第6話 今川との会見

 沓掛城から岡崎城までの道は踏みならされて比較的整備された道で歩きやすかった。


 脳内ナビには《戦国時代の東海道》と表示されていて、距離は五里(二十キロメートル)、徒歩約四時間と案内が出ていた。


 城を出ると、本多忠真も前田利家も当たり前のように歩き始める。


「武士なら馬で行くんじゃないんですか」


 利家にたずねると、俺を見下ろしながら眉を上げる。


「急ぐんだから歩くんだろう」


 頭に疑問符しか浮かばない。


「そもそもおぬしは乗れるのか?」と、俺に笑いかけてから六太郎にも目をやる。「こいつも無理だろ」


「まあ、そうですけど」


「それに、岡崎までは五里はある。馬は三里ほどで休ませなければならないから、結局歩いた方が早い。あいつらは水を飲んだり草を食ったり、瞬発力はあるかもしれんが、長距離は苦手だ。そのくせ歩きながら糞をする」


 競馬用の馬でもせいぜい数キロのコースを全力で走り終わったら相当休ませなければならない。


 長距離の場合、馬に乗れば楽ができるという利点はあるが、自分の足で歩いても時間はあまり変わらないのだ。


 速く走らせるというよりは、むしろ人間が持てない重い荷物を運ばせる役割の方が大きいのだろう。


 途中で日は落ちたものの雲はなく、星明かりだけでも意外と明るかった。


 街灯のない真っ暗な夜が逆に明るいなんて、令和の俺は知らなかった。


 街道沿いにはところどころに集落もあり、いくさに関係なく人の営みの気配が感じられる。


「見えてきたぞ」と、本多忠真が前方を指す。


 篝火のたかれた岡崎城には今川の旗がたなびいていた。


「我ら松平の城に勝手に居座りおって」


 先鋒を命じておいてあっさり退いた今川に対する怒りがおさまらないのか、二引両の家紋を見つめる本多忠真の声は荒い。


 二万の軍勢すべてが城内に入れるわけでもなく、あふれた雑兵たちが周辺で煮炊きをしている。


 酒を飲んだり賭け事や喧嘩をしたり、見た目は平和なキャンプのようだ。


「松平家臣本多忠真、沓掛城より使者として参った。大殿様へのお取り次ぎを願いたい」


 名乗り出ると、城門からひょっこりと武将が顔を出した。


《岡部元信:今川家臣:鳴海城主:統率76、武勇73、知略45、政治17》


「おお、本多殿、ご無事であったか」


「これは岡部殿。こちらにおったとは奇遇ですな」


 脳内中継で見たとおり、鳴海城の守将だった岡部元信は松平勢を見捨てて逃亡したのだった。


 それが今川義元のいる岡崎城で生存者と再会したのでは、さすがに気まずいのか、妙に早口でまくし立てる。


「拙者、大殿へ織田方の動きを知らせねばならぬゆえ口惜しくも敵に背中を見せなければならなかったが、そなたが時間を稼いでくれたおかげで、軍勢を無事にここまで引かせることができ申した。大殿に代わってお礼を申し上げる」


 自分の行動を損失を最小限に抑えるためだったと先に言い訳しておくことでなんとか取り繕おうとしたらしい。


「織田方の攻勢はまだ緩んでおりませぬ。時間がございません。早くお取り次ぎを」


「おお、そうであるな。今すぐ伺って参るゆえ、皆もこちらへ」


 本来ならば格下の松平の使者ではあるが、岡部元信へ貸しを作り優位に立ったことで交渉はうまく進みそうだった。


 俺たち一行はすぐに本丸御殿に上げられ、本多忠真は今川家臣の並ぶ広間へ通された。


 従者である俺たちはその隣の控えの間で待つように指示されていたが、脳内ディスプレイには次々に武将のステイタスが表示されていた。


《松井宗信:遠江二俣城主:統率45、武勇78、知略40、政治56》


《由比正信:今川家臣:統率36、武勇28、知略36、政治37》


《井伊直盛:井伊谷城主:井伊直虎の父:統率78、武勇62、知略70、政治37》


 この武将たちはみな史実では桶狭間の戦いで戦死しているはずだ。


 それがこうして生きてこの場にいるのは、俺が歴史を変えたからなんだろうか。


 いや、俺は弱気な織田信長を引っ張り出したわけで、むしろ史実に忠実なシナリオを描いたはずだったんだ。


 それを変えたのはデイブだ。


 あいつの密告が今川軍団を救ったんだ。


「大殿のお成りである。みなの者控えよ」


 伝奏役の声と共に、隣室のみなが一斉に平伏する衣擦れの音が聞こえた。


 襖を隔てたこちら側の前田利家も頭を下げるので、俺と六太郎忠勝も慌てて礼儀に習った。


 と、同時にもう一つ画面がポップアップした。


《今川義元:海道一の弓取り:統率113、武勇105、知略80、政治104》


 うおっ、なんだこの数値は。


 上杉謙信や武田信玄と並ぶチートじゃねえかよ。


 脳内モニターに襖を隔てた隣室の様子が中継される。


 今川義元と言えば貴族階級の麻呂眉っていうイメージだったけど、引き締まった顔に髭を生やし、鴨居に頭をぶつけそうなほど背が高く、肩幅が広く筋肉質の肉体はまるでアメフト選手みたいに逆三角形だ。


 史実のように桶狭間で無様に討ち取られる武将にはまったく見えない。


 ていうか、織田信長よりもこっちの方が『戦国の風雲児』にふさわしいくらいだ。


 真・織田信長として覚醒した姿ですら、この迫力にくらべたら挑戦者にしか見えない。


 それでも本多忠真は物怖じすることなく今川義元へ口上を述べた。


「織田方は追撃の手を緩めてはおりませぬ。若殿自ら殿しんがりを務め、沓掛城にて今川家のために時間を稼いでおりますが、落城は時間の問題。ゆえに速やかに岡崎を退去していただきたい」


「うむ、分かった。元康殿の働き、この義元しかと感じ入った。今宵は兵を休ませ、明朝日の出と共に曳馬ひくま城へ向かおうではないか」


 堂々とした態度のよく通る声が控えの間まで聞こえてくる。


 俺は脳内モニターに流れる音声を聞いているが、前田利家と六太郎忠勝の耳にもちゃんと届いているようだ。


猪侍いのししざむらいは前へ進むことしか考えぬが、名将はためらうことなく兵を引かせる。事実、今川の兵は一人たりとも減ってはおらぬ。今頃織田のうつけは歯ぎしりしておることであろうよ」


 松平の犠牲者のことなど眼中にない言い方に本多忠真はただ拳を握りしめてこらえていた。


「賢明なご判断、痛み入りまする」と、忠真が本心を隠して平伏した。「逃げることなく懸命に戦った我らも報われまする」


「うむ、今川の松平に対する信頼は今後も揺るがぬものであるぞ」


 義元は近習の者へ目配せして白木の盆に載った布包みを持ってこさせた。


「その方の労に報いて、これを授ける」


 開かれた布から現れたのは黒漆の鞘に金地紋が入った短刀だった。


「ありがたき幸せ。我が懐刀として戦場いくさばの守りといたします」


 両手で押し戴き受け取った忠真は核心の話題を持ち出した。


「拙者、風の噂で南蛮人が織田方の動きを知らせたと聞き申したが、まことでございますかな」


「岡部五郎兵衛」と、義元は元信に目をやった。


「ははっ」


「その方が取り次いだのであったな。申してみよ」


 主君に指名されて岡部元信が目を泳がせながら答えた。


「鳴海城にデイブ・スミッシーなる南蛮商人が来訪し、織田家の動きについて火急の話があると申し大殿様へのお取り次ぎを求めたのでございます。かの者は駿府にても見かけたことのある信頼できる者ゆえ、拙者、これは御家の一大事とばかり、沓掛城へ案内したしだいでございます」


 ――やはり、デイブだったのか。


 俺の顔を見て前田利家もうなずいている。


 これで疑いは晴れただろう。


「なるほど、分かり申した」と、いったん頭を下げた本多忠真は今川義元へ向かって言上した。「しかしながら、デイブなにがしという南蛮人が織田家の動きを伝えたのは、そもそも織田家ともつながりがあるからではございませぬか。信用のおける者かは疑問でございますな」


「め、めったなことを申すな」と、岡部が絶句している。


 ざわつく場を治めるように今川義元は落ち着いた声でたずねた。


「本多殿、その話の根拠は」


「鳴海城の明け渡し交渉をした際に織田家の者がそう話しているのを聞き申した」


 脳内配信ではそのような場面は見なかったし、本当は俺や前田利家の話から類推したんだろうが、松平家臣として、逃げた今川、特に岡部元信への意趣返しのはったりなのだろう。


 実際、岡部元信の顔面からは滝のような汗がしたたり落ちている。


 忠真はその表情を見てニヤリと口元に笑みを浮かべた。


「今川に恩を売り、織田からも利益を引き出す。南蛮人はしょせん異人。我ら和人から吸い取れるだけ生き血を吸い取る妖怪やもしれませぬな」


「なるほど、あい分かった」と、義元が深くうなずく。「南蛮人とは油断のならぬ者よ。デイブなる商人、今度来たときは捕らえておくべきかもしれんのう」


 岡部元信はただひたすらに平伏し、居並ぶ家臣たちはみな大殿の言葉にうなずいている。


 無実の罪を着せられるところだった俺にしてみれば、あいつが実際に捕らえられるまでは安心できないが、今川にも織田にも追われれば無事では済まないだろう。


 だが、日本を出てしまえば手出しはできない。


 その場合は、あいつがせっかくのスパイ活動で得られるはずだった利益をどちらも取り損ねたということで納得するしかないのかもな。


 まあ、俺としては自分が生き残れるなら、どうだっていいんだ。


 戦国時代に来た時から、野良犬にでも噛み殺されてゲームオーバーになっていたかもしれないんだからな。


 と、そこへ、ひょろりとした体格の若侍が入ってきた。


「これはいったい誰の物じゃ」


 そいつが掲げ持っているのは上がり口で脱いだ俺の靴だった。


 ――ちょ、何してんだよ。


 脳内ディスプレイにステイタスがポップアップする。


《今川氏真うじざね:今川家第十二代当主二十三歳:蹴鞠けまりの名手:統率13、武勇15、知略8、政治14》


 今川義元の息子だ。


 こっちは親子とは思えないほどの凡将だ。


 史実でも今川家を没落させるわけだから妥当なのか。


 突然現れた息子の姿に、父親が立ち上がる。


「そちはなにゆえにここにおる」


「親父殿が兵を引くと早馬で知らせがあったので、助太刀をと参ったのでおじゃる」


「馬鹿者。そちに家督を譲ったのは駿河を任せるため。当主が二人とも戦場に出向いて万一討たれたらどうする。後世までの笑いぐさじゃ。そのくらいの知恵もないとは情けなや」


 そういうあなたこそ、うつけにやられた大間抜けとして笑い物にされてるんですけどね。


 ただ、義元が叱るのももっともだ。


 早めに家督を譲って隠居するのは戦国時代には良くあることで、若い当主の後ろ盾として古参の家臣ににらみをきかせつつ、次の時代へと家名をつないでいく手段だったし、史実の桶狭間でも、今川義元はすでに氏真に家督を譲って駿府を任せていたおかげで、親子共倒れにならなくて済んだのだ。


 これに関しては、今川義元よりも織田信長の方が本能寺の変で失敗している。


 戦国のならい通りに長男信忠に家督を譲っていたものの、明智光秀に襲われたとき、信長親子は二人とも京都にいて逃げられないと悟った信忠も自害し共倒れとなり、結果として豊臣や徳川に天下を横取りされたのだ。


 だから、令和では今川義元を笑うけど、本当は信長だって最期まで『うつけ』だったのだ。


 そんな歴史的評価など知るよしもない不肖の息子は偉大な父の思惑など無視してずかずかと広間へ入ってくると、控えの間の襖を開け放った。


 脳内中継画像が現実の風景に切り替わる。


 制服姿の俺を見つけた瞬間、もう目の前に詰め寄っていた。


 ――お、おい、なんだよ。


「これはその方の物か」


 まっすぐなまなざしが俺を見つめる。


 あまりの圧に、俺は目をそらしながらうなずいた。


「そちの履き物はどうなっておるのだ?」


 俺の通学用ランニングシューズを氏真はなめ回すように眺めている。


「デイブとかいう南蛮人の履き物とも違うようじゃな」


 同じ洋風でも、戦国時代のイギリス人の布靴と令和のランニングシューズはさすがに違う。


 柔らかい素材でできた甲の部分や固い靴底を、臭いまでかぎながら調べている。


「変わった臭いがするのう」


 いや、あの、それ、クサいとしたら、俺のせいなんだけど。


 泥にはまったりして汚れちまったからな。


「この素材はなんじゃ?」と、プラスチックの靴底を指で弾く。


 石油からプラスチックを作る方法は脳内検索すれば出てくるだろうけど、説明するのは難しい。


「南蛮由来のものですね」と、俺はごまかした。


「牛や馬の革などで代用できるであろうか。しかし、この靴底の複雑な模様を刻むのは難しそうであるな。この軽い布地も麻のような手触りだが違う素材のようじゃな。南蛮の技術はやはり素晴らしいのう」


 それからしばらく無言で靴を見つめていた氏真は、顔を上げて再び俺をまっすぐに見つめた。


 それはまさにスポーツ用品店で憧れの選手のモデルを試着してみた令和のサッカー少年と同じ目だった。


「これを我に譲ってはくれぬか。蹴鞠に使えば無敵ではないか」


 ランニングシューズだからサッカーシューズほど特化していないけど、この時代の靴にくらべたらはるかにやりやすいだろう。


 困ったことになったとは思ったものの、同時に、これはチャンスなのかもしれないと俺は気づいた。


 この乱世を生きていく上で、こんなランニングシューズくらいで今川家の現当主を味方にできるなら迷うことはない。


「いいですよ。俺ので良ければ差し上げます」


「まことか!」と、氏真は板張りの床の上で靴を履き軽やかに飛び跳ねる。「何でお礼をしたら良い?」


「いえいえ、お礼など。ほんの気持ちですから」


 床を泥まみれにしてはしゃぐ若殿を見つめる家臣たちの表情は渋いが、氏真はふところからまりを取り出し、リフティングを始めた。


 ――うおっ、こいつ、いつもそんなもん持ち歩いてんのかよ。


 ボールはフレンドかよ。


 鞠を落とすことなく縁側に出て、従者たちに命じて篝火を集めさせると、ナイター設備を整えた中庭で蹴鞠が始まる。


 ダンスのごとき足取りで赤い炎に照らされた鞠を軽やかに扱う姿が闇に揺らめき、幻想的な曲芸団の演目でも見ているかのようだ。


 渋い表情だった家臣団もみなうっとりと眺め始めている。


 ――あ、そうだ。


 俺は控えの間にいる取次役に紙と筆を頼んだ。


「絵を描いておるのか?」


 前田利家が筆を執った俺の手元をのぞき込む。


 そう、俺が描いているのは令和の大人気漫画『はやぶさストライカー瞬』の主人公だ。


 小学生の頃に授業そっちのけでノートに落書きしてたのが今になって役に立つとは。


 キャラもストーリーも丸パクりだけど、戦国時代だからどこからもクレームなんてこないだろう。


 世界大会でマルセイユルーレットを仕掛けてきたフランスチームのMFからボールを奪い、逆にディフェンスを同じ技で翻弄しゴールを決める名場面だ。


「これを若殿に」


 従者から手渡された氏真は目を輝かせながら駆け寄ってきた。


「これは南蛮蹴鞠か?」


「はい。十一人ずつのチーム……軍団に分かれて競い合う競技です」


「おお、おもしろそうじゃのう」


 氏真はさっそく若い従者を相手にマルセイユルーレットを試し始めた。


「ほう、なるほど。こうか……」


 くるりと回転するなり、いきなり股抜けまで成功してみせる。


 ――すげえな。


 天才じゃねえか、コイツ。


 日本代表にいたら、本当に世界大会での優勝も夢じゃなくなるかも。


『氏真ジパング』とか伝説になったりして。


 何度も繰り返し氏真が家来を翻弄している間に、俺はもう一つ主人公の瞬が世界大会でイングランド代表相手に決勝ゴールを放ったシーンを描いた。


 絵だけでなく、古語に自動翻訳された文字も書き込む。


《側方より上がりし鞠はるか頭上を越えんとせしを、ひらり一閃いっせん宙返りにて捕らえれば、見事まとにぞ吸い込まれぬる》


「ほう、つまりこういうことか」


 そうつぶやいた氏真は鞠を空中高く蹴り上げると、自らの体を宙に躍らせ、オーバーヘッドで鋭く蹴り飛ばし、見事石灯籠に当てて見せた。


 ――うおおっ。


 家臣たちの口からどよめきが起き、涼しい顔の氏真がキッと俺を見つめる。


 こいつ、一発でバイシクルシュートを決めやがった。


「これはすばらしいのう。この競技を広め、国ごとに代表を出して競い合えば、いくさなどせずとも済むのではあるまいか。三河代表対尾張代表の試合が実現しておれば、こたびの戦もなかったであろうに」


 今川氏真が目を輝かせながら、まるで近代五輪精神のようなことを語り始める。


 史実では蹴鞠に夢中で今川家を滅ぼした無能な男と思われているけど、むしろ、生まれる時代を間違えた秀才なんじゃないのか。


「その方、名を何という」


「坂巻悠斗と申します」


「駿府へ来たら我のところへ参れ。この戯画の続きが気になるのでな」


「かしこまりました。書き上がり次第、お届けに参ります」


「そうしてくれるか。よし、ならば我の鞠をそなたに授けようぞ」


 もらっても困るけど、断る理由もないので俺はひざまずいて両手を差し出した。


「ありがたき幸せ」


「うむ、我も楽しみにしておるぞ」


 唖然とした表情の義元をおいて、脱いだ俺の靴を両手にはめながら氏真が去っていった。


 家臣たちも何しに来たんだあいつはという表情をしているが口に出す者はいない。


 咳払いをした今川義元が本多忠真に申しつけた。


「では、沓掛城の元康殿には今川家の感謝を総意として伝えてもらいたい」


「ははっ。この忠真、若殿に代わってお礼を申し上げまする。必ずやそのありがたきお言葉伝えまする」


 本心を隠したまま会見は終了し、俺たちは岡崎城下の本多忠真の屋敷に入った。


 夜も更けていたが忠真は六太郎忠勝を位牌だけの簡素な仏壇の前に呼び寄せた。


「兄忠高に報告せねばならぬ」


 位牌に向かって祈りを捧げる二人の後ろで、俺と前田利家も手を合わせた。


「そなたは本当に平八郎になりきる覚悟はできておるのか?」


 忠真ににらみつけられた六太郎は目を泳がせていたが、拳に力を込めると深く息を吸い込んだ。


「はい」


「そうか。ならば何も言うまい。これからは忠勝として生きよ」


 俺たちは忠真の屋敷で一夜を明かした。


 正直なところ、忠真に寝首を掻かれるのではないかと心配していたのだが、連日の長距離移動の疲れからか、俺はあっという間に眠りに落ち、いびきをかいてぐっすり寝ていたらしい。


「もとより卑怯な不意打ちなどするつもりもないが、昨夜今川の大殿に頂いた刀でそなたを刺そうと思いはしたが、あまりにも豪胆に寝ておるので殺意も失せたわい」


 澄んだ朝の日差しを背に口をゆがめながら笑った本多忠真はその短刀を俺に放ってよこした。


「わしには必要ない。そなたが持っていろ」


「いいんですか」と、俺は繊細な装飾が施された名刀を眺めた。


「今川には散々煮え湯を飲まされてきた。おぬしへの怒りなど生ぬるく思えるほどのな。けじめの意味で手放すのだ」


 甥の死も強引な影武者も全部飲み込んでしまえるほどの屈辱がどのようなものなのかは知るよしもないが、味方でいてくれる以上俺はその気持ちに報いたいと思いながら、今川の短刀をありがたく受け取った。


 約束通り日の出と共に岡崎城を退去した今川勢を見送ってから俺たちは沓掛城へ向かった。


 織田と松平の同盟が成立したら、漫画を楽しみにしている氏真には申し訳ないが、俺は駿府へ行くことなどできなくなるだろう。


 裏切り者のデイブ・スミッシーと、やっていることは変わらないのかもしれないな。


 史実通りにするためとはいえ、そもそも織田信長に桶狭間への出馬を進言したのは俺なんだし。


 だが、そんな謙虚な反省など、この下剋上の乱世では何の役にも立たないようだった。


 沓掛城に戻った俺に待ち受けていたのは、無実の罪を晴らすどころか、理不尽で過酷な運命だった。


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