第3話

 さらに体調はよくなった。家の中であれば、腹の痛みはほとんどなくなっていた。

 両親とも会話をするようになった。だがそれは無関心であるが故の結果だった。無関心であるから会話ができるのだ。話しかけてくれば答えるし、ときどき、修一からも言葉を発した。それはコミュニケーションのためなどではなく、この意味のないやりとりを一秒でも早く終わらせたい一心でしかなかった。

 次に修一は引きこもりからの脱出を考えはじめた。

 大学に行かなくなってから三ヶ月が経過していた。だが今ならまだ就職活動も間に合うはずだ。問題は外の世界にはびこる、無数のストレスとなりうる人間たちをどうするかだ。修一は考えた。その結果、片っ端からSDGでストレスの元凶を消滅させる。そういう結論に至った。

早速、行動に移った。手はじめに毎朝、乗り合わせる満員電車の人間をターゲットにした。同じ時間の電車、そして同じ車両に乗ることを修一は徹底した。そうするといつも見かける人間が必ず現われる。その中でストレス指数が高い人間をロックオンして、毎日三人ずつ夢の中で殺した。それを十数回繰り返す。すると電車内にはストレス抹消済みの人間が必ず存在することになる。その人間の傍らに寄り添うことで、他者のストレスから体を守る方法を考えついた。これは効果的で、以後、突発的な腹痛に襲われることはなくなった。

 だが夢の中では凄惨を極めた。電車の中で毎日、三人の人間を殺すのだ。凶器も電車内に持ち込まねばならなかった。それは両親を殺害したときに気づいていた。夢の世界はロックオンした時点の、現実の状況と同一だった。だからそのときに凶器も用意しておかないとスムーズに殺すことができないのだ。修一はバタフライナイフを購入した。外へ出かけるときはこれを鞄に忍ばせておいた。ただ困ったことに単純に殺すだけでは憎悪は治まらず、ストレス消滅のアナウンスも流れないのだ。ストレスを消滅させるためには、より残虐に人を殺さなければならないことにも気がついた。

 

修一はバタフライナイフを静かに取り出す。まず目の前のターゲットの胸を、心臓をめがけて素早く刺す。刺すのと同様の速さでナイフを抜く。血しぶきが舞う。

 乗客は悲鳴をあげる。車内は蜂の巣をつついたような状態になる。

 かまわず二人目のターゲットのところへ動き、今度は喉元をかききる。また素早く動き、最後のターゲットの両足の腱を切って、身動きできない状態にする。

 夢の中では名うての暗殺者のように素早く動けた。

 車両内には三人のターゲットと修一しかいなくなっていた。三人のうち、二人はすでに絶命している。生き残っている一人は中年のサラリーマンだった。両足を潰しているから身動きがとれない。それでも肥えた体をもぞもぞと動かし、芋虫のように何とか逃げようとしている。

「逃がすか」

 サラリーマンの薄くなった髪の毛をつかむ。ネクタイを強引に外し、首に巻きつける。体をひきずり起こした。サラリーマンの体が宙に浮く。夢の中では信じられないほどの力が出た。吊り革がついている天井の金属棒にネクタイをくくりつける。中年男の首が絞まる。悲鳴が呻き声に変わる。赤かった顔が徐々に青くなる。バタついていた足が止まる。股間から流れ出た小便のしずくが床まで伝った。


『ターゲット マッショウ カンリョウ ストレス ショウメツ』 

 ようやくアナウンスが流れた。

 

このように毎日殺しを繰り返すうちに殺害方法がエスカレートしていった。

あるときなどは三人刺し殺したあと、窓から上半身だけ並べて外へ出し、逆方向から迫る電車に衝突させた。上半身が粉々に吹き飛んだ。

 夢の中で人を殺すことに慣れはじめていた。

 就職活動は何とか間に合った。地元の銀行から内定を取ることができた。

 面接試験もそれほど緊張せずにすんだ。初めて会う面接官のストレスを消去することは不可能だが、SDGをもっているだけで心に余裕が生まれた。もしもその面接官が内定をもらったあとにうるさい上司として現われたとしても夢の中で殺してしまえば良いだけなのだから。

 内定を取ってからはアルバイトもはじめた。スーパーの品出しのアルバイトだ。

 そこには修一と同じような年代の人間が数多く働いていた。

 人見知りをする修一ではあったがぽつぽつと話しをするバイト仲間ができた。休みが合えば一緒に遊びに行く友人へと変わっていった。

 気になる女性も現われた。食品レジにいる里美(さとみ)という女の子だ。

 ショートカットで目が大きく、笑うとえくぼが出た。いつも溌剌としている印象だった。

 休憩室で一緒になることが多く、徐々に話しをするようになった。

 里美は修一と同い年で、しかも同じ大学に通っていることがわかった。

 ある日、修一は勇気を出して里美を映画にさそった。

 返事はOKだった。

 映画は緊張してほとんど内容を覚えていなかった。映画を見たあとに、食事をして、その日は別れた。どうしても里美の前ではあがってしまい、何度かトイレに行った。修一は嫌われてしまうのでは、と心配したが、里美は別段気にしているふうには見えなかった。

 それから二人で遊びに行くようになった。三度目で修一は里美に付き合ってほしい、と告白をした。里美は受け入れてくれた。

 修一は天にも昇るような気持ちだった。その日、二人ははじめて手をつなぎ、キスをした。

 幸せだった。病気になってからはじめて生きているのが楽しいと心から思えた。

 病気も順調に快方へ向かっていた。

 それはSDGの、もう一つの効果に気づいたからだ。

 夢の中で殺人を犯すことが、ストレス解消につながっていたのだ。人を殺したあとに目覚めるのはとても気持ちがよかった。頭がすっきりして気力が充実しているように感じた。

 だから修一はSDGを使う必要がなくても、ストレスのかかりそうな所へあえて出向いた。満員電車の中、街中のデパートなど、人が絶え間なく行き交う場所である。そういう場所であれば赤の他人であってもターゲットにできる人間が何人かは見つけられた。 

一度だけSDGを使わない日があった。次の日、外に出たらひどい腹痛に襲われた。すれ違うすべての人間が修一を強く憎み、殺意を抱いているような強烈なストレスだった。それ以来、SDGが自律神経の均衡を保ってくれているのだと確信ができた。

 里見とは毎日のように会った。両方とも実家だったが、親が留守のときはどちらかの家に泊まりに行った。そんなとき、里美は必ず、手料理をふるまってくれた。里美の料理はどれもうまかった。

 修一は病気のことを里美に話した。両親以外に話したのは里美がはじめてだった。

 里美ははじめ驚いていたが、わたしも治すのに協力するから一緒に頑張ろう、そう言ってくれた。

 涙が出た。里美を強く抱きしめた。

 里美とずっと一緒にいたいと思った。修一にとって里美はかけがえのない存在となっていた。

 夏が終わり秋になった。

 修一はバイトを辞めた。三年生まで最低限の単位取得しかしていなかったため、四年生の今、すべての単位を取得しなければ留年してしまう。卒業することを最優先と考え、大学の授業に集中することにしたのだ。

 里美は市内にある旅行会社から内定をもらっていた。里美は三年生までに、必要な単位をほとんど取得していた。大学へは週に一度通えばいいだけなので、バイトは続けていた。

 付き合いはじめたころと比べると修一が大学の講義を毎日遅くまで入れていることもあって、会う回数は少なくなっていた。だが毎日の電話は欠かさなかった。必ず里美の声を聞いた。里美も修一の将来のためだからと理解してくれていた。

 修一は就職したら里美と結婚することを考えていた。

 二人は一生、一緒だと信じてやまなかった。里美も同じ想いでいることを確信していた。

 それでも一つの大きな悩みがあった。

 SDGの存在だった。

 修一は依然として夢の中で殺人を犯し続けていた。このころになってもSDGに頼らなければ、自律神経のバランスを保つことはできないでいた。自分は快楽殺人者だ。強い自己嫌悪を常に感じていた。

 SDGのことは絶対に里美には言えない。ストレスを失くすために夜な夜な夢の中で人を殺していることなど話せるわけがない。

 里美をだましているようで心苦しかった。だが、どうにもできないのだ。

 そんな風にして数ヶ月がたったある日、いつものように大学を遅くに終えた修一は、そのまま里美のバイト先へ向かった。連絡はしていない。突然迎えに行って、驚かせてやろうと考えたのだ。

 バイト先の裏手にある社員通用口が見える場所で、里美が出てくるのを待っていた。

里美が出てきた。声をかけようとした瞬間、息を呑んだ。

 すぐ後ろから男が現われたのだ。

 反射的に里美から見えない位置に隠れた。

 男には見覚えがあった。修一がまだバイトをしていたときに同じ品出しコーナーで働いていた西田という男だった。たしか修一と同い年のはずだ。何度か話したことがある。

 里美と西田は楽しそうに喋りながら修一の側を通り過ぎていった。

 気づかれぬように二人を追いかけた。二人は社員駐車場に置いてある一台の軽ワゴンの前で止まった。西田が運転席へ、里美が助手席に乗る。ワゴン車は駐車場を出てあっという間に走り去った。

 修一は信じられない思いでその光景を見ていた。体中の力が抜けてアスファルトに膝をついた。腹に痛みが走る。数ヶ月ぶりの強烈な痛みだった。

 腹の痛みに耐えながら車の走り去った方向に目を向ける。

 里美の家とは反対の方角だった。

 腹をおさえながら、近くのコンビニへ走った。トイレへ駆け込む。

 久しぶりの凄まじい下痢だった。

 ようやく立ち上がりコンビニを出た。体がふらつく。

 何かの間違いであると信じながら里美に電話をした。

 五回のコールのあと、里美が出た。

「里美、おつかれさま。もうバイト終わった? 今、家にいる?」

 つとめて冷静に、いつもと同じように話した。

「おつかれさま。うん、バイトは終わったよ。ごめん、言ってなかったけど、高校のときの女の子の友達のところに泊まることになってたの……今、その友達の家。言ってなくてごめんね……」

 里美はいつもと変わらぬ調子で言う。また腹が痛くなってきた。たまらず体を折り曲げしゃがみこんだ。

「いや、いいんだ……そうか……こちらこそ邪魔してごめんね……楽しんできてね……また電話するから……」

「うん。ありがと。おやすみなさい」

「うん……おやすみ……」

 もはや冷静でいられるわけがなかった。異変に気づかれたかもしれない。しかしどうでもよかった。

 信じていたのに──。

 愛情の深さはそのまま憎しみへと変わっていった。

 その日は朝まで一睡もできなかった。午前中、三時間だけ眠った。昼過ぎにようやくベッドから出た。腹の痛みは治まっていた。気分は悪くない。

 夢の中でまた一人殺したのだ。

昨日の件があって、帰る途中、高校の頃の同級生と偶然、出会った。吉田という名だった。修一は吉田にいじめられていた。吉田は、ガムをくちくちゃ噛みながらいやらしい目つきで話しかけてきた。会うのは高校を卒業して以来だった。噂では定職につかずフラフラしていると聞いていた。修一は一方的に喋りまくる吉田に合わせて、愛想笑いを繰り返した。ひどく腹が痛い。SDGの電源はオンになっている。ストレス指数は九十五まで上がった。

 吉田にシルエットがかけられて、それが赤く染まる。

『ストレスシスウ キュウジュウゴ ターゲット ロックオン カノウデス』

 反射的に三回瞬きをした。いつものシャッター音が鳴る。

 そのあとも吉田の自慢話は続く。ようやく話し終えたところで、金を貸してほしい、と言われた。柔らかな口調であるが、目は笑っていない。一瞬、高校時代が蘇る。

 修一はおずおずとカバンから財布を取り出して、五千円札、一枚を吉田に差し出した。

 吉田は何も言わず、つかみとるようにそれを受け取るとそのままいなくなった。

 情けなくてしかたがなかった。里美には裏切られ、あげくのはてに文句の一つも言えず昔の同級生にカツアゲされたのである。金は戻ってくるわけがない。

 腹をおさえながらようやく家にもどった。自己嫌悪の嵐はおさまることはなかった。

 午前中の三時間で吉田を殺した。

 吉田がガムを噛みながら話しかけてくるところからはじまった。

 すでに憎悪は沸点に達している。

 俺はこの軽薄そうな男のいったい何におびえていたのだろうか?

 ようやく金を貸してくれと吉田が言ってきた。

 修一はおびえている素振りを見せ、そのままカバンをまさぐった。そして今度は財布ではなく、いつも持ち歩いているバタフライナイフを取り出した。

 取り出すと素早くしゃがみこみ、吉田の右足の甲にナイフを突き刺した。

 吉田が倒れこみ苦悶の表情でのたうちまわる。ナイフを引き抜き、今度は太腿に刺した。

 悲鳴をあげ、泣き叫ぶ。

「吉田、高校のときは世話になったな。お返しだ。受け取ってくれ……」

 自分が発したとは思えないような重く冷たい声だった。

 修一は下半身を何度も刺した。ひざ、かかと、ふくらはぎ、ふともも、つまさき、下半身の様々な部位を刺しては抜き、刺しては抜きを繰り返す。

 吉田が泣いて許しを請う。修一はかまわない。何かの単純作業のごとく、次々に下半身に穴をあけていく。

 悲鳴が心地良い。

 吉田の髪の毛をつかんだ。まだらに染まった金髪が汚らしい。

 ずるずるとひきずって、歩道から路側帯へと降りる。修一の視線の先には、こちらへ猛スピードで迫り来る大型トラックがあった。

「何を……」

 吉田は痙攣するように震えている。

 トラックが目と鼻の先に近づいたそのとき、髪の毛をつかんだまま、吉田を道路へと力一杯投げ飛ばした。吉田の金髪がぶちぶちと音を立てて抜けた。

 吉田の、何か信じられない、というぽかんとした表情が見える。

 直後、トラックの腹の下に吉田は吸い込まれた。

 トラックが急ブレーキをかける。耳をつんざくようなブレーキ音と同時に、まるで木材が二つに捻じ切られたような断裂音が聞こえた。トラックがそのまま横転する。

 横倒しになったトラックの前輪はいきおいよく廻り続けていた。

 原形を留めない血に塗れた肉の塊が道路中央に転がっていた。

 いつものアナウンスが流れる。

『ターゲット マッショウ カンリョウ ストレス ショウメツ』

 ほどなくして、悪夢のような光景から目が覚めた。

だが、おかげで腹痛は治まったのだ。SDGさえあればなんとかなる。どん底の精神状態であったが、少し気が楽になった。

 それでも里美を許すことはできない。

 夕方になって外へ出た。里美のバイト先へ自転車で向かう。里美と会って、直接、問いただすつもりだった。

 レジに里美はいなかった。店内を見渡すとバックヤードから出てくる里美の姿をみつけた。その隣には西田がいた。腹が痛む。

 里美が一人になるのを見計らって声をかけた。

 突然現われた修一の姿に里美は驚いていた。

「里美、ちょっといいか?」

 里美を外に連れ出そうとした。

「えっ、でも……もう休憩時間終わるから……」

「少しで終わるから」

 修一はかたくなに言った。

「わかったわ……ちょっと待ってて……」

 里美は修一の態度に気おされたようだった。一度、レジに行き、すぐに戻ってきた。二人で店の外へ出た。

「昨日、どこへ行ってた?」

「えっ? 電話で言ったじゃない。友達の家よ」

 里美は平然と言う。

「見たんだ。西田と一緒にいただろ。二人で車に乗ってた」

 里美の表情が急に青ざめた。

「違うの。暗くなって危ないから家まで送ってもらっただけなの」

「里美の家とは逆の方向へ走っていった」

 修一は間髪入れずに答えた。

 里美は何も言わずうつむいた。

「信じてたのに……なんでこんなことするんだ……?」

「もう好きじゃないの……」

「えっ……?」

 里美の言葉に耳を疑った。

「あなた、人とは違う……怖いのよ……」

「怖い……?」

 怖い──? 里美が俺を恐れている。思いがけない言葉だった。

「夜、一緒に寝ていると急に暴れだすの。寝相が悪いとかそういうレベルじゃないわ。起き上がってまるでナイフを持っているかのように振り回すの。すごい形相で。死ね、死ね、死ねって。それが一度や二度じゃないの……。私、怖くて怖くて……。自律神経失調症どころじゃないわ……もしかしたら奇妙な精神病かもしれない……」

 言いすぎたと思ったのか、里美はそこで口をつぐんだ。

「さよなら……」

 そう言うと、そのまま里美は背中を向けて走り去ってしまった。

「里美! 待ってくれ!」

 里美を追いかけて、店の中に入った。

 懸命に追いかけたが、里美はバックヤードに消えてしまった。

 修一は呆然と立ち尽くした。ふと、視線を感じた。

 売場の奥の方から修一を見ている一団がいた。四、五人が集まって、こそこそと話をしている。バイトの人間たちだ。その中には西田の姿も見えた。

 あの男が里美に適当なことを吹き込んだに違いない。俺たちは愛し合っていたのに──。

 すべてあいつのせいだ。

 修一はその一団をにらみつけた。西田が周りの人間に耳打ちしている。それを聞いて全員がヘラヘラと笑っていた。

 あいつら全員で里美を騙しているに違いない。絶対に許さない。

殺してやる──。

 ストレス指数は全員が八十以上を示している。西田にいたってはストレス指数が九十八まで上昇した。同時に赤い影が映し出される。

 修一は全員をロックオンした。

 やり場のない怒りを抱えながら家路についた。

 その間、怒りに身を任せながらも何かがひっかかるような気がしていた。それが何なのかはわからなかった。

 自分の部屋にもどり、ふと机の上を見た。そのときはじめて自分が重大なミスを犯したことに気づいた。 机の上に置いてあるのはSDGの説明書だった。

 注意事項の欄を見た。

 

 ※注意事項


 一日の使用は三回。それ以上の使用は機械の故障を招くおそれがあります。ご注意ください。


 使用は一日三回までと書いてある。俺はさっき五人の人間をロックオンした。

 全員分のシャッター音を耳にしただろうか──?

 どうにも記憶が曖昧でわからない──。少なくとも二人目までは聞こえていた──。

 電源ボタンを押してみた。いつも聞こえる細かな動作音がない。風景も透明のままで、いつまでたっても青くはならない。電源を何度も押してみたが、結果は変わらなかった。説明書にはトラブル時の対処方法などはいっさい書いてはいない。

 事の重大性を理解した途端、さーっと血の気が引いた。

 SDGが使えない。SDGがあるからこそ、今まで心の安定を保つことができたのだ。

とてつもない不安感で胸が押し潰されそうになる。

 どうにかしなければ──。

 あっけなく簡単な解決方法を思いついた。同じものをネットで買えば良いのだ。

修一はパソコンを立ち上げた。

 SDGの購入サイトは偶然みつけたものだ。ブラウザのお気に入りには入っていない。しかたなく以前の履歴を追った。根気のいる作業だったが、ようやく購入サイトと思われるアドレスを見つけた。クリックする。間違いない。黒い背景に地味なテキスト。SDGのトップページだ。だが文章を読んで愕然とした。


 お客様各位


 このたびはSDG(ストレス・ディテクター・グラス)購入サイトへご訪問いただき誠にありがとうございます。おかげさまで初期販売予定数量は完売いたしました。次回入荷は未定となっております。詳細がわかりしだいこちらでご案内いたしますので、またのご訪問をお待ちいたしております。


 完売──力が抜けた。しかも次回入荷は未定と書いてある。予約だけでもできるかと思ったがそのようなリンクボタンは見つからなかった。販売元の連絡先も書いていない。お手上げだった。これではいつ手に入るかわからない。二度と手に入らない可能性だってありうる。

 目の前が真っ暗になった。

 突然、腹に激痛がはしった。腹を抱えてうずくまる。家の中にいるのに、まるでぎゅうぎゅうづめの満員電車に乗っているような、強烈な不安感が修一を襲った。トイレへ飛び込む。

すべてを出しつくしても腹痛は止まなかった。水分を出しつくしたため、体がふらつく。

 のどが渇き水を飲むのだが、それがそのまま下から出てしまう。

 症状以上に、発狂してしまいそうなストレスが体中を取り巻き続けている。

 夢の中で人を殺すことによって消滅させてきたストレス。その無数のストレスが蘇り、修一に襲い掛かっているようだった。

 今すぐにでもストレスを軽くする方法を考えなければ狂ってしまうかもしれない。本気でそう思えた。

 修一は腹の痛みに耐えながら必死に考えた。

 西田たちをロックオンしたときのことを思い出していた。

 たしか二人目まではシャッターの音が聞こえた。二十四時間以内に睡眠をとればあの二人は殺害できる。そうすれば少しはストレスが解消されるにちがいない。

 今すぐにでも寝て、あの二人を殺さなければ──。

 そう思うと同時に、ベッドの上でふとんにくるまった。

 無理に目をつむり眠ろうとするが妙に頭がさえる。

 思考が寸断されない。

 これがおそらく最後の殺害になる。ストレスの消滅効果が最大限になるような殺害をしなければならない。ロックオンしたのは二人。相手はだれだったか──二人のうちどちらかが西田であれば良いが──違えばそれほど多くの消滅効果は期待できない──ん? 待てよ──どうして二人なんだ──? 一日に三人までロックオンできるはずだ。今日は昼過ぎに起きて、そのまま里美の元へ向かった。あのときがはじめてのロックオンなのだ。そうすると二人ではなくて三人をロックオンしたのかもしれない

 あのときの光景を必死に思い浮かべる。

シャッター音は間違いなく二人分だけだと確信が持てる。

 一つの可能性に思い至った。

 里美に別れを言い渡されたあのとき。

無意識のうちに里美をロックオンしたかもしれない──。

電源は入っていただろうか──? シルエットはかかっただろうか──? 里美の言葉が受け入れられず、あまりのショックで無意識のうちに、そのような奇行へと及ぶ可能性は否定できない。

 それなら二人分しかシャッター音がならなかったことへの説明にはなる。

 里美を殺す──。

殺害してしまえば相手への関心はゼロになるのだ。里美への想いもまるで最初から存在しなかったかのように一瞬にして消えてしまう。

 だが――この身をよじるような体調不良は里美のせいでもあるのだ──里美を殺すことがこの地獄から抜け出るための一番効果的な方法なのかもしれない。

 修一は頭を抱えた。

自分はどうするべきなのだろうか──?

自問自答は続く。

 良く考えてみろ。もしも俺のことを本当に好きなら、たとえ誰に余計なことをふきこまれたとしても、揺らぐことなく想いつづけてくれるはずだ。あいつは病気のことを理解していると言っておきながら、あのとき俺を精神異常者よばわりしたのだ。しょせんあの女はそれほどのものでしかないのだ。

 体を治して元気になれば、またいい女が現われるにちがいない。

 修一は里美を殺すことに決めた。

 そのためには、とにかく睡眠をとらなければならない。

 すぐベッドに入り横になった。

 だが眠れない。

 腹の痛みのせいもあるが、どうにもおかしい。

 体はだるいのだが、それが眠気につながらないのだ。もう、朝になろうとしていた。

 カーテンの隙間から朝日が射しこんでくる。時計をみると午前七時になろうとしていた。

 時間がない。二十四時間以内に睡眠をとらなければロックオンの意味がなくなる。

 そのまま眠ることができずに時間だけが過ぎた。すでに午前十一時をまわっていた。修一は焦っていた。

昨日ロックオンしたのは、午後の三時だ。二十四時間以内に三時間の睡眠が必要なのだ。遅くても昼の十二時には寝ていなければならない。

 急に吐き気がして、トイレへ走った。嘔吐した。この一日で何度トイレへ行ったかわからない。ストレスの影響は腹痛だけにとどまらなくなっていた。

早く寝なければ――。

あせりながらも、頭はぼうっとして意識は朦朧としている。

 だが眠れないのだ。

 おかしい。

 修一はある一つの可能性に気づいた。

 俺はすでに寝ているのではないだろうか──? 

それに気づいていないのだ──。 

二十四時間近く寝ていない。これほどの長時間、眠くならないわけがない。すでに寝ていると考えた方が自然だ。

 そうだ――そうにちがいない――。

俺は、眠ることができないという夢をみているのだ。

いつもの夢と何か違うような気がしたが、考えないようにした。

 そうとわかったら早く里美を殺しに行かなければならない。

 修一はふらつく体を起こして外に出る準備をした。押入れの奥の方から子供のころに使っていた木製のバットを取り出す。

 自転車のかごにバットを入れて、スーパーへ急いだ。

 店につくと、かごからバットを引き抜き、店内に入る。

 携帯を見る。ちょうど十二時だ。レジに里美の姿を探す。里美はいない。まだ売場にでてきていないのだろうか? 店の客がバットを手にしている修一をじろじろと見ている。

 かまうことはない。どうせ夢なのだ。

 店の奥を見た。

 里美が見えた。ちょうどバックヤードから出てくるところだった。

 アドレナリンが分泌される。里美をめがけて走る。バットを構える。あともう少し。里美が修一に気づく。しかしもう遅い。振りかぶる。そのままのいきおいでバットを里美の顔面へ──。

 寸前で修一の体はあらぬ方向へと吹き飛ばされた。加工食品の什器に頭から突っ込む。派手な音をたてて商品が床に散らばる。修一には何が起きたのか理解できない。とにかく里美をバットで殴ろうとした瞬間、何かが体にぶつかってきて吹き飛ばされたのだ。

 頭を抱えながらぶつかってきた何かの方をとっさに見た。

 西田がすごい形相で修一を睨みつけていた。

 里美は西田の背後に隠れていた。

 西田が近づいてくる。髪の毛をつかまれて強引に立たせられる。

 殴られた。床に背中をうちつけた。息ができない。鼻の奥が熱い。

 ぽたぽたと床に赤いしずくがたれている。右手で鼻をさわる。手のひらを見ると真っ赤だった。また西田が近づいてくる。みぞおちを思いきり蹴ってきた。息ができずにのたうちまわる。床に嘔吐した。吐瀉物と涙が床に広がり血だまりに混じる。

 いったい、どういうつもりなのか──俺はただ里美を殺してストレスを解消したいだけなのに。意識が朦朧とする中で周りを見る。ひとだかりができているが誰も修一を助けようとはしない。このような状況で、修一はおかしなことに気づいた。皆、メガネをかけているのだ。その人間たちの視線が一斉に修一へと降り注がれる。

 同時に皆が三回まばたきをしたのが見えた。


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