第8話 兄と妹、そして軍師が生まれる
夜が更けて雨が降り出したころ、牢屋の外で誰かの話し声が聞こえた。
女の声だ。
お市様かと思って居住まいを正したら、提灯を持って姿を現したのは知らない女性だった。
「お市様付きの侍女で
まさかの令和ネームだ。
俺と同じ高校生くらいの年頃で、髪の色は黒だがギャルっぽい目をしている。
言葉遣いは丁寧だが、令和の記憶を思い浮かべてなんとなく苦手意識を感じてしまう。
「お市様があなたに話があるそうで、人払いをさせました」
心結は懐から
「私は伊賀の忍び。お市様をお守りするのが役目です。あなたが我が姫様に危害を加える場合は躊躇なく首を掻きます。切られたことにも気づかないうちに命を失うでしょう。私がつねにそばにいることをお忘れなきよう」
いきなり物騒なことを言われて股間がゾワリとした。
「危害とは?」
「おのれの胸に手を当ててみれば分かること。男はみな同じ獣」
藤吉郎なら狭い場所で二人きりになった途端迷わず手を出すんだろうけど、女子と手をつないだことすらない令和の非モテボッチ陰キャ男子だった俺にはそんな勇気はない。
一応釘を刺しに来たんだろうが、俺を見てそんな心配どころか可能性のかけらすらないことを一目で悟ったらしく、厳しい警告を発したにもかかわらず忍びの目には蔑みの色がこもっていた。
俺は隠し持っていた短刀を差し出した。
「これのことを言っているのなら、持っていてくれ」
――期待外れの軟弱者が。
そう聞こえた気がしたが、俺がたずね返す前に心結は格子から手を差し入れることなく立ち上がった。
いつの間にか彼女のすぐ隣にお市様がいた。
自ら鍵を外し、中に入ってくる。
湿っぽかった牢屋にいい香りが漂う。
「服を取り上げられたのですか?」
和服姿の俺を見てお市様の眉尻が下がる。
着こなしが下手かな。
「いえ、河尻という武将が南蛮の服を着てみたいから交換してくれと頼まれまして」
「そうでしたか。無理矢理取り上げられたのなら申し訳なく思いましたので」
「ご心配ありがとうございます。閉じ込められてはおりますが、握り飯ももらいましたし、良くしてもらっております」
俺の言葉に、お市様は安心したようなぎこちない笑みを浮かべた。
「あなた様にお話ししたいことがございます」
そう言いながら俺のすぐ隣に向かい合って座り、俺の胸に手を当てる。
――え?
いきなり頬が触れ合いそうな距離で思わずのけぞってしまった。
なおも、距離を詰めてくる。
ちょ、え?
非モテ男子の情けなさで女子との距離感に押され、体勢を崩したその時だった。
お市様が、俺の脇に置いていた今川の短刀をつかむと、鞘から抜いてブルブルと震える切っ先を突き出した。
「な、何を……」
「わたくしがあなたを殺します」
決意を自分に言い聞かせるように荒い息をおさえながら俺にのしかかってくる。
いい香りに押し倒されながら、俺は抵抗しなかった。
だが、着物ごしに固い刃の感触を感じるものの、胸に突き刺さることはなかった。
俺は桶狭間で本多忠勝を刺してしまったときの感触を思い起こしていた。
人を刺すのは難しいものだ。
体中の力を一点に集中させ、一気に突かないと刃が布に滑って、刺さるどころか切り傷さえつかない。
何度も失敗を重ねるたびに震えが大きくなる。
非力な姫は自らでは事を成し遂げられないと悟ったのか、俺を見つめる清らかな目に涙があふれ出す。
固くこわばった姫の指を一本一本ほぐすように短刀を取り返し、俺は自分の喉に突きつけた。
「お市様、あなたの手を汚す必要はありません」
「いいえ、わたくしはなんとしてでも……兄を」
――兄?
信長のことか?
思わずこぼれた自分の言葉にお市様の目が大きく見開く。
俺たちは暗い牢屋の中で見つめ合ったまましばらく動けなかった。
提灯の揺れる明かり一つが俺たちの存在を浮かび上がらせていた。
「死ねと命じるのであれば、そういたしますよ」
不思議と恐怖は感じなかった。
ここで死ぬのもむしろ悪くないと凪いだ気持ちで心が満たされていく。
俺みたいな非モテ男子がこんなお嬢様を泣かせたなんて、令和に戻って話しても誰も信じないだろうな。
非モテ男子の武勇伝。
歴史の一ページにさえ残らない裏話。
だけど、そんな馬鹿みたいなことに命を賭ける。
それが男ってもんなんだな。
そういう想いを経験できただけでも、この時代に来た甲斐(かい)があったというものだ。
お市様は嗚咽を上げながら俺にしがみついてきた。
危うく短剣が喉に突き刺さりそうになるが、俺を殺そうとしたのではなさそうだった。
「お願いでございます。兄を……」
想いがあふれて声にならないのか、袖で口元をおさえて咳き込んでしまった。
「良かったら、話を聞かせてもらえませんか」
短刀をしまい体を起こした俺に、頬を濡らしながらお市様がうなずく。
俺たちは牢屋の奥の壁にもたれて並んで座った。
右側に座ったお市様が俺の肩に頭をのせる。
夜の闇よりも深く豊かな髪の毛から漂う香りが俺の鼻をくすぐる。
男の本能で肺の奥まで思い切り吸い込んでしまう。
俺は慣れない手つきでお市様の肩に右手を回し、最初は軽く触れる程度に置いた。
そのかすかな感触が合図となって、まるで大木にもたれかかるようにお市様が身を寄せてくる。
覚悟を決めて俺は華奢な体を抱き寄せた。
雨の音が激しくなる。
外に心結がいるはずだが気配を感じない。
忍びは雨に濡れることなど問題にしないのだろうか。
腕の中で、お市様は落ち着きを取り戻したようだったけど、俺の方は心臓バクバクで顔が破裂しそうなほど熱い。
こんなイケメンみたいな真似、令和でだってやったことがないのに。
お市様の濡れた頬を着物の袖口で拭ってやると、照れくさそうに首をかしげながらもおとなしくしている。
――夢みたいだな。
今この瞬間殺されたって、むしろその方が幸せってもんかもな。
戦国一の美女のぬくもりを感じながら、俺は牢屋にいることも、下剋上の世にいることも忘れてただひたすらに男の幸福をむさぼっていた。
涙が乾くと、俺の耳に吹き込むようにお市様がつぶやいた。
「あなたは兄に天下を取らせたいとおっしゃっていましたね」
「はい、軍師として、その一助になればと思っております」
「それはいけません」
「なぜですか」
一瞬言葉を詰まらせたお市様はあらためて俺の目を見つめると、意を決したように大きく息を吸い込んだ。
「兄はいずれこの世を滅ぼします」
――ああ。
心を刺し貫くような言葉なのに、不思議と心臓の鼓動が落ち着いていく。
俺はすんなりとお市様の言葉を受け入れていた。
史実でも、敵対する勢力に対して、苛烈な制裁を加えたことは事実だからな。
ただ、それだけの意味ではなさそうだった。
俺の思考を察したかのように、お市様が話を続けた。
「兄信長が弟であるわたくしの次兄信勝を成敗したことはご存じですね」
柴田勝家も関与した織田信勝の謀反だ。
「はい。家督争いが原因で謀反を起こしたそうですね」
「それは違います」と、お市様が強い口調で言い切った。「信勝兄は謀反を起こす気などありませんでした」
「そうなんですか」
「当時わたくしは次兄と一緒に暮らしていました。うつけと呼ばれた兄信長に対して、信勝はたしかにまわりから織田家の当主として推されていたことも事実です。しかし、本人が謀反を起こすつもりがなかったのもまた本当です。あくまでも周囲の家臣たちによる主導権争いにすぎませんでした」
「ではなぜ、信長は弟を成敗したんですか」
俺の問いかけにお市様の肩がぴくりと弾ける。
「わたくしの……わたくしのせいです」
声を震わせながら俺の腕にすがりつく。
「わたくしは上の兄信長が十三歳で初陣、次兄の信勝が十一歳の時に生まれました。二人には大変かわいがられておりました。特に長兄である信長は歳の離れたわたくしを溺愛していました。幼い頃のわたくしも甘やかされるままに遊び相手を頼んだりしていたものです。ですが、ある時から……そう、四年前のあの当時、わたくしは信勝兄と暮らしておりました。信勝兄に遊んでもらっていたところ、突然割って入ってきた兄は弟を蹴り飛ばし、顔を踏みつけ、これでもかと皮膚がすりむけるまで地面にこすりつけたのです」
「そんな……」
「近習の者も止めることができず、うつけの奇行にただ呆然としているだけでした」
「なぜ」と、問いかけたものの俺は言葉を飲み込んだ。
俺はその答えを知っているような気がした。
「兄はわたくしが信勝兄に懐いているのが気に食わなかったのです。ただそれだけのことで暴行を働き、弟に釘を刺しただけでなく、わたくしの心を封じ込めたのでした。兄の機嫌を損ねれば、わたくしに関わるすべての者を滅ぼすと、そう睨みをきかせたのでございます。わたくしは兄には逆らえません」
単なる嫉妬でそこまでやるか。
――ああ、やるだろう。
あのシスコンならやりかねない。
「その時は信勝兄を織田家の当主に推したい勢力が、侮辱されて黙ってはいられないと決起を促しましたが、次兄本人はそれを抑えようとしました。一部の者が暴走し、それらの家臣たちは兄信長に滅ぼされ、信勝兄も責任を取らされかけましたが、いったんは母の口添えでおさまりました。ですが……」
お市様の体が痙攣を起こしたかのように激しく震えだし、俺はしっかりと抱きしめた。
記憶の扉を開けたせいで過呼吸になってしまったらしい。
「大丈夫ですよ。大丈夫。ゆっくりと、ゆっくりと息をしましょう。俺を見て」
お市様は潤んだ瞳で素直に俺の目を見つめてくれた。
「はい、大丈夫ですよ。ゆっくりと息を吸って、止めて。そうです。ゆっくりと息を吐きましょう。俺がそばにいますから」
イケメン気取りなセリフを言ってしまって顔が熱くなる。
そんな俺の表情を見てお市様の頬にも笑みが浮かぶ。
令和の時代に経験したかった高校生同士の恋愛みたいだ。
そんな和やかな雰囲気に反して、俺の脳裏には様々な考察が浮かんでいた。
一度目の謀反失敗――俺はその後の史実を知っている。
信勝が織田家の当主になる野望を捨てきれず二度目の謀反を起こそうとしたのを、柴田勝家らの重臣たちが見限ったのだ。
――だが、それはもしかしたら違うのではないか。
思わず俺まで体が芯から震え出す。
だがなんとか腕に力を込め、お市様に動揺を悟られないように耐えた。
焦点の合わない目で視線をさまよわせながら、再びお市様の呼吸が荒くなる。
苦しい息を押し出すようになんとか言葉を紡ぎ出そうとするのをなだめながら、俺はその続きを待った。
「二度目の謀反の時、それは起こりました。あの日、信勝兄は寺院への参詣に城を出ておりました。そこへ長兄の手配した者たちが待ち構えていたのです」
「柴田勝家たちが内通していたそうですね」
「はい、兄は恐怖を部下の心に植え付け、支配していました。うつけである兄の奇行を誰も予測できません。その上で、それについていけないものを反逆者として見せしめにすることで家臣たちを縛りつけていったのです。誰も逆らうことなどできません。兄の描いた物語を実現するためなら、みながこぞって動くのです」
謀反など起こす気のなかった弟に濡れ衣を着せるために、信勝派の重臣を脅したというわけか。
「配下の武将達に裏切られ、捕らえられた信勝兄は清洲城へと連れてこられました。それはそれは、とてもおぞましい……」
お市様の目から再び涙があふれ、顎を震わせながら途切れ途切れに言葉を絞り出す。
「信長兄はわたくしの目の前で、信勝の死体を形が分からなくなるまで自ら切り刻んだのです。目をえぐり、耳鼻をそぎ、何度も体に刀を突き立て、骨が露わになるまで肉をそぎました、わたくしは……わたくしは、信勝兄が無残な姿になるまで目を背けることを許されませんでした」
なんてことを……。
恐怖で支配し、操る。
俺は言葉を失っていた。
ただしっかりとお市様の肩を抱きしめることしかできなかった。
「わたくしだけでなく、それを見せつけられた武将達はみな恐れおののき、あらためて兄に臣従を誓ったのです」
俺はふと感じた違和感をたずねてみた。
「俺が最初に信長公にお目にかかったときは意志薄弱で今川の侵攻にも降伏しそうな態度で疑問に思っておりましたが、その姿はそのような激しい性格とは相容れないのではないでしょうか」
お市様は袖で自ら涙を拭いながら教えてくれた。
「わたくしは、あの日以来、うつけと呼ばれた兄の能力を神仏に願を掛けて封じて参りました。兄の好む菓子に修験者から手に入れた薬を混ぜ、兄の食べる果物はすべて神仏への祈祷をおこなってから食卓に上げていたのです。これ以上この世に災いを為すことがないように日夜祈り続けておりました」
――能力を封じ込める。
そういうことだったのか。
だから、最初に織田信長と対面したときに、あんなひ弱なステイタスだったのか。
苛烈な信長と凡庸な愚将。
家臣団からしたら、平穏無事な奉公を望むだろう。
むしろ封印された殿様だからこそ、みな疑問を呈することなく従っていたのか。
あの違和感にこんな背景があったなんて。
納得しかけたその時だった。
――待てよ。
俺は気づいてしまった。
ということは、あの信長を覚醒させてしまった俺はお市様の祈りを踏みにじって封印を解いてしまったことになるんじゃないのか。
なんて馬鹿なことをしたんだ。
寝た子を起こしたのは俺だ。
俺が悪いんだ。
俺が魔物を目覚めさせてしまったんだ。
そんな俺の戸惑いに気づいていないのか、お市様が俺の腕に頬を押し当てながらつぶやく。
「しかしながら、今川の侵攻という織田家の危機に直面し、兄は覚醒してしまったようです」
俺は言葉を失っていた。
「兄はあなた様の助言で、天下統一へと乗り出すでしょう。この日(ひ)の本(もと)を手中に収め、握りつぶすために」
いや、待ってくれ。
違う、そうじゃない。
俺が目指す天下統一は平和を意味するはずじゃないのか。
農民たちが安心して暮らせる戦いのない世の中を目指しているんじゃないのか。
信長の天下と、俺の理想はまったく食い違っているというのか。
次々と思考が沸き起こり渦を巻く。
混乱している俺の腕を揺すってお市様が現実――いや、その現実こそが夢なのか――に引き戻そうとする。
「お願いでございます。あなた様はここから逃げてください。いえ、わたくしも一緒に連れていってくださいまし」
「えっ、お市様を」
「兄がああなってしまった以上、もう元のうつけには戻れないでしょう。わたくしは兄の愛玩動物としてこの城に囚われ、あの苛烈な兄のために奉仕しながら生きていかなければならないのです。お願いでございます。わたくしを……わたくしを救ってくださいまし」
雨の音が大きくなる。
俺たちの間を沈黙が隔てていた。
覚悟を決めた俺は息を深く吸い込んだ。
「分かりました、お市様」
「では……」
俺の腕をつかむお市様の手に力がこもる。
「はい。逃げるわけには参りません」
「えっ……」
木の実をはめ込んだような光のない目が俺を見つめている。
俺はお市様の頬に手を当てた。
「世のため人のため、俺は織田信長を再び封じ込めなければなりません」
微笑みかけると、お市様も応じてくれた。
「安心してください。これ以上お市様が苦しむことのないように、俺が全力でお守りいたします」
「必ずですよ」と、お市様が俺を見上げて目を閉じる。
――ん?
これって、もしかして。
え、嘘だろ。
このタイミングで?
令和の非モテボッチ陰キャ男子にとって、めちゃくちゃ高いハードルが待ち構えていた。
いや、無理っす。
そりゃ、夢みたいだけど、夢でいいです。
キ、キ、キ……スとか、ありえないって。
しかも、相手は戦国一の美女だぞ。
俺ごときがありえないじゃん。
なのに、お市様はじっと目を閉じて俺を見上げている。
いいのか?
本当にいいのか?
俺でいいのか?
――いや。
戦国一の軍師になるなら、これくらいのことでビビったらダメだ。
この先どんな困難が起きても、俺はお市様のために戦い抜かなければならないんだ。
誓いの印、覚悟の
やるかやらないか、やれるのか。
迷うな。
堂々と前に進むしか答えはないんだ。
覚悟を決めろよ、男なら。
俺はお市様の背中に手を回し、静かに抱き寄せ、唇を触れ合わせた。
俺の知らなかった感触に一気に引きずり込まれ、俺は思春期男子の本能のままに快楽をむさぼっていた。
と、その時だった。
「姫様、人が参ります」
心結が格子の向こうから
慌てて顔を離したものの、抱き合っているところを見られてしまった。
手裏剣が発射されそうな目で俺を見下ろす忍びが格子戸を開ける。
「さ、お早く」
名残惜しそうに俺の手をつかんだままのお市様を引き剥がすように心結が立ち上がらせる。
傘を差した別の侍女が連れ出し、お市様は俺に顔を見せることなく去っていってしまった。
格子戸の鍵をかけながら忍びが俺に囁く。
「これからはわたくしがあなた様の影となって動きます」
「渋々といったところか?」
皮肉のつもりだったが、伝わらなかったようだ。
「わたくしの主人はあくまでもお市様です。その主人が契りを交わした以上、その相手に使えるのも私の任務です。ただし、たとえあなた様でも、お市様を裏切り苦しめることがあれば躊躇なく殺します。ですが、お市様のためになるのであればそこに迷いはありません」
「たとえば俺が伊賀と敵対することになったらどうするんだ?」
困らせたつもりだったが、即座に答えが返ってきた。
「我ら伊賀者は一度仕えた主には命を捧げる覚悟ができております。伊賀に義理立てすることはございません。頭領の
人の気配を察知したらしく心結は暗闇の中に消えてしまった。
それからすぐに、数人の足音が聞こえてきた。
鍵を持った男がやってきて、格子戸を開けた。
さっきの見張り番とは別の男だ。
「お館様がおまえに話があるそうだ。控えよ」
お市様が来たことを知られないように、心結が見張り番を変えさせたのだろうかと考えているうちに、織田信長が牢屋の中に入ってきた。
「邪魔をするぞ」
まるで友人の部屋に遊びに来たような気さくな雰囲気で驚いてしまう。
「その方らは下がっておれ」と、外の者たちに声をかける。
「しかし……」
「心配することはない」と、あぐらをかいて俺の前に座り、肩越しに手を振る。
お館様の機嫌を損ねないように、お付きの者たちが雨の中に姿を消した。
「これで腹を割って話せるな」
なんと答えたら良いのか分からず、俺はとりあえず平伏した。
狭い牢屋にあの戦国の風雲児織田信長と一対一。
俺は頭を下げたまま迷っていた。
懐には今川の短刀を忍ばせている。
今ここでやれば確実に歴史は変わる。
一撃必殺。
自分も成敗されるかもしれないが、非力なお市様と違って、俺だったら不意打ちで信長の体に短刀を突き刺すことくらいできるはずだ。
相打ちなら上出来だ。
お市様との約束、早速今この場で果たすべきなんじゃないのか。
――いや、待てよ。
血が上った頭がすうっと冷えていく。
さっき河尻のおっさんがここに来たことは見張り番に見られてるんだよな。
もし俺が信長を刺したら、河尻のおっさんが短刀を差し入れたと誤解されてしまう。
ただのファッション好きのおっさんに濡れ衣を着せるのは申し訳ない。
そんな迷いが好機を潰してしまった。
「
笑みを含んだ声がして、俺は平静を装った顔を無理矢理仕立て上げながら体を起こした。
「回りくどいことは嫌いだ。率直にたずねる。その方、南蛮人ではないな」
俺たちはまっすぐに視線を交わしながら話した。
「はい。生まれも育ちも日本……
「本当はどこから来た?」
未来から来たと言ってもいいものか一瞬悩んだが、むしろその場合の反応を見てみたかった。
「五百年後の未来の世界から来た……と、申し上げたら信じていただけますか」
「だろうと思っていた」と、真顔で即答だった。
――えっ?
あまりの飲み込みの速さに俺の方が動揺していた。
「他の者なら荒唐無稽な夢物語と一蹴するであろうが、わしは信じるぞ。むしろ、その方が話のつじつまが合う。あらゆる可能性を排除して最後に残った結論ならば、それがどれほど滑稽なものであれ、合理的な正解とすべきではないか。わしはつねにそう考えて行動しておる。世間ではそれをうつけと呼ぶようだがな」
なんだか名探偵みたいな
元々は、未来人なんて俺の存在の方が異物なんだけどな。
「このことは、わしとその方だけの秘密であるぞ。誰にも申すな。これまで通り南蛮人ということにしておけ。良いな」
「はい」と、デイブのことが頭の片隅にちらつきつつも、俺はうなずいた。
「あらためてたずねる。その方、この戦国の世の成り行きを知っておるのだな」
「はい、未来の世界には、この時代の記録がたくさん残っておりますので」
「なるほど」と、信長は顎に手を当て長く息を吐くと首をひねりながら腕組みをした。
さっきまでお市様と二人きりだった狭い牢屋に、今度はその忌み嫌う相手と対面している。
そんな奇妙な状況がむずがゆくて俺は鼻の頭を掻いたが、信長はしばらく黙り込んでいた。
雨の音が激しくなったり治まったり、暗い夜の闇を揺るがして風が吹き抜けていく。
「その方との約束通り、松平の一行は岡崎へ返した。世良田村の者たちも一緒に連れていかせた」
「あ、そうなんですか」
あっさりとした言い方に、俺は思わず素で返事をしていた。
「影武者とて、いや、影武者だからこそ、家族は大切であろう。同盟に対するわしからの誠意だ」
意外と寛大なところもあるものだと感心していると、そんな俺の表情を見て信長が苦笑している。
「申したはずだ。もとよりそのつもりだ、と。わしは約束は守るぞ」
「申し訳ありません。いぶかしんでいるわけではございません。寛大な御処置、ありがとうございます」
「その方の提案通り、松平を東の防壁として、わしは西へ向かう。無駄に敵を作るいわれはないからな」
お市様から聞いた話があるので疑いの気持ちはあるけど、合理的判断という点で言えば、信長の思考は一貫しているようだった。
「未来から来たその方は今川の侵攻を知っておったのだな。本来ならば桶狭間なる場所で義元を我ら織田の軍勢が討ち取っておったのか」
「はい。下剋上の有名な例として、学校で習います」
「学校とは?」と、信長の眉が上がる。「その方、足利で学んだのか?」
足利学校のことか。
「いえ、私のいた時代には、各地に学校が作られ、子供たちはみなそこで学ぶことになっているのです」
「ほう、なるほど。それは素晴らしいことだな。わしも参考にしよう」
話せば話すほど名君のように思えてくる。
飲み込みは早いし、即断即決、良いものはすぐに取り入れる気風こそ、まさに織田信長らしい。
「だが、その桶狭間で我々は今川義元を取り逃がした。それは歴史を変えたことになるな」
「はい、その通りでございます」
「ならば、その方の知っている知識はこれ以後は何の役にも立たないことになるではないかな」
――うっ。
さすが覚醒した真・信長。
痛いところを突いてくる。
「私には未来の出来事を知っている他にもいくつもの能力があります」
俺は脳内に情報が表示されるステイタス画面の話をした。
「たとえば、この雨があとどのくらいでやむのかも予測できます」
「ほう、易者もできるのか」
「占いではありません」
「分かっておる。そう
信長は緩急自在に俺を揺さぶってくる。
翻弄されるたびに俺の心は削られていく。
俺ごときが到底かなわない相手なんじゃないのか。
そうやって家来たちはこの覇王に飲み込まれていったんだろう。
「だが、その程度でこの戦国の世に通用すると思っておるのか」
「たしかに、このたびの戦で本来成し遂げるはずだった結果を得ることはできませんでした。今川家は無傷で撤退し、強大なままです。ですが、私はこれまでに千回以上、天下統一のシミュレーション……つまり、試行錯誤をおこなってまいりました。ですから、状況が変わったとしても、それに対する別の対応を考えることは、他の誰よりも熟練していると自負しております」
「なるほど」と、信長は静かにうなずいた。「単刀直入にたずねる。織田家に
――うわっ。
話をすっ飛ばして、いきなり核心を突いてきた。
「それは半分正解で、半分は間違いです」
俺は日本史上最大の裏切り者のレッテルを貼られたあの武将を思い浮かべていた。
「そういう言い方は好かん。はっきり申せ」
「木下藤吉郎はお館様のために身命を賭して戦い抜きます。それは間違いありません。藤吉郎は出世のためなら何でもしますが、それはあくまでもお館様の下で功績を挙げて家臣として自らも利益を得るためでございます」
「じゃが」
「はい、ですが……織田家に禍をなす者は他におります」
俺は史実を知っている。
これからの未来に起こる出来事をもうすでに知っている。
その一方で、お市様との約束も忘れてはいない。
俺は織田信長の天下統一を阻止しなければならないのだ。
と、その瞬間、俺の脳内モニターが強烈な光を放った。
《新しいステイタスが発動しました》
――そうか。
そういうことだったのか。
織田家に災いをなす者。
それはつまり……。
俺の思考に信長が割って入った。
「分かった。ならば、サルを利用しようではないか」
なんとか心中を隠せたらしく、さっきの話題に戻っていた。
「はい、ぜひ取り立ててやってください。藤吉郎はお館様を天下統一へ導きます」
「うむ、良かろう。織田家の禍はわし自身が回避すれば良いのだからな」
そして、信長は立ち上がった。
「その方をわしの軍師とする。藤吉郎同様、その方もわしのために尽くすのだぞ」
「はい」と、俺は再び平伏した。
顔を見られるわけにはいかない。
今のこの俺の心中を察せられたらお市様との約束は果たせない。
「
顔を上げ、信長と視線を交わす。
――逃げるな。
お市様と口づけをしたときにくらべたら、こんな緊張、どうってことはない。
「その方、名を改め、全くの別人としてこの世に生きよ」
まるで俺の決意を見透かしたかのように信長が告げた。
「かしこまりました。それでは……」
俺は新たな自分の名前を名乗った。
戦国の覇王、いや、魔王がそれを聞いて高らかに笑う。
「明智光秀か。わしの軍師にふさわしい良い名だ。気に入ったぞ」
「ありがたき幸せ」
格子戸をくぐり抜けた信長が俺に声をかけた。
「明日までには出してやる。一晩くらい、そこにおるのも一興というものよ。軍師たる者、そのくらいの胆力がなくてはな」
雨音を弾き飛ばすような笑い声と共に織田信長が去っていった。
一人になった牢屋で俺は胸に手を当て興奮を収めていた。
――これでいいんだ。
これが答えだったんだ。
握りしめた拳に力がこもる。
明智光秀として俺は戦国の世を生きていく。
織田信長が作り上げる天下を、根底から覆す反逆者として俺は歴史に名を残す。
史実を変えるためじゃない。
一五八二年のあの瞬間を再現するために俺は全力を尽くす。
俺は愛するお市様のために天下に平和をもたらすんだ。
脳内モニターにウインドウがポップアップする。
《明智光秀:統率97、武勇99、知略92、政治95》
これだけの能力があればどんな野望でも思うままだ。
《ここからは『信長のアレ・第2章』を起動します。よろしいですか?》
イエスかノーかの選択肢。
俺は迷わずイエスをクリックした。
――俺の心に本能寺。
魔王と呼ばれた男の野望を巡る旅は今始まったばかりだ。
第一部・完
第二部へ続きます
信長のアレを千回クリアした俺が戦国最強の軍師に転生したのに、いきなり桶狭間が消えてるんだが(ていうか、おまえら全員シナリオ無視すんな) 犬上義彦 @inukamiyoshihiko
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