第4話 空白の桶狭間

 返り血を浴びたみたいにぬめりけのある闇をかき分けながら先を急ぐ。


 令和の人間は本当の暗闇を知らない。


 星や月のない日でも、遠くの街の明かりが雲に反射してたり、車のライトが横切ることもある。


 だが、戦国の世の夜は本物の闇だ。


 目隠しをされたみたいに何も見えない。


 一応脳内ディスプレイに地図が表示されているから方角は間違っていないと分かるのだが、それがなかったら、どこを歩いているのかまったく安心できなかっただろう。


 明かりを持っていないのに、藤吉郎と前田利家は夜目が利くのか、昼と変わらない速さで進んでいく。


「早いところ丹下砦に入って、眠っておかないとな。あくびをしながら戦はできんぞ」


 藤吉郎は相変わらず息も切らさず意気揚々と俺の前を進む。


「サルよ、一番槍は俺だ」


 前田利家が槍を振り回したのか、闇の中から切っ先が舞う音が耳をかすめた。


 ――やめてくれ。


 見えねえんだからよ、危ねえだろ。


 頼むからおとなしく歩いててくれ。


 だが、興奮が収まらないらしく、二人ともずっとしゃべり続けている。


 いつまでたっても闇に目が慣れず暗くて見えない道を、俺は二人の声の後について歩いて行った。


 連れてきた三人組は逃げだそうとはしないものの、やはり気が乗らないらしい。


「畑の手伝いしてれば良かったな」と、茄子の久作。


「今さら遅えよ」と、作兵衛が後頭部をはたく音が闇に小気味よく響く。


 南瓜の六太郎はしゃべる気力もないらしい。


 闇の中でかろうじて足音だけは離れずついてきている。


 もっとも、俺だってやつら同様、昼の間にすでに四十キロを往復して今またさらに片道二十キロ近くを歩こうとしているわけだから、脚は限界に近いし、頭も半分眠っている。


 せめて街灯でもあれば歩きやすいんだけどな。


「街道に街灯をつけるっていう考えはないんでしょうかね」


 俺は前を行く二人にたずねてみた。


「街灯とはなんじゃ?」


「道端に明かりを置いておくんですよ」


 江戸時代あたりだと石灯籠というのが橋のたもとなんかに設置されていたと聞いたことがあるが、戦国時代だとまだそういうのはなかったんだろうか。


 藤吉郎の返事は素っ気ない。


「油や蝋燭ろうそくの無駄だろ。夜中に出歩く馬鹿はおらんからな」


「ああ、山賊ぐらいだろ」と、前田利家も豪快に笑う。「あとはまさに俺たちみたいな馬鹿者か」


「夜這いに行くにも明るいとやりにくいしのう」


 悪さをすることしか頭にないらしいが、その方が戦国の世の常識なんだろう。


 だからこそ、夜を明るくできれば治安が良くなり、新しい産業もおこせるんじゃないだろうか。


「主要な街道筋ぐらいは、明かりをつけておけば兵を動かすのにいいと思うんですけどね」


「それも一理あるな」と、藤吉郎は脚を緩めず同意する。「お館様に申し上げてみたらどうじゃ」


「藤吉郎さんの手柄にしてくださいよ」


「いいのか。おぬしはなんでそんなにわしに良くしてくれるのだ?」


 そりゃまあ、未来の天下人だからな。


 ――説明しにくいけど。


「ここに来て一番最初に世話してくれたからですよ」


 俺は当たり障りのない言い訳を答えておいた。


「ふん、サルにしてはずいぶんと人の良いことをしておるな」


 前田利家にからかわれて藤吉郎が声を張る。


「人が良いのは生まれつきじゃ」


 和やかな会話が続いているが、俺の心では緊張感が高まっていた。


 戦国の世は不便で体力が物を言う世界だから、本来なら俺みたいなやつは即刻消滅する雑魚キャラなんだろうけど、そういうヒリヒリするような過酷さにずっぽりとはまってしまうと、それはそれでイヤではない。


 疲れているのにハイになる感覚というのだろうか、緊張感と共に期待も高まってくるのだ。


 丹下砦に着いたのは日付も変わった夜中の二時頃だった。


 ようやく見えた篝火かがりびにホッとする。


 謹慎中の前田利家は、知り合いに見つかるとまずいから砦近くの森に隠れていると、朝までいったん別行動を取ることになった。


 俺たちは藤吉郎に連れられ、織田方の兵で賑わう丹下砦に入った。


 さすがにくたくたで、炊き出しの握り飯をもらって食っているうちに眠気に襲われ、危うく大事な飯をぽろりと落としてしまうところだった。


 と、そこへ松明たいまつを持った使いの者がやって来た。


「木下藤吉郎殿はおられるか?」


「わしだ」と、指についた米粒をなめ取りながら藤吉郎が立ち上がった。


「熱田神宮からこちらへ向かっているお館様がお呼びでございます」


「なんと、このわしを直々にご指名とは何事だ。もしや、褒美にお市様をくださるなんてことはあるまいな」


 ――あるわけないだろ。


 自分には釣り合わないとか言ってたくせに。


 だが、ツッコむ気力もない。


「なあに、本気で期待などしとらんさ。だが、思うだけならただだからな。突拍子もない期待なら外れても落ち込むこともないし、何事も勝手に期待しておくものさ」


 ポジティブにもほどがある。


 だけど、史実でも、その前向きさで天下を手に入れてしまうんだからな。


 お市さん本人には嫌われても、その娘は手に入れるわけだし。


 藤吉郎が座ったままの俺の肩に軽く手を置いた。


「朝までには戻れるだろうから、ここにいてくれ」


「分かった」


「先ほどおぬしが言っていた街灯の件も忘れぬうちにお館様に申し上げておこうかのう」


 なんだかんだ言って、やはり将来の豊臣秀吉だけあって有能なのだ。


 藤吉郎が去って、三人組と一緒に砦で夜を明かす。


 といっても、いやいや連れてこられたやつらにとって俺は禍をもたらす厄介者だし――ヤラセと知らなかったとはいえ、河原では作兵衛の脚に石もぶつけてる敵だし――話が盛り上がるわけもなく、布団代わりの筵をもらってくるまると、頭を殴られたみたいにすぐに眠りに落ちてしまった。



   ◇



 疲労が限界を超えていたせいか、かえってすぐに目が覚めてしまった。


 脳内ディスプレイが再起動する。


 時刻は四時半だった。


 曇り空だが夏至に近いせいか、もう明るい。


 三人組は仲良くいびきをかいて雑煮の餅みたいに眠っている。


 織田信長に呼ばれた藤吉郎はまだ戻っていないようだ。


 ここで待つという約束なので、俺はまた目を閉じて体を休めておくことにした。


 いつのまにかうとうとしていたらしく、次に目を覚ました時は雨が降っていた。


 まわりの連中も起き出して、木陰や屋根のあるところへ転がるように移動する。


「これで戦なんかやるのかね」と、茄子の久作がぼやく。


「逆に敵に攻め込まれたりしてな」


 あくびをかみしめる作兵衛の袖を南瓜の六太郎が引っ張る。


「なあ、もしそうなったら、おいらは逃げるぞ」


「藤吉郎もいねえから、今のうちに逃げるか」


 そんな相談をしている三人組に聞き耳を立てていたら、握り飯を両手に持った雑兵が通りかかった。


「お、朝飯か。じゃあ、逃げるのは食ってからにするか」と、三人はちゃっかり行列に並んでいた。


 麦の握り飯が食いたいというだけで、命の危険があるかもしれない砦に残る。


 割に合わないようだが、食えるだけましなのかもしれない。


 俺も一緒に行列に並んでいると、横から声を掛けられた。


「おぬし、変わった格好をしておるな」


 顔を向けると、雑兵とは明らかに違う身なりの侍がいた。


河尻秀隆かわじりひでたか:織田家黒母衣衆筆頭:三十三歳:統率63、武勇74、知略22、政治17》


 全体的に数値はあまり高くないが、織田信秀の代から使える古参武将で、史実では武田家滅亡後の甲斐国を任されることになり、本能寺の変の後に武田の遺臣たちに討ち取られたとされている。


 武勇が高ポイントだけあって、戦いで揉まれてきた男の目で俺を見つめている。


「おまえは、どこの従者だ」


「木下藤吉郎の知り合いです」


 従者ではないけど、とりあえずそう言うしかなかった。


「木下……藤吉郎だと?」と、厚い胸板の前で太い腕を組む。「そんなやつは知らんぞ」


「ええと、あの、サルみたいな顔をしたやつです」


「なんじゃ、サルか」と、腕をほどき、大きく口を開けて笑う。「あいつにも、そんな立派な名前があったとはな」


 俺のシャツをつまんで布地の手触りを確かめ始める。


「良い生地を使っておるのう」と、手があちこちに伸びてくる。「いいのう。実にいい生地だ」


 確かに、綿百パーセントではなく、形状記憶シャツで化繊の混紡だからこの時代の人にはなじみのない手触りなんだろう。


 それにしても、あまりにものめりこみすぎているのか、おっさんの鼻息が荒くなって、だんだん抱きつかれているみたいな気分になる。


 ――うほっ。


 ズボンの方まで撫で回し始めたかと思うと、ポケットに手がつっこまれ思わず腰を引く。


「これは何の袋じゃ?」


「ポケットといって、ハンカチ……手ぬぐいなどを入れておけます」


「便利な袋じゃのう。わしの着物にもつけさせようかのう」と、なおも奥をまさぐる。「ん……これは何じゃ?」


 ちょ、それは……俺の股間にぶら下がる別の袋だ。


 と、微妙な空気になったところでようやく離れてくれた。


「ところで、おまえ出身はどこだ?」


「南蛮人です」と、いうことにしておく。


「なるほど、それで、この服装か。わしもこういう服は似合うかのう?」


 ヘンタイかと思ったら、意外にも本当におしゃれに興味があるらしい。


「実はな、わしはかねがね南蛮の服は動きやすそうでいいと思っておったのじゃ。殿の所に出入りしておる南蛮人……何と言ったかな」


「デイブ・スミッシーですか」


「おお、それじゃ。清洲では遠目でちらりと見ただけだったのだが、間近で見られるとは今日は朝からついておるな。おぬしもいっぱい飯を食って手柄を立てろよ」


 河尻秀隆は俺のケツを勢いよくはたいで去っていった。


 三人組と一緒に握り飯を受け取ってむさぼり食う。


 間食なんて贅沢な物はないから食える時に食っておかないと確実にえる。


 この時代の米には細かな石粒が混じっていて、気をつけないとジャリッと歯に当たって欠けそうになる。


 歯医者なんてないし、どうせ抜くくらいの治療しかできないんだろうから、けっこう深刻な問題だ。


 実際、まわりを見ていると歯が抜けたり欠けたりした大人が多い。


 俺なんかは令和ではもちろん毎日歯を磨いていたし、小さい頃に歯列矯正までしてあるから、この時代の人間にしてみたら奇跡みたいな存在なんだろうな。


 ちょうど雨がやんだところで城門のあたりが騒がしくなる。


「お館様のご到着である。みなの者、控えい!」


 飯を食って屋根の下でくつろいでいた雑兵たちが追い立てられて空いた場所に、清洲城でも見かけた家臣団が続々と入ってくる。


 織田信長は立派な金の鍬形を立てた古風な兜をかぶっている。


 西洋風の黒マントとの和洋折衷が風格を醸し出している。


「おい、見ろよ。あれがお館様なのか。うちのお殿様って、あんなに引き締まった顔をしておったかな」


「瓢箪みたいだったのに、見違えるようじゃのう」


「なんだか、やる前から勝てそうな気がしてきたわい」


 うつけだと思われていた殿様の生まれ変わった姿に、城兵たちの士気が上がる。


 柴田勝家が俺を見つけて真っ直ぐにやって来た。


「おう、おぬしも来ておったか。桶狭間なる場所へ案内するのじゃな」


「はい、そのつもりです」


 藤吉郎もやって来て、俺を親指で招く。


「おい、おぬし、わしと一緒に来い。お館様のご命令だ。桶狭間とやらに物見に行くぞ」


「サルよ」と、柴田勝家が声をかける。「簗田政綱が沓掛城の物見に行っておるそうだ。途中で会うかもしれんぞ」


「かしこまりました」


 藤吉郎と俺が三人組を引き連れて城門を出たところで、待ち構えていた前田利家が合流した。


 俺はさっき城内でもらっておいた握り飯を渡した。


「お、これはかたじけない。おぬしもなかなか良いやつだな」


 巨漢にバシバシと肩をたたかれ、浅い眠りでぼんやりしていた体に気合いが入る。


「おい、又左よ、邪魔な物は置いていけ」と、天を突く槍を見上げて藤吉郎がため息をこぼす。


「命よりも大事な武士の魂を置いていくわけにはいかん」


「だが、物見で目立ってどうする」


「水平に持っていくから大丈夫だ」


 前田利家は握り飯を一口で頬張るとさっさと小走りで先頭に立つ。


 藤吉郎は軽く舌打ちしつつ歩き出した。


 大高城と沓掛城を東西に結ぶ直線のちょうど中間点に桶狭間がある。


 俺たちは北西側からななめにその場所を目指していた。


 距離は一里(四キロメートル)、四、五十分程度で敵軍に遭遇するはずだ。


 湿地ばかりだった清洲周辺と違ってこのあたりはゆるやかな丘陵地帯で、雨上がりで草は濡れているが、地面に水たまりはなく歩きやすい。


 薄い靄がかかっていて、見つかりにくい反面、こちらも敵を見つけにくい。


 下手すると二万五千の大軍といきなり鉢合わせになるかもしれない。


 どんどん緊張感が増していく。


 三十分ばかり歩いてあと残り一キロメートルほどというところに神社があったので休憩を取った。


「本当に谷間などあるのか?」と、藤吉郎が遠くを見ながらつぶやく。「さっきからなだらかな丘が続くばかりではないか」


 脳内ディズプレイには《あと十二分》と出ている。


「方角は間違っていませんよ」


 と、そこへ駆け足で近づいてくる馬の足音が薄靄の中から聞こえてきた。


 俺たちはとっさに神社の木立の陰に隠れて様子を見守った。


「ん、あれは簗田殿ではないか」


 前田利家が槍を振って立ちはだかる。


「簗田殿、お待ちくだされ」


「おお、なんじゃ、槍の又左ではないか。謹慎中のおぬしがこんなところで何をしておる」


 慌てて馬を止め荒い息を整えながら下りたのは、たしかに昨日清洲城で見かけた簗田政綱だった。


 前田利家は口に人差し指を立てながらたずねた。


「手柄を立てて復帰したいので内緒にしておいてくだされ。それよりも沓掛城の様子はいかがでござったか」


「それが……」と、簗田政綱が口ごもる。「今川の旗などなく、城はもぬけの殻じゃった」


「なんと!」


「大軍どころか、人の気配もなしでのう」


 前田利家が三人組に詰め寄る。


「おぬしら、昨日は本当に沓掛城の様子を見て参ったのであろうな?」


「間違いねえっすよ」と、作兵衛がキッと見返す。


「ああ、本当ですって。なあ?」


 久作が横で下ぶくれの頬をさらに膨らませると、南瓜の六太郎もうなずいた。


「俺たちちゃんと見たよ。かあちゃんが大事にしてる櫛みたいな印だったもん」


 今川の旗印は赤鳥と呼ばれ、持ち手がついた和櫛のような見た目だ。


「あと、丸に線が二本の旗もあったし」と、作兵衛が付け加えた。


 今川家は足利将軍家の一門だから同じ二引両という家紋で間違いない。


「すでに大高城へ向けて出立したというのでござるか」と、藤吉郎が割って入る。「ならば、桶狭間なる場所へ急いで確かめねば」


「いや、それがのう」と、簗田政綱の口は重い。「付近の農民に聞いたところでは、今朝方早く、明るくなるのを待たずに三河みかわ方面へ去ったというのじゃ」


 ――ん?


「それじゃ、逆方向じゃないですか」


 思わず俺も口出しをしてしまった。


 三河は尾張の東にある松平の本拠地で、さらにその東が今川領の遠江とおとうみ駿河するがになる。


「つまり、兵を引いたと?」


 前田利家の問いに簗田も首をかしげてうなる。


「どうやらそうらしいのだが、わしにも分からぬ。とにかく、沓掛城にはおらぬことは間違いない」


「どうする」と、利家が藤吉郎を向く。「追って探すか?」


「いや」と、藤吉郎は首を振った。「予定通り、桶狭間なる場所へ行こう。もしかしたら、沓掛城を出て大高城へ向かっておるのかもしれぬからな。そこで今川の軍に遭遇しなかったら、沓掛城へ行ってもいいわけだし。二万以上の兵がいるなら、隊列だけでも一里以上にはなる。よもや見逃すことはあるまい」


「なるほど、そうするか」と、前田利家も拳をぶつけ合わせた。


「では、わしはとりあえずお館様の元へと知らせに参る。また会おう」


 簗田政綱はまた馬にまたがって去っていった。


 おれは脳内マップに指示された方向を指さした。


「あと少しで桶狭間に着くはずです」


「よし、急ごう。また雲行きが怪しくなってきたな」


 藤吉郎の言うとおり、灰色の空には鯨みたいな黒い雲がいくつも流れ始めていた。


 靄が晴れてきたが、湿気を含んだ空気がまとわりつき、全身汗まみれで息が荒くなる。


 三人組はもう文句も言わずに黙ってついてくる。


 桶狭間とされる地点にあと数百メートルのところまで来たが、周辺は牛が放牧されているような草原で身を隠せるような木がほとんど生えていない。


 膝丈くらいの草に紛れるように身をかがめながら少しずつ進む。


「おい、おぬし、どこまで行っても谷間などないぞ」


 藤吉郎の声には怒りの色がにじんでいた。


 馬の背のような丘の上に出たところで、前田利家が前方を指した。


「おい、見ろ。あれは……」


 みなで灌木に隠れて半分だけ顔を出して様子を見ると、槍で武装した兵士たちが牛の群れの間を縫うように東へ向かって行進していた。


「今川ではないな」と、藤吉郎がつぶやく。「あれは松平の軍勢だ」


「ということは、大高城へ入ったやつらか?」


 前田利家の問いかけに、顎をつまみながらうなずく。


「今川が沓掛城から撤退したから、前線の大高城を守る意味がなくなった。それで松平も三河へ帰るということのようじゃな」


「骨折り損のくたびれもうけか」と、利家が笑みをこぼす。「疲れ切って足取りも重いようだな」


 たしかに、きのう丸根砦を全滅させた軍勢とは思えないほど覇気がない。


 事前の情報通り、五千人が引き上げていく隊列はところどころ間延びして、まるでやる気のない高校生だらけのマラソン大会みたいだ。


 情勢が変わると、これほどまでに士気が下がるものなのか。


 兵士を鼓舞する武将の統率力がいかに重要かを俺は身に染みて感じていた。


「それにしても、なぜじゃ」と、藤吉郎が首をかしげる。「この素早い退却、織田方の動きを知っていたかのようじゃな」


 たしかに変だ。


 苦労して確保した前線基地を放棄してまで帰国を急ぐなんて、よほど確かな情報をつかんでいないとできない判断だろう。


 敵にもよほど優秀な軍師がいるってことなんだろうか。


 ――いったい、どうなってるんだよ。


 またシナリオが変わったというのか。


 そもそも、今川義元がいないんじゃ、桶狭間イベントなんて起こりようがない。


 と、そこへ東の方からポックポックと馬の足音が聞こえてきた。


 振り向くと、見覚えのある金髪男がこちらへ近づいてくる。


「ハアイ、三浦出身のフランクサーン」


 デイブだ。


 なんでここに?


「おぬし、馬に乗れるのか」と、藤吉郎が驚いている。


「乗馬は紳士のたしなみデース。ワタシは国に帰れば騎士ナイトの爵位がある貴族ですからネ」


 戦国時代の馬は令和のポニーのような体格で、長身のデイブが乗ると、子供の自転車にまたがった大人みたいだ。


 実際、あぶみに足をかけると膝が余って蟹股がにまたになってしまい、体勢が苦しそうだ。


「東の方に敵軍はいなかったか?」と、前田利家がたずねる。


「見ませんでしたヨ」


「ううむ、やはり簗田殿の言うとおりか」と、藤吉郎も腕組みをしてうなる。「どうしたものかのう」


「どうしたものかって、サルよ、何がだ?」


「このまま松平をおとなしく帰すのか」


「では、さっそくお館様にご出馬を願うか」


「いや、今から丹下砦まで戻っていたら、戻ってきた頃には沓掛城に入られてしまうだろう。間に合わん」


「かといって、さすがに俺たち七人だけでやるのは無理だろう」


「だが、手柄を立てるなら今しかない。おぬしだって帰参したいのであろう」


「それはそうだが、討ち死にしたら帰参どころではないぞ」


 戦の話を始めた二人の横で、人数に入れられたた三人組は青い顔でブルブルと震えている。


 俺も正直、ケツの穴がムズムズして漏らしそうだった。


 軍師として合戦に勝つことばかり考えていて、自分自身が戦闘に参加することに関してはどこか目を背けていたようなところがある。


 桶狭間の場所さえ教えればあとは勝手にベントが発動するんじゃないかと思い込んでいたのだ。


 だが、予想もしなかった別の敵がすぐ近くにいる状況に直面すると、思考が停止してしまう。


 自分の手で人を殺すなんて考えられないし、かといって、敵に襲いかかられたら抵抗すらできないだろう。


 それはつまり、死ぬってことだ。


 こんなに死を間近に感じたことなんかない。


 しかも、それは自分自身が直接関わる生死なのだ。


「ワタシも人数に数えるんですネ」と、デイブが背負っていた鉄砲を構える。


「なんでそんな物持ってるんですか」


 思わず声が裏返ってしまったが、デイブはおどけながら答える。


「だって、三浦サン、ワタシ武器商人ですから。織田のお殿様はオトクイサマですヨ」


 だから清洲城に出入りしてたのか。


 と、いきなりだった。


 デイブは松平の隊列に向かって銃をぶっ放した。


 腹に響く太い銃声が天を裂き、にわかに雨が降り始めた。


 玉は当たらなかったようだが、音に慌てふためき、百メートル先の敵が散り散りに逃げていく。


 デイブの馬も音におびえて跳ねるが手慣れた手綱さばきで華麗に押さえ込んでみせる。


 藤吉郎がデイブに飛びついた。


「おい、おぬしどういうつもりだ!」


「キシュウコーゲキですよ」と、悪びれずになおも銃を構える。「フランク三浦さんの狙い通りにネ」


 いや、ちょ、俺のせいにするなよ。


「ダイジョーブ。オッケー狭間の牧場ですカラ、すなわちオッケー牧じょ……」


 全然大丈夫じゃねえよ。


 ――いたぞ!


 落ち着きを取り戻した敵兵が俺たちを見つけて迫ってくる。


「逃げろ」と、藤吉郎が後方へ駆け出す。「多勢に無勢だ。勝てっこない」


「しかたあるまい。是非もなしだ」


 前田利家が槍を肩に担ぎながら後を追う。


 三人組も転げるように逃げていく。


 一人取り残された俺の横で、デイブはもう一発発射した。


 迫り来る敵がひるんで足が止まる。


「雨では鉄砲は不利ですネ。では、ワタシはこれで失礼しマース」


 ノッシノッシと小柄な馬の背に揺られながら硝煙の香りを残して金髪男が去っていく。


 ――って。


 俺も逃げなきゃ。


 幸い、俺はランニングシューズだし、足軽具足もつけていないから身軽だ。


 令和の体育教育で習った短距離走法でいったんは引き離すことに成功した。


 だが、すぐに脇腹が痛くなって、息が苦しくなる。


 元々の体力がないんだから、長距離では圧倒的に不利だ。


 先を行く藤吉郎たちがどんどん離れていく。


 ――ちきしょう。


 待ってくれよ。


 これで敵にも織田方が物見を出していることがバレてしまったし、そもそも今川義元ではなく松平の兵しかいないのだから、桶狭間イベントは完全に消滅してしまったことになる。


 歴史が変わってしまう。


 ――だが……。


 俺の役割は史実を再現することなのか?


 歴史を変えるためにここに来たんじゃないのか?


 ならばこれこそがシナリオ通りなんじゃないのか?


 だが、もはやそんなことを考えている余裕などなかった。


 どちらにしろ、今この瞬間を生き延びなければ、俺は歴史から消え去ってしまうのだ。


 と、その時だった。


 さっき俺たちが休憩した神社の辺りに何本もの旗が立っていた。


 織田木瓜もっこうの家紋だ。


「お館様だぞ!」と、振り向いた藤吉郎がぶんぶんと腕を振って俺を手招く。「早く来い!」


 ――助かった。


 物見の帰りを待たずに出馬してきていたのか。


 さすが、もはやうつけではない神速の真・織田信長だ。


 槍を構えて待ち受ける織田の兵を見て、追いかけてきた松平の雑兵どもが恐れをなして逃げていく。


 ひざまずいた藤吉郎が馬上の信長に向かって報告する。


「お館様、敵は松平でございまする」


「うむ、ご苦労。このままやつらに引導を渡せ」


「ハハッ!」


 ――いや、ちょっと待て。


 俺はとっさに信長の前で腕を広げた。


「攻撃の中止を!」


「ば、馬鹿者、お館様にご無礼であるぞ」


 焦った藤吉郎が蛙跳びに俺の頭を押さえ込んだが、俺はそれを振り切って前に踏み出た。


「いいえ、松平の兵を討ってはなりません」


 もう一つ大事な史実を忘れてはいけない。


 桶狭間で弱体化した今川家から独立した松平元康は織田信長と清洲同盟を結び、末永く忠実に東方の盾となるのだ。


 松平元康を討ち取ってしまうと、織田家にとって盤石な防壁がなくなり、今川やその背後の武田との防戦で手一杯になって上洛など夢と消えてしまう。


 だが、家臣団は俺の意見を鼻で笑った。


「何を今さら」と、池田恒興が怒鳴る。「この場所へ我らを導いたのはそもそもおぬしではないか。松平とて織田の宿敵。絶好の好機を見逃すなどありえん」


 ――だから、今川がいるはずだったのが、シナリオが変わったんだっつうの。


「そうじゃ、そうじゃ」と、佐久間信盛まで同調する。「殿、この好機を逃さず、今すぐ全軍に出撃命令を」


 あの退き佐久間ですら前進を進言するのであれば、家臣団はすでに一致団結したも同然だった。


「お待ちください」と、俺は食い下がった。「ここはむしろ松平に恩を売り、織田方に引き入れる好機とお考えください」


 ここで判断を誤れば、挽回することは不可能だ。


 もうすでに今川義元を討ち取ることはできなくなった以上、少しでも今後につながる方策を考えるべきなのだ。


 だが、信長はため息をつきながら首を横に振った。


「親父殿の代から三河とも駆け引きはあった。元康とて、かつては織田の人質だったこともある。だが、結局のところ、強い者につくのが戦国のならい。その結果が今の状態だ。松平が織田につくことなどあり得ぬ」


「松平の後ろにいるのは今川だけではございません。甲斐の武田や小田原の北条もおります」


「だからこそ、松平だけでもこの機に潰しておかねばなるまい。ここで三河を潰しておけば、当分の間は今川も尾張に手を出すことはできまい」


 覚醒した信長でさえも、目先のことしか考えられないのか。


「天下統一の大局をお考えください」


「くどい」と、織田信長は吐き捨てた。「わしは尾張織田家の当主。天下など大それたことを狙ったことなどないわっ!」


 ――だめだ……。


 俺は無力感に打ちのめされていた。


 なんだよ、これ。


 主役の織田信長までシナリオを無視しやがって。


 誰一人、俺の思い通りになんか動かないじゃないかよ。


 雨でずぶ濡れの俺の前に退き佐久間が立ちはだかる。


「おぬし、南蛮人だからといって、無礼が過ぎるぞ。お館様に口答えをするなど、本来ならばこの場で切って捨てるところであるわい」


「まあ良い」と、信長は蝿を追い払うように手を振った。「良薬は口に苦し。慎重な意見もまたおのれの正しさの裏付けとなるものだ。南蛮人のおかげでむしろわしの決意は固まったぞ。みなの者、かかれい!」


 ――おーう!


 雨雲を蹴散らすほどのときの声と共に武将たちが馬にまたがり、槍を構えた足軽部隊が一斉に駆け出す。


「進め!」


「三河までの街道に敵のしかばねを並べろ」


「一人も討ちもらすな」


 もう誰にも止められない。


 兵も、運命も、歴史も。


 最初から俺にできることなんて何もなかったんじゃないかよ。


 何が最強の軍師だよ。


 いくらシミュレーションを繰り返したところで、それを実行させる力がなかったら、ただの机上の空論、砂上の楼閣、風の前の塵だ。


 目の前の丘陵では、急に現れた織田の本隊による反撃に慌てふためく松平勢がどんどん討ち取られていく。


 俺を押さえつけていた藤吉郎がゴミでも捨てるように突き放す。


「わしもこうしてはおられん」


「これで帰参もかなうな」と、前田利家も鼻息荒く敵に突っ込んでいく。「帰ったら、俺はまつ殿と祝言を挙げるんだ」


 ――やめろ、よけいなフラグを立てるな。


 これ以上ややこしくしないでくれ。


 仕方がない。


 こうなってしまった以上、俺も流れに身を任せるしかないか。


 先を行く藤吉郎を追って俺も駆けだした。


 桶狭間とされる放牧地に戻ると、五千人の松平勢の行列に横から突っ込んだ織田の軍勢が、分断された後方の兵を殲滅していた。


 槍に刺され倒された兵の首を、鬼の形相でたたき落とした森可成が、血の滴りを顔で受け止めながら雨雲に向かって突き立て、雄叫びを上げる。


 それを見た前方の松平勢は味方を見捨てて一目散に沓掛城へと逃げていく。


 道には置き去りにされた槍や刀、脱ぎ捨てられた甲冑が点々と続いていた。


 俺は槍を拾い上げて肩に担いだ。


「おまえらも今のうちに拾っておけ」


 三人組に指示すると、一斉に文句が上がる。


「なんだてめえ、偉そうに」


「俺たちはアニキの言うことしか聞かねえよ」


「そ……うだ、はあ、そう……だぞぉ」


 だが、言葉とは裏腹に、三人とも苦しそうな顔をしながらも武器を拾って、前を行く二人を追いかけている。


 俺も必死に走り続けた。


 体が慣れたのか、脇腹も痛くない。


 雨は降り続いているが、地面は固く、ランニングシューズの俺の脚は軽快だ。


 だが、後れを取った俺たちの前には、もう討ち取るべき敵の姿はすでになく、前田利家が虚空に槍を振るう。


「ちきしょう。一番槍どころか、おいて行かれるとは不覚なり」


「おい、又左」と、藤吉郎が前田利家を呼ぶ。「わしらは先回りして沓掛城へ向かうぞ。松平が城へ入る前に先頭を足止めしてお館様の本隊の追撃をお膳立てするのだ」


「よし、急ごう」


 脇にそれた二人を、三人組と一緒に追う。


「なあ、アニキ、逃げようぜ」と、荒い息で茄子の久作がぼやく。


「馬鹿」と、唾を飛ばしながら作兵衛が怒鳴る。「今さら逃げたらそれこそ織田の味方にも殺されるぞ」


「おいら、もう、走れねえよ」と、南瓜の六太郎は泣きながらついてくる。


 ほんの一瞬だけ、三人組に同情したが、もうどうにもならない。


 作兵衛の言うように、ここで藤吉郎において行かれたら、松平の敗残兵と間違われて血気盛んな織田の足軽に討ち取られてしまうだろう。


 俺たちは変わってしまったシナリオをそのままなぞるしかないのだ。


 沓掛城へ向かう松平の隊列を横目に俺たちは走り続けた。


 雨で煙る前方にこんもりとした森が見えてきた。


 真っ赤な顔の作兵衛が息を切らせながら指さした。


「昨日……俺たちが来た……沓掛城……だぜ」


「もう今川の旗はねえっすね」と、茄子の久作。


「昨日は森の木よりもにょきにょき立ってたのにな」と、南瓜の六太郎。


 まだ松平の軍勢は城に入ってはいないらしい。


「よし、先頭が見えてきたぞ」


 藤吉郎の指さす城の手前に松平の旗印が見えた。


 前田利家も槍を突き出す。


「おい、あれは松平の大将じゃないのか」


 馬に乗った小柄な男がこちらを振り向いてひどく慌てたようにまわりの家来達にわめき散らしているのが見える。


 脳内ディスプレイにもステイタスがポップアップした。


《松平元康:統率49、武勇39、知略45、政治57》


 なんだよ、凡将じゃんか。


 松平元康、後の徳川家康となる武将はまだ俺と同じ高校生くらいの年頃だから、こんなものなのか。


 藤吉郎が三人組に声を掛ける。


「もくろみ通り先頭を捕らえたぞ。誰でもいいから討ち取って足止めしろ!」


「そんなこと言ったってなあ」


 作兵衛の嘆きに久作がかぶせる。


「討ち取るどころか、こっちがやられるよ」


「おいら吐きそう」と、六太郎は槍を杖にして足を止めた。


「馬鹿野郎、ここまで来て何を言っておるか」と、藤吉郎が槍の柄を振って六太郎の背中をたたく。「手柄を立てておまえのカアちゃんに楽をさせてやれ」


 前田利家が振り向きざまに笑みを浮かべながら離れていく。


「藤吉郎、俺から行かせてもらうぞ!」


「こら、又左、抜け駆けは夜這いだけにしておけ」


 藤吉郎の戯れ言に聞く耳など持たず、行列の横から接近すると松平の軍勢に一人突っ込んだ。


「織田家中に『槍の又左』と言われた前田利家とは俺のことよ。腕に覚えのあるやつはかかってこい」


 二メートル近い大男に恐れをなして相手になる者はおらず、悲鳴を上げながら散り散りに逃げていき、甲冑姿の武将が一人取り残された。


 歳は中学生くらいか、色白の美少年だ。


《本多忠勝:統率9、武勇29、知略15、政治25》


 徳川四天王と称される猛将のはずが、サッカー部の補欠みたいにひょろりとしている。


 と思ったら、脳内にアイコンが表示された。


 初心者マークだ。


《本多忠勝は大高城への兵糧入れが初陣で、同時に元服を迎えました》


 だから能力値がまだ高くないのか。


 令和の高校生の俺から見たって、塾帰りに駅前のコンビニで輩に絡まれた小学生にしか見えない。


「小僧、俺の相手になるか!」


 前田利家が槍を突きつけると、若武者の股の辺りから湯気が立つ。


「小便を漏らしたか」と、前田利家があっという間に間合いを詰めてつかみかかった。「ひよっこが。武将らしく名乗って見せろ!」


「お、俺は……ほん、本多ひぇいはちろう忠勝……だっ」


 色白なのは顔色が悪いせいらしい。


 俺に聞こえるほど歯を打ち鳴らして震えている。


「びびって声が震えてるぞ」


 鼻で笑った前田利家は少年の膝を蹴飛ばし、転がった体を踏みつけると、振り上げた槍の柄で下腹部をズンと突いた。


 口から泡を吹いて悶絶した本多平八郎忠勝はぐにゃりと動かなくなった。


 と、そこへ、先頭集団から二騎離脱し、泥をまき散らしながらこちらへ向かってきた。


「平八!」


 金陀美具足の松平元康だ。


「大将自ら駆けつけるとは、手間が省けて助かるぜ」


 前田利家の前に藤吉郎が踏み出す。


「わしにも手柄を立てさせろ。おまえら、あいつを取り囲め」


 三人組に指示を出すと、藤吉郎は右へ回り込んだ。


 もたついている三人組の背中を押して、俺は左へ回り込む。


 正面で待ち受ける前田利家に向かって松平元康が突っ込んできた。


「平八、立て!」


 主君に声を掛けられても本多忠勝はピクリとも動かない。


 後ろからもう一騎、虹色の糸で装飾した古風な鎧をまとった髭の武将が追ってくる。


 脳内モニターにステイタスが表示された。


《酒井忠次:三十三歳:人質時代の松平元康から仕える家老:統率86、武勇78、知略64、政治73》


 あの柴田勝家を敗走させたこともある徳川四天王筆頭の勇将だ。


 馬から飛び降りると、前田利家に槍を突き出し、そのまま一気に体を合わせにらみ合う。


「調子に乗るな、若造。わしが相手だ」


「おっさんが無理すんなよ」


 利家は槍の柄で薙ぎ払い、間合いを取ると、退きざまに突きを繰り出す。


 槍先をかわした忠次は踏み込むと見せかけ、利家が一瞬止まった隙を突いて横から振り払う。


「うおっ!」


 かぶとの側頭部に打撃を受けた利家が膝を崩して倒れたところに忠次がのしかかろうとするのを藤吉郎が槍を刺し入れ防ぐ。


「忠次」と、元康が叫ぶ。「平八を!」


 馬上の主君を見上げた忠次は利家を蹴りつけ、本多忠勝に駆け寄った。


 史実ではかすり傷一つ負ったことがないと言われる本多忠勝も、今はぬかるみに転がっている。


「情けなや、平八、目を覚ませ。初陣たりとも戦場(いくさば)に立てば武将たるもの背中に土などつけてどうする」


 抱き起こして雨に濡れた頬を張るも、少年はだらしなく口を開いてぐったりとしたままだ。


「おまえら、大将を狙え」


 藤吉郎の掛け声に、三人組が弾けたように横から槍を突き出せば、馬上の元康はキッとにらみ返す。


「おまえらごときの相手になる我ではない」


「逃がすかよ」と、藤吉郎が槍を突き出す。


「雑魚が」と、槍を合わせた元康はさらりといなすと、三人組に向かって馬を進める。


「うわああ」


「来るな」


 作兵衛と久作はその場にへたり込み、無口な六太郎は気を失ったのか膝から崩れ落ちた。


「踏みつけてやるわっ!」


 槍を振り上げ元康が突っ込んだその時だった。


 雨空に一閃、桶狭間が光に浮かんだ。


 時が止まった次の瞬間、大地が割れるような轟音が天を走る。


 雷鳴に驚いた馬が前脚を跳ね上げ、体勢を崩した元康の槍が地面に突き刺さる。


 引っかかった槍に引きずられ、柄を握りしめたまま馬から落ちた元康が作兵衛と久作の前に無様な姿をさらして転がった。


「殿!」


 駆け寄ろうとした酒井忠次の脚に利家が槍を刺し入れ、もつれた忠次が俺の前に転がってきた。


 視線が交錯した瞬間、恐怖におびえた男の悲鳴が俺の耳に突き刺さったような気がした。


 ――やらないとやられる。


 俺は無我夢中で、腹を晒した男にのしかかって押さえつけた。


 ――やらないとやられるんだ。


 俺は腰に差した脇差しを抜いた。


 昨日全滅した丸根砦で武井村の権造さんからもらった刀だ。


 権造さんだって、松平の誰かにやられたんだ。


 酒井忠次がやれと命じたのかもしれない。


 だが、俺は刀を握りしめたまま動けなかった。


「早く殺せ!」と、どこからか声が聞こえる。「殺せ」


 ――殺す。


 頭の中にその文字がくっきりと浮かんだ瞬間、雷に打たれたように手が震え、俺の手から刀がこぼれ落ちる。


 ――ウグッ……。


 躊躇した俺の首が、伸びてきた手にがっちりと鷲づかみにされていた。


「甘いわっ!」


 人間とは思えない握力で俺の喉を潰しにかかる酒井忠次がニヤけている。


「おかしな格好しおって、南蛮人か何者かは知らんが、戦場でためらいや情けは命取りになることを教えてやる。ありがたく思え、地獄でな」


 だめだ、殺される。


 死ぬのか。


 俺はこんなところで死ぬのか。


 意識が遠のいていく。


 ――なにが最高の軍師だよ。


《あなたの野望もこれまでです》


 ゲームオーバー……なの……かよ。


「グオッ!」


 うめき声と共に喉が楽になる。


 藤吉郎が槍の柄尻つかじりかぶとを殴りつけたらしい。


 脳震盪のうしんとうを起こしたのか、俺の下で酒井忠次は気を失っていた。


 ハア……ハア……。


 思い切り息を吐くと、雨の臭いが肺に吸い込まれる。


 俺は息をすることしか考えられず、その場に座り込んでいた。


「馬鹿野郎、さっさと立ち上がれ!」


 藤吉郎が俺のシャツを引っ張り上げる。


「だから人を刺す練習をしておけと言っただろうが」


 吐き捨てるように言うと、藤吉郎は三人組の方へ俺を引きずっていく。


 ぐったりとした松平元康が作兵衛に押さえ込まれ、泥にまみれた金の鎧に雨が降り注ぎ、鈍い輝きが目に染みる。


 作兵衛は俺と同じく首を切ることができずに泣いていた。


 茄子の久作は頭の方から元康の腕を押さえつけているが、南瓜の六太郎は股を広げてへたり込んだまま口に指を突っ込んで震えている。


 と、その時だった。


 元康のそばに立つ前田利家の背後から何かの影が迫っていた。


 ――危ない!


 俺はかたわらに落ちていた槍をとっさに突き出していた。


 倒そうなんて思っていなかった。


 ただ、敵を威嚇して、利家を助けようとしただけだった。


 ――ズンッ!


 思いがけず、手応えがある。


 襲いかかろうとしていた勢いで敵が自ら飛び込んできたのだ。


 脇に退いた利家の後ろから現れたのは、本田平八郎忠勝、さっきまで泡を吹いて倒れていた色白の美少年だった。


 甲冑の胴と草摺の隙間に俺の槍が突き刺さり、滝のように流れ出た鮮血が雨に混じって脚を真っ赤に染めている。


 ――俺が……刺したのか。


 俺の手から離れた槍の柄が宙を舞う。


「平八!」


 目を見開いた松平元康が叫ぶと、忠勝少年は主君を見つめ返し、右手で腰の刀を抜き、体に刺さった槍を左手で握りしめ、倒れるように前に踏み出しながら、なおも利家に斬りかかろうとした。


 だが、槍をつかんでゆるりとかわした利家は無慈悲に膝を蹴り返し、柄から抜けた忠勝の体があっけなく俺の目の前に転がってきた。


 利家の声が雨にまぎれて降ってくる。


「おまえの獲物だ。おまえが殺せ」


 ――俺が?


「そいつはもう助からない。楽にしてやれ」


 血まみれの忠勝は俺をにらみつけ、かすれた声を絞り出す。


「そなたの名は?」


「相模国の三浦出身、坂巻悠斗」


「南蛮人ではないのか」


 俺は周囲に聞かれないように答えた。


「五百年後の未来人だ」


「ほ……ほんだ……へいはちろうたっ……だ……つ」と、口から血を噴きながら少年が俺の手をつかむ。「いくさばにて……ちったとこうせい……につたえ…くれ」


「分かった」


「かいしゃくを」


 俺の刀は?


 酒井忠次にやられかけた時に落としたかと、周囲を見回してもどこにもない。


 ――ふっ……。


 どちらにしろできるわけないだろ。


 死にかけた人を楽にしてやるためと言ったって、首を切るなんて俺にできるわけないじゃんかよ。


「これを使え」


 見上げると、前田利家が刀を差しだしていた。


 ――だめか。


 逃げ場なんかない。


 俺が刺したんだ。


 俺が責任を取らなければならないのか。


「たのむ」と、少年の手から力が抜けた。「せめて武士として死なせて……くれ」


 ――どうすりゃいいんだよ。


 刀を受け取ったものの、どこにどうすればいいのかすら分からない。


 殺せるわけないだろ。


 できねえって。


 手は震え、心は揺れ、刀を取り落としそうになる右手を左手で必死に押さえる。


 少年の細い首に刃をあてがったその時だった。


 ――ゴリッ。


 前田利家が俺の手ごと刀を踏みつけた。


 首が転がり、鮮血の噴水が死者の怨念のように俺に襲いかかる。


 鉄分の臭いに吐き気がこみ上げる。


 ――なっ、何するんだよ。


 俺は立ち上がって前田利家に血みどろの刀を突きつけた。


 六尺の大男は無表情に間合いを詰めて俺の手から刀をあっさりもぎ取ると、血を拭って鞘に収めた。


「包んでやれ」と、藤吉郎が俺に布を差し出す。


 どこから拾ってきたのか分からないが褌だ。


 他にないんだから仕方がない。


 俺は兜ごと本多忠勝の首を褌にくるんだ。


 ――俺のせいだ。


 俺が歴史を変えるなんて考えなければ死ななくても良かったんだ。


 初陣で散ることもなく、傷一つ負わなかった勇将としての名が残ったはずなのに、俺が歴史から消し去ってしまったんだ。


 褌のひもを縛っていると、嗚咽が聞こえた。


 死体を目にした六太郎が嘔吐していたのだ。


 見ると、褌が茶色く汚れている。


 泥ではない。


 糞を漏らしたのだ。


 雨に流れる下痢便の刺激臭が鼻をつく。


 六太郎はよだれを垂らしながら声を上げて泣いている。


「ハッハッハッハッハ」


 松平元康が声を上げて笑う。


「戦場で糞を漏らすとは、天下の臆病者よ。そんな雑兵どもにやられる我ではないわっ。平八、我がかたきを取ってやるぞ」


 おいおい、あんたこそ、戦国一有名な脱糞大名だろうよ。


 作兵衛の下でもがき抵抗する若大将に、俺は心の中で思わずツッコんでいた。


 三方ヶ原の戦いで武田勢に追われ、馬上で糞を漏らしたんじゃんかよ。


 だが、それも、もう起こることのないイベントなんだろうな。


 今川義元は危険を察知して生き残った英傑となり、妹のお市から届いた両口を縛った小豆袋で『袋の鼠』を悟った織田信長の逸話のように、桶狭間の退却劇は危機回避のお手本として後世に語り継がれるのだろう。


 一方の松平元康は徳川家康と名乗って征夷大将軍となることもなく、今川に見捨てられた三河の残念大名と揶揄され、静岡駅前にいくつもの銅像が設置されることもなくなるんだろう。


 歴史が変わったんだ。


 ――この俺の手で。


 雨脚は一層強くなり、いくつもの雷が桶狭間に轟く。


 すでに雑兵たちは逃げ去り、織田の兵も追撃に来ない。


 と、その時だった。


 体をよじった元康に弾き飛ばされ、作兵衛が泥の上に尻餅をついて転がる。


 久作と六太郎を突き飛ばしながら松平元康が酒井忠次へ駆け寄ろうとする。


「逃がすかっ!」


 藤吉郎が背中から猿のように飛びかかり、前田利家が投げつけた槍が脚に絡む。


 もんどりうった元康は忠次の頭のそばに横たわり、藤吉郎に背中を押さえつけられた。


「忠次よ」と、元康が幼少期からの忠実なる家臣に手を伸ばす。「そちの海老掬えびすくいをまた見たかった。笑わぬ我を笑わそうと必死だったそちのことは、今でも忘れぬ」


「殿……」


 気を取り戻した忠次の目の前で藤吉郎が松平元康の首を落とした。


「織田家中、木下藤吉郎、松平元康を討ち取ったり!」


 史実では太平の世を築き、神君と称された英雄は、桶狭間であっけない最期を迎えた。


「うおぉぉぉぉっ!」


 起き上がろうとする忠次の胸を前田利家が蹴りつけ、仰向けになったところを押さえ込む。


「許さん。許さんぞ。おぬしら。殿をよくも……」


 暴れる敵将の腕を前田利家は冷静にひねりあげ、身動きを封じた。


 と、その時だった。


 ポーン。


 俺の脳内にウインドウが浮かび上がった。


《大名の後継者を選んでください》


 ――ん?


 野望がついえた滅亡エンドじゃないのか?


 そうか……。


 当主が討ち死にしたからって、それが即座に滅亡になるわけじゃない。


 史実でも、義元が討たれた今川だって、氏真が後継者となって十年近く続いたんだ。


 だとしたら、松平の後継者は誰になるんだ?


 後継者を選べというのに、ポップアップしたリストには何も表示されていない。


 バグか?


 主家の今川から養子を受け入れるのか。


 と、さらに別のウインドウが開いた。


《徳川家康が影武者だったという伝承を信じてゲームを再開しますか?》


 ――あれ?


 これって、架空シナリオの選択画面ってことだよな。


 影武者か……。


 ――待てよ。


 そうか、後継者がいないなら、俺が決めてしまえばいいんじゃないのか。


 俺は軍師なんだ。


 戦国のシナリオを決めるのは俺だ。


 だとしたら、酒井忠次は殺してはいけない。


 利用すべきこまだ。


 だが、俺の思惑など知りもしない藤吉郎は、利家と一緒に松平家筆頭家老を押さえ込んでいた。


「又左よ、そいつは、おまえの手柄にしろ」


 藤吉郎に言われるまでもなく、利家は忠次に脇差しをあてがい、今まさに首を切ろうとしている。


「待て!」


 俺は駆け寄って止めた。


「なんじゃ、手柄を横取りする気か」と、藤吉郎が横から口を挟む。


「違う、そうじゃない」


「どうせへっぴり腰のおぬしでは無理であろう。又左に任せておけ」


「待ってくれ。冷静に考えろ。そいつは人質にするんだ」


 利家の手が止まる。


「なにゆえだ?」


 雨脚はさらに強まりもはや滝の中だ。


 雷鳴もさらに近づき、すぐ近くの大木が割れて炎上し、雨に打たれながらも火勢は衰えない。


「この豪雨では、今から丹下砦へ戻るのは無理だ。沓掛城へ入って、松平の兵を支配下に置くんだ」


「何を言っておる。そんなことができるわけもなかろう。お館様のもとへ大将首を持参して褒美をもらうのがいいに決まっておる」


「大将首に敵の城なら、なおさら出世できるだろう。ただ、大将が討ち取られたからと言って、残兵がおとなしく従うわけでもない。だから城内の兵を説得できる武将が必要なんだ」


 利家に押さえつけられた酒井忠次が顔を上げる。


「わしは都合良くおぬしらの言いなりになどならんぞ。殿に殉じて潔く死なせてくれ」


「このままおとなしく今川に乗っ取られてもいいんですか。いや、乗っ取るどころか、すべてを奪い取られて松平などなかったことにされますよ。これまで都合よく利用してきたのは今川の方だったんじゃないんですか。このままだと先祖代々守り抜いてきた三河を好き勝手に切り取られるっていうのに、義理立てする理由などないでしょう」


 忠次が黙り込んで、藤吉郎が舌打ちをする。


「沓掛城を奪い取っても、今川が戻ってきたらわしらでは支えきれんだろう」


「織田の追撃で松平勢は総崩れと、今川に早馬を出せばいい。退いくさで浮き足立っている敵は三河を通り越して今川領まで一直線だ」


「そううまくいくかのう」


「一国一城の主になれる絶好の機会を見過ごすのか。そうなればお市様を嫁にもらうことだって夢ではなくなるんだぞ」


「ううむ、それは……」と、藤吉郎がゴクリと唾を飲み込む。


「俺はまつ殿以外の女をめとるつもりはないぞ」


 前田利家のそんな主張を無視して俺は続けた。


「作兵衛を松平元康の影武者にするんだ。久作は本多忠勝になりすませ。おい、二人とも、甲冑を脱がせて身につけろ」


 俺に言われても、二人は腰を抜かしてへたり込んで動けずにいる。


「何言ってんだよ。無理に決まってるだろ。できるわけねえよ。俺たちが殿様になれるわけないだろ。誰が見たってすぐに偽物だって見抜かれるぜ」


「殿様なんて飾りだ。家来が本物だと認めればそのまま通用する。そのためにも、酒井忠次殿の助力がいるんだ」


 織田の連中はまだ松平元康の討ち死にを知らない。


 甲斐の武田信玄も自分の死を三年隠せと遺言したんだ。


 できないはずはない。


 俺の脳内ディスプレイに人物アイコンが表示される。


《作兵衛を松平家の後継者としますか?》


 俺は迷わず《はい》をクリックした。


 軽やかなファンファーレと共に、新しいウィンドウがポップアップする。


《世良田村の作兵衛が松平元康として松平家を継ぎました》


 新しいシナリオの始まりだ。


 俺は軍師として作兵衛を操り、戦国の時代を切り開いていくんだ。


「しかたがない。御家のために、わしも一肌脱ぐか。これもまた亡き若殿へのご奉公というものだな」


 酒井忠次はそうつぶやきながら立ち上がった。


 シナリオが動き始めると、どうやらそれに従うようになっているらしい。


 利家は押さえつけることもせず、沓掛城へと向かうその背中を見守っている。


 血の臭いも、恩義も忠義も、降りしきる雨がすべてを洗い流していく。


 史実とはまったく異なる俺たちの桶狭間はこうして幕を閉じた。


 それにしても、本当にここは桶狭間だったのか?


 史実とは異なる思いがけない出来事ばかりで、なんだか夢を見ているような気分だ。


 ――俺は……人を、殺したんだ。


 あらためて自分のしたことの重みを噛みしめるが、疲労のせいか、目の前の風景が鏡の中にでもあるかのように、自分と現実の間に大きな隔たりができていた。


 ――あれ?


 藤吉郎はどうした?


 振り向こうとしたその時だった。


「やはり、お館様の言っていたとおりだったか」


 背後から声が聞こえたかと思うと、頭に強烈な一撃が加えられ、俺は膝から崩れ落ちていた。


 天下の野望は夢か幻か。


 薄れていく意識の中で、俺の脳内に新しいウィンドウが立ち上がっていた。


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