エピローグ

母親が現れた。場所は家のリビング。母親は包丁を取り出し、無言のまま切りかかってきた。ターゲットになった修一は、ただただ母親が恐ろしくてたまらなかった。はむかう気など毛頭ない。

 修一は腹を抉られ、喉を裂かれ、壁に串刺しにされた。

 激痛に泣き喚く。永遠に続くと思われた生き地獄の末にようやく意識が遮断される。

 

目を覚ますと、小さな部屋にいた。一つの机と一つの椅子。そして修一が寝ているベッド。これがその部屋のすべてだった。小さなドアが一つ。窓はない。

 白い服を着た男が現われた。男はどうでもよいことを聞き、その傍らにいる、これもまた白い服を着た女が、修一と男の会話を聞いて、難しい顔をしながら何かをノートに書き留めていた。

 しばらくすると二人は部屋から出ていった。

 徐々に遠ざかっていく二つの足音。足音が消えると静寂が支配した。

 ベッドから降りて立ち上がる。足元がふらつく。

 床は白く、壁も白く、天井も白い。

 一歩、二歩、歩みを進める。やはりバランスが保てない。視線は定まらず、まるで波間に揺れ動く船上にいるようだ。

 おかしなことに気づいた。床が柔らかい。いや柔らかすぎる。

 見ると、床にずぶずぶと足が埋まっていく。驚いて前へ進もうとするが、泥状に形を変えた白い床が足にまとわりついて離れない。みるみるうちに足首から膝へと床は修一の体を吸い込んでいく。それはすぐに腰まで達した。助けを呼ぼうとしたが声が出ない。

 あっという間に腹を超えて胸まで達する。柔らかく生温かいものにつつまれる。

 修一は手を伸ばすがそれに届くものはなにもない。

 首を超え、口もふさがれ、見えていた白い風景が黒く塗りつぶされた。

 

気がつくと実家の前を歩いていた。

 猫の額ほどの庭を通り、玄関へと向かっていた。修一の部屋の窓に、一瞬、人影が見えた。直後、ドタドタと音がした。階段を下りる音だ。

 玄関のドアが開いた。そこにはノコギリを上段に構えた父親が立っていた。

 



看護師が重い扉を閉めて鍵をかける。

 医者が施錠を確認すると不自然に広く、長い廊下を歩き出した。看護師も一歩下がった距離で医者を追う。リノリウムの床がペタペタと鳴る。

「白昼堂々、スーパーで暴れたそうだ。元恋人を殺そうとしたらしい。君はどう思う?」

 医者は看護師に聞いた。

「自律神経失調症。統合失調症。睡眠障害。脅迫神経症。四つもの疾病を併発し、幻覚も見えています。もう手遅れかと」

 看護師はカルテを見ながら冷やかに言った。

「君はSDGという言葉を聞いたことがあるか?」

「SDG……?」

「ああ。ストレス・ディテクター・グラス。略してSDGだ」

「ストレス・ディテクター・グラス……ストレス発見メガネですか……?」

 看護師はいぶかしげに答える。

「そのメガネをかけると他者から受けるストレスをすべて消してくれる。そんな魔法のメガネらしい。一時期、これがインターネットで売られているという噂が流れた」

 看護師は一瞬、固い表情を崩した。

「ごめんなさい。私、都市伝説には興味がないんです」

 医者は表情を変えない。

「彼はSDGを所有していた、と言っている。SDGを使うと夢の中でストレスを受けている相手を殺す必要があると。あくまでも夢の中での出来事だと思っていたらしい。本当に元恋人を殺すつもりはなかったと……」

「対外ストレスが要因で夢も現実も区別できなくなり、その解決法としてSDGという妄想をつくりだした。統合失調症の典型じゃないですか。それで彼の言う、SDGは発見されたんですか? 見たところメガネはかけていなかったみたいですが……」

「彼、いわくスーパーでのいざこざで紛失したらしい」

「そうなるでしょうね」

 看護師はカルテに目を落としながら、もう興味のないように言う。

 ようやく廊下が終わる。ボタンを押してエレベーターを待つ。

「まあ、詳しいことはもっと検査をすすめてみないとわからないな。また明日からだ。今日はこれで終わりだろ。どうだ、一緒に食事でも」

 医者は区切りをいれたように相好を崩して言う。

「申し訳ありません。今日は用事がありますので」

 看護師はきっぱりと断った。

 医者の表情が一瞬、歪む。

「そうか……じゃあ、また今度」

 エレベーターの扉が開く。看護師が先に乗り込み、ボタンを押す。

 医者は看護師の後ろに立つ。

 さりげなくメガネに手をかける。ほんのかすかな機械音がしたが、それはエレベーターの動作音にかき消された。

 数秒後、医者は看護師に気づかれぬように視線を送り、三回まばたきを繰り返した。

 エレベーターが止まり、看護師が降りる。

「おつかれさまでした」

 看護師が振り返り頭を下げた。

「ああ、おつかれさま」

 医者は快活に言う。

 エレベーターの扉が閉まりはじめる。

 ドアが閉じようとする瞬間、その隙間から、看護師が自分の眼鏡に手をかけて素早く三回まばたきをした。                                

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SDG ほのぼの太郎 @honobonotaro

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