布武へと乗り出す史実を知っているから疑いもしなかっただけなのか?
すでに桶狭間自体が消えているのだから、織田家以外が天下を取るシナリオを検討するべきなんじゃないか。
『信長のアレ』でも、桶狭間イベントで今川が滅びないパターンが発生する。
その場合はたいてい織田家は今川に倒される。
ならば、俺がつくべきなのは今川なんじゃないのか。
氏真とのつながりもあるし、そうなると、疑われている織田家に今さら肩入れする理由はたしかに薄い。
史実という絶対的な証拠を握っているのに、それを語ろうとすればするほど現実から遠くなっていく。
そんな矛盾を俺はどうすればいいんだ?
自分自身でも分からないことを他人に説明するのはもっと難しい。
だが、それを形にして伝えないと人を動かすことなどできないのだ。
考え込んでいる俺にみんなの視線が集中していた。
――俺は人を殺したんだ。
なんか、そんなことをふと思い出して、そのまま言葉にしてみた。
「桶狭間で俺は本来なら歴史に名を残すはずの武将をただの弾みで殺してしまったんですよ。もう後戻りはできないんです」
藤吉郎が短刀を俺に突きつける。
「だから見張り番だってためらうことなく殺したんだろう」
「それは違う。とにかく話を聞いてくれ」
「サル、やめなさいよ」と、寧々さんが袖を引く。「この人はそんな悪い人じゃないでしょ」
「まあ、よい」と、柴田勝家が藤吉郎を手で制した。「それがどういうことになるのだ。申してみよ」
「一人殺してしまったことから目を背けようとは思いませんし、その責任は負うつもりです」
だからこそ、影武者を立てて家の存続を図ろうとしているのだ。
「ただ、いくら戦国の世の中だからとはいえ、どうしたって人を殺したくなんかないんですよ。できれば生かしたまま味方につけて、誰も死なずに済む方法を考えたい」と、俺は続きの言葉を探しながらため息をついた。「俺は軍師です。シナリオ……つまり歴史の流れを描く役割です。でも、このたびの合戦で、戦いに勝つということは敵を殺すことなんだと思い知ったわけです。自分が直接手を下すのでなくても、俺が考えた作戦の通りに戦いを進めるのでも、戦(いくさ)である以上、そこで必ず人は死ぬんです。もしも、人を殺さずにすむ方法があるなら、その方が最善の手段なんじゃないかと思うわけです」
俺の話に耳を傾けながらみんなはうなずいたり口を曲げたりしている。
「強い者が弱い者を吸収してより強くなり、
「そなたの言いたいことは分からぬでもない。だが、だからこそ、なぜ織田家なのだ。今川でも武田でも良かろうし、そもそも足利将軍家の再興の方がそなたの目標に近いのではないのか」
深く息を吸って俺は柴田勝家の鋭い目を見つめ返した。
「逆に、柴田様はなぜ織田家に仕えているのですか?」
「わしは尾張に生まれたから織田家に仕えておる」
「仕方なくということですか」
柴田勝家は苛立ちを隠さず拳で自分の膝を叩く。
「失礼なことを申すな。そういうことではない。かつては弟の信勝様にお仕えしていたこともあった。だが、お館様に許され、織田家に仕え続けることができておる。その恩義を忘れたことはない。わしのことより、今はそなたのことをたずねておる。話をそらすでない」
「今川や武田は源氏として格式のある名家です。ですが、すでに古参の家臣が重要な地位を独占しており、新参者が入り込む隙はありません。また、古参の家臣ほど新しい考え方を取り入れたり統治政策を変えることに抵抗するでしょう。その点、織田家はこれから発展する新興勢力です。商業を発展させ、新しい時代の戦い方を取り入れる柔軟性があります。俺が考えた戦略で四方の大名たちを傘下に収めていけば、必ず織田家が天下を取れます。俺はそれを実際に試してみたいのです。柴田様も、それを見てみたくはありませんか」
「ううむ、それはそうじゃが」と、うなったきり、柴田勝家は黙り込んでしまった。
藤吉郎が捨て犬でも見るような目で俺を見ていた。
「おぬし、本気で言っておるのか?」
「ああ、嘘じゃない」
「で、その方法とやらは?」
「それはお館様に直接申し上げる」
「その場で首をはねられるかもしれんぞ」
「覚悟はできている。後戻りはできないと言っただろう」
「じゃあ、松平の連中と一緒にお城へ上がるか」と、藤吉郎は柴田勝家に頭を下げた。「柴田様、よろしいでしょうか」
「うむ」と、無骨な家老は立ち上がると俺を見下ろした。「わしはそなたを信用してはおらんし、見張り番殺しの疑いも晴れてはおらぬ。だが、そなたを連れて参れと御命令を受けておる以上、事の次第を申し上げてお館様に判断していただくしかなかろう」
そして、視線を遠くへそらしながらつぶやいた。
「織田家による天下統一。わしがその神輿を担ぐのも悪くはない」
「サル」と、寧々さんが藤吉郎にすがりつく。「力になってあげてよ。あんたも出世したいんでしょ」
迷惑そうな顔で藤吉郎が俺を見るので、俺は寧々さんに笑顔を向けた。
「寧々さん、ありがとうございます。俺は災いの元じゃありません。必ずいい結果をお知らせしますから」
そして、俺は柴田勝家に一つだけ依頼した。
「南蛮人のデイブ・スミッシーを探してください」
あいつだけは野放しにしてはおけない。
裏をかくなら、その裏の裏を先回りする。
それが軍師の戦略だ。
勝家が家来たちにデイブ捜索の命令を下した後、松平の影武者連中と一緒に俺は清洲城へと連れていかれた。
二度目の清洲城は前回に比べて明るい空気に包まれていた。
今川の脅威を退けた家臣団の自信、そして真・織田信長として覚醒した新たなる主君の覇気がみなぎっていたのだ。
前と同じ広間に通され、俺は松平側の一員として作兵衛元康の隣に座った。
短刀は藤吉郎に取り上げられていたが縛られてはいない。
すぐに奥から織田信長が姿を現した。
「よくぞ参った。お互い腹を割って話し合おうではないか」
堅苦しい挨拶も抜きに、いきなり本題に入る。
「織田家と同盟を組みたいということだそうだが、今川とは決別するのだな」
酒井忠次が作兵衛に変わって言上する。
「はい、こたびの戦で松平は今川のためにかなりの犠牲を払うこととなり申した。譜代の家臣も多く討ち死に。しかしながら、それに対する今川の態度は腹に据えかねるものでございました」
「うむ、その無念さ、このわしもよく理解しておるぞ」
「ありがたきお言葉。我ら、これからは織田家とともに歩んでいきたいと願っております」
「おい、そこの南蛮人」と、信長が俺を扇子で指した。「サカマキとか言ったな」
「はい」と、俺は頭を下げた。
「その方の助言により、桶狭間なる場所へ出陣したはいいものの、そこに今川の軍勢はおらず、敵の大将を討ち取ることはかなわなかった。今川に奇襲をかけろとけしかけておいて、実は我々を敵前に誘い出す罠だったとはな。もちろんそのような計略などわしは見抜いておったからこそ、二万五千もの今川軍を追い払うことができたわけであるがな」
「いえ、それは私のせいではございません」と、俺は臆することなくまっすぐ信長を見返した。「デイブ・スミッシーが今川に内通していたことが判明しております。岡崎城にて、今川家から直接聞き出しております」
「言い逃れをするつもりか。その方こそ、今川に通じておるとまさに今白状したではないか」
「いえ、私が今川方と接触したのはあくまでも桶狭間の後です。木下藤吉郎と前田利家殿が証人です」
「そういえば、又左も来ておるのか」と、信長が視線を巡らせた。
「おそれながら、ここに控えておりまする」と、織田家家臣団の末席に並んだ前田利家が大きな体を縮めながらおずおずと答えた。
「その方の帰参を認めたことはないはずだが」
「申し訳ございません。ですが、御家のために馳せ参じた次第でございます」
「まあよかろう」と、鼻を鳴らす。
「おそれながらお館様に申し上げます」と、利家が神妙な面持ちで声を上げた。
「なんだ。このサカマキとかいう南蛮人のことか?」
「いえ、今日ここにお見えの松平の御一行について、お耳に入れておきたいことがございます」
「なんじゃ、申してみよ」
「こちらにいる者は、本物の松平家の当主元康殿ではございません。真っ赤な偽物の影武者でございます」
――おいっ!
土壇場での裏切りかよ。
利家の暴露に作兵衛たちは青ざめ、酒井忠次は膝の上で拳を握りしめる。
本多忠真は武器を隠し持っているのか、懐に手を入れている。
「本物の松平元康公は拙者の助太刀により木下藤吉郎が討ち取りました。しかしながら、このサカマキという南蛮人の指示で、松平家存続のためにこのような浅はかな策をとることとなり、拙者も藤吉郎もその話に乗ったふりをしておりました。ですが、それもすべてこの場で真実を暴露せんがため。織田家への忠義の
「なるほど」と、信長は静かにうなずいた。「それだけか?」
――ん?
それだけ……?
俺や利家を始め、家中すべての者が虚を突かれた表情でお互いを見回す。
ただ一人、藤吉郎だけが鼻の頭を掻いていた。
「又左よ、本当におぬしは馬鹿正直の律儀者だ」
サルに続いて信長が愉快そうに笑う。
「そのくらいのこと、わしが見抜けぬと思うておるのか」
――はあ?
「又左よ、わしがお館様にすでに申し上げてあるのだ」と、今度は藤吉郎が暴露した。
「なんと」
絶句する利家に向かって信長が扇子を突き出す。
「まあよい。馬鹿正直もまた忠義の証。又左よ、その方の帰参を認める。今後はより一層織田家のために槍働きに励めよ」
「ははっ、ありがたきお言葉。この利家肝に銘じまする」
床に額をこすりつける利家から俺に視線を移した信長が俺を見据えた。
「さて、サカマキとやら、この状況を踏まえてどうする?」
将棋なら詰みだが、軍師としての勝負はここからだ。
「いかにも、ここにいる松平元康、本多忠勝、榊原康政の三名は影武者にございます」
俺だって、こういう流れを予想しなかったわけではない。
藤吉郎はクズで信用ならないし、覚醒した真・織田信長の能力値を考えれば、この程度の洞察力は持っていて当然だろう。
さらにその先を読まなければ俺の出番などないのだ。
「しかしながら、松平家の存続こそ、織田家の発展に欠かせない重要な鍵となります。ですから、影武者であることを承知の上で、松平家との同盟を結んでいただきたいのです」
「ふむ、たわけたことを」と、信長が鼻で笑う。「我らに何の得もない偽物との交渉など、検討する余地もないではないか」
「いいえ、そうではございません。織田家が天下に覇を唱えるためには上洛を目指さねばなりません。西に目が向けば必然的に背後の東が手薄になる。そこで松平家が東の防波堤となれば、安心して目標に向かうことができます」
信長は黙って俺の話を聞いている。
「だからこそ、影武者が本物となる必要があります。そして、影武者を他の大名家にも本物と認めさせるには、織田家の後ろ盾が必要なのでございます」
「つまり、我ら織田家が結ぶ同盟こそ、松平家の正統な後継者と認めた証になるというわけだな」
はい、と俺は頭を下げた。
「おもしろい」と、信長は鷲の羽ばたきのように扇子を広げた。「気に入ったぞ」
退き佐久間が横から口を挟む。
「おそれながら、殿、松平を引き込むということは、今川に対し敵対の姿勢を鮮明にすることになりますが」
「今もすでにそうであろう。今後もやつらは尾張を狙ってくる。だが、これまでは松平もその先鋒だったのが、これからは織田方の防壁となるのだ。悪い話ではあるまい」
「しかし、このような話、信用して良いものでございましょうか」
「サルよ」と、信長は藤吉郎に目配せした。「あれを」
「ははっ、ただ今」
縁側に下がった藤吉郎が中庭に引き連れてきたのは、縛られた農民たちだった。
「おっとう、おっかあ」
作兵衛も,久作も、六太郎も腰を浮かせて声を上げた。
世良田村の農民たちだ。
――しまった。
先を越されたか……。
俺は昨夜、翌々日までに作兵衛からの連絡が来なかったら、村ごとみんなで三河の岡崎へ行くようにと、世良田村へ書状を出しておいたのだ。
デイブにはめられてから、この時代で生きていくにはただ正論を押し出してもうまくいかないし、根回しや策略といったあらゆる手立てを整えて準備しておかなければならないと学んだからだ。
だが、それよりも先に手を回されていたとは、まだ俺は甘かったのか。
「心配するでない」と、信長は表情を変えず影武者三人に告げた。「人質は戦国のならい。そもそも元康殿も竹千代と呼ばれし幼き頃に尾張に捕らえられておったではないか」
作兵衛とは関係のない逸話だが、酒井忠次は拳を握りしめて世良田村の者たちをじっと見つめていた。
信長が立ち上がって縁側に出る。
「今日この場へこの者たちを連れてこさせたのは我らの手札とするため。同盟が成立した暁には帰してやる。安心せよ」
「では……」と、酒井忠次が目を細めて信長を見上げた。
「うむ。松平との同盟、この信長、受けることにする。酒井殿、これまでの手配ご苦労であった」
「ははっ。ありがたきお言葉。松平家を代表し、この忠次、お礼を申し上げまする。身命を賭して必ずや約定を違えることなくこの同盟を両家の発展のために堅守いたしましょうぞ」
「二つ条件がある」と、信長は酒井忠次の前に立って松平家一同を見下ろした。「元康殿は,今日この場で『信康』と名を改めよ」
退き佐久間が合いの手のように言葉を挟む。
「それはつまり、殿の一文字をお譲りになると」
「両家の
実際のところは、名前の一文字を与える
そもそも、『元康』という名前自体、今川義元から一文字をいただいたものだ。
つまり、信長はこれまでの今川家との関係を捨てろと迫っているわけだ。
松平側がそれを断ることなどできるわけがない。
ことの成り行きを理解できずぼんやりした作兵衛の頭を押さえつけながら、酒井忠次が額を床にこすりつけて礼を述べた。
「ありがたきご配慮。殿に代わって喜びを申し上げまする」
「それともう一つ」と、信長が俺を指した。「そのサカマキを引き渡せ」
酒井忠次も本多忠真も俺を見る。
俺は二人をまっすぐに見返してうなずいた。
覚悟していたことだ。
今さらビビったりなどしない。
藤吉郎が俺の後ろに回る。
「おい、立て」
乱暴に引きずられたくはないので、俺は素直に従った。
と、その時だった。
「お兄様、お祝いの膳をお持ちいたしました」
「おお、市か。みなの者に振る舞ってやってくれ」
お市様が侍女たちを引き連れて広間に入ってくる。
張り詰めていた空気が和らぎ、藤吉郎もいったん俺を放した。
「そちらの南蛮の方にも。お口に合うか分かりませんが」
お市様が自ら俺のところへ膳を運んでくださった。
「ありがとうございます」
――後でおうかがいいたします。
そう、ささやかれたような気がして目を上げると、お市様は涼やかな表情を残して何事もなかったかのように兄信長のかたわらへ進み出ていき、居並ぶ家臣たちを見回して微笑みかけながら礼を述べた。
「此度の戦でも織田家のために力を尽くしてくださった皆様のためのお食事でございます。どうぞお召し上がりくださいませ」
「ははっ、ありがたき幸せ」
武骨な家臣たちはみな膝に猫を載せられたかのように頬が緩んでいる。
退き佐久間のお礼の言葉に家臣たちがみな唱和する。
「我らみな、お館様のために」
「おーうっ!」
お市様と侍女たちが退席してからは遠慮のない宴会となった。
松平の一行は居心地悪そうに隅の方で食事に手をつけている。
酒の飲めない信長は淡々と桃を口に入れていた。
「ああ、酒井殿」と、思い出したように忠次を呼ぶ。「その方、海老掬いなる踊りが得意だそうだが、余興に一つ披露してくれぬか」
「あ、いや」と、忠次は言葉を濁す。「かの踊りは拙者が今川家に住まいしていた若殿のお供をしておりました頃に披露していたものでございまして、今は封印いたした次第でございます」
「新しき若殿に披露すれば良かろう」と、刺すような目を流す。「のう、信康殿」
目をぱちくりとさせながら口いっぱいに頬張った飯を飲み込む作兵衛信康を横目に酒井忠次は軽く頭を下げた。
「申し訳ございませぬが、今川の記憶と共に忘れ申した」
意地を張る忠次に、浮かれたざわめきが静まる。
と、その緊張を打ち破るように、藤吉郎が着物の裾をまくり上げながら広間の中央に転がり出た。
「余興と言えば拙者、この藤吉郎めにお任せくだされ」
帯を締めたまま上半身を脱ぎ、ヤンキー座りで鼻の下を伸ばし頭を掻く。
「サルじゃ、サルじゃ」と、家臣たちが床を叩いて笑い出す。
膳にのったクルミをつかむと、床の上でたたき割って実をつまみ口いっぱいに頬張る。
そんな様子を見て、「サルよ、わしのもどうじゃ」と、家来たちから木の実が投げつけられ、ほいほいと拾っては口に入れる藤吉郎に、今度は信長が桃を一切れ放った。
口で見事に受け止め、果汁を唇の端から垂らしながらそれを飲み込むと拍手喝采が沸き起こる。
令和の俺からしたら行儀の悪い余興だけど、藤吉郎の機転に感じ入ったのか、酒井忠次が涙を流していた。
宴会が終わって俺は牢屋に閉じ込められた。
城の北側のじめじめとした区画にある小屋で、太い角材の格子戸で塞がれている。
俺を押し込め、鍵をかけた藤吉郎が格子の向こうから手招きした。
――ん?
そばに寄ると、手を差し込んで短刀を俺に寄こした。
本多忠真から譲られた今川の短刀だ。
「どういうことだ?」
「おぬしの物だから返すだけだ。汚れは落としてあるぞ」
「なんの罠だ?」
「そう勘ぐるな。これをどう使うかはおぬし次第ということだ」
「お館様の指示か」
「わしはおぬしの味方だぞ。出世したいからな」
質問の答えになっていないし、どこをどう信用しろというのだ。
とはいえ、さっきのサル踊りを思うと、こいつの腹の底はよく分からない。
「あの余興は酒井殿を助けようとしてやったのか?」
「ふん」と、鼻で笑う。「お館様のご機嫌取りも仕事の内だ」
照れ隠しのように視線を逸らすこともなく、真っ直ぐに俺を見つめながら言い切る。
だが、それこそが本心を隠しているのかもしれないのがこいつの分からないところだ。
デイブも化け物だが、藤吉郎も得体の知れない魔物だ。
こういうやつじゃないと、天下なんか取れないのかもしれない。
俺が黙り込んでいると、「さっさと受け取れ」と、面倒くさそうに短刀を放ってよこす。
とっさに受け取った俺は短刀をズボンのポケットにしまっておいた。
「寧々殿に言われた通り、おぬしに力を貸しておるのだ。ありがたく思えよ」
「借りを作ったとは思わないぞ」
「貸しを作ったつもりもないわい」
そう言い残すと、藤吉郎は調子の外れた鼻歌を歌いながら去っていった。
雨が近いのか、蒸し暑い風に乗って青草の臭いが漂ってくる。
――さてと。
ここまでは想定内だ。
信長は俺を捕らえてどうするのだろう。
殺すつもりなら、捕らえるまでもなくあの場で切り捨てていただろう。
俺みたいなホトトギスを鳴かせる必要などないかもしれないが、利用するつもりだからこそ、こうして生かしているのだ。
だから、まだチャンスはある。
しかし、こうして牢屋に閉じ込められてると、黒田官兵衛の逸話を思い出すな。
有岡城で織田信長に謀反を起こした荒木村重のもとへ向かった官兵衛は、説得に失敗し一年もの間幽閉されていたのだ。
べつに幽閉されたから軍師として覚醒するってわけじゃないけど、何かそういう共通点ができるって心がくすぐられるんだよな。
牢屋の中でニヤニヤしている俺を、見張り番が気味悪そうな目で見ていた。
暗くなってきた頃だった。
「腹が減っただろう」と、武将が握り飯を持ってきた。
丹下砦で話した河尻秀隆だ。
見張り番に鍵を外させ、中に入ってくる。
「実はな、おぬしに頼みがあるのだ」
「なんでしょうか」
「わしに服を譲ってはくれまいか。どうしてもその南蛮の服を着てみたいのだ」
ああ、そういえば丹下砦でじっくりと素材まで確かめてたっけか。
「着替えは持ってきた」と、きちんと折りたたんだ着物を差し出す。「木綿のものだが、仕立てたばかりの新しいものだぞ」
今川氏真には靴を譲ったし、なんか、わらしべ長者みたいになってきたな。
見返りはたいした物じゃないんだけど、貸しを作っておくのは悪いことではないと思って俺は取引に応じることにした。
ポケットの短刀を隠しながら着物を受け取り、高校の制服を脱いで差し出す。
河尻のおっさんは自分に服をあてがいながら臭いをクンクンと嗅ぎ始めた。
――いや、それは、洗ってからにしてくれよ。
「さすが南蛮物は香りからして違うのう」
俺の汗の臭いだっつうの。
おっさんが下着姿の俺を上から下までなめ回すように見る。
「その方、引き締まったいいケツをしておるのう」
俺は慌てて着物を体に巻いた。
「その下履きもどうじゃ。譲ってくれぬか?」
はあ?
全部脱げってか?
「これはさすがに。褌と変わらないですよ」
「いや、ぴちっとしておって、もっこりと、いい収まり具合ではないか」
やめろ、こら、ボクサーブリーフを引っ張るな。
「素材は綿なんで、この形で縫い合わせれば作れると思いますよ」
「しかし、この真ん中のいい具合のところをよく見せてくれ」と、俺の前にひざまずく。
「いや、あの、とりあえず、今は勘弁してください」
俺は浴衣の着方を思い浮かべながら着物を着てなんとかおっさんから体を隠した。
「残念じゃのう。だが、しかし、この南蛮の服だけでもかたじけない。我が家の家宝とするぞ」
シャツとズボンを大事そうに抱えて立ち上がり、俺の目をじっと見つめる。
「わしはその方が今川と通じているとは思えぬ。じゃが、お館様のお考えが分からぬゆえ、ここから出してやるわけにはいかぬが、わしが力になれるときはいつでも頼ってくれよ。その方の厚意は忘れぬ。必ず恩に報いるのでな」
「ありがとうございます」
「今度ゆっくり酒でも酌み交わそうではないか」
――未成年なんで、遠慮しておきます。
俺が曖昧な笑みを返すと、ようやく河尻のおっさんが出て行ってくれた。
――ふう。
なんかいろいろ危なかったな。
俺の方は《厚意》だけど、おっさんの方は《好意》だろ。
この時代は男同士の交わりはむしろ当たり前とされていたっていうし、気をつけないとな。
ま、でも、腹は減ってるから握り飯はありがたくいただこう。
クンクン……。
媚薬とか、変な薬は入ってない……よな。
一人になった牢屋の奥で河尻のおっさんがおいていった麦の握り飯を頬張りながら、俺はこの先の展開を考えていた。
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